捌 もうだいぶ時間がかかっているのに

 卒業制作は千代さんという絵を描かせてくれた女の人と、雅邦先生の絵を参考にして仕上げることができた。

 太平記にある北山殿きたやまどの謀反 むほんの事。後醍醐ごだいご天皇暗殺を企て斬首された西園寺さいおんじ公宗きんむねの話を元にしたのだけれど、物語そのままの謀反の場面を描いてはいないんだ。


 妻、日野ひの名子めいしの不安な様子と、生まれたばかりの無邪気な子どもを対比して、その横にはもうすすけた武具しか残っていない夫。

 この家族の場面は、まだ外からは戦の喧騒けんそうが聞こえてくる残された者の不安や緊張の瞬間を描いたものだ。容赦のない戦いの無情。栄耀栄華えいようえいがも永遠には続かない世のはかなさを表現できたと思っている。


「……めてるようだな」


 腕を組んだままの神来さんがそう言って僕を見る。

 卒業の可否を論ずる評定ひょうていは、もうだいぶ時間がかかっているのに一向に終わらない。時々くぐもった荒い声が聞こえる。僕の『寡婦かふ孤児こじ』はどうなるんだろう。

 しばらくするとガチャリと音を立てて扉が開いた。


「とにかく一度休憩しましょう」


 下村先生の声だ。声に続いて先生方が部屋から出ていかれる。


「どうでも私の意見は変わらんからな」


 福地ふくち先生が、気になる言葉を残して背を向けられた。その後ろ姿に黙って頭を下げた下村先生は、ため息をついてこちらを振り向く。


「君達そんな所にいたのかい。当分、結論は出なさそうだよ」


 僕らを見つけると下村先生はそう言って伸びをした。だいぶ疲れた顔をしてるなあ。

 それを聞いた近くにいる学生何人かは、そのまま空いている教室に入っていく。やっぱり発表まで待つつもりらしい。


「まだここで待つかい」

「ええ、どこで何をしてても気になってしまうし、ってそれは神来さんも同じでしょう?」


 僕らも教室に入ろうとしたところへ先生方が戻ってこられた。慌てて頭を下げると、何人かは苦い顔のまま通り過ぎていかれる。

 なんだろう、なにか嫌な予感がする。


「待っててもいいけど静かにね」


 扉に手をかけた下村先生は小さな声で言うと静かにそれを閉じた。


「では、評定の続きを」


 あれ? さっきより話が聞こえる。そう思って神来さんを見ると、頷いて僕にささやいた。


「下村先生、少しだけ開けてくれたんだな」

「それ、駄目でしょう」

「静かにって言われたろ」

「……はい」


 僕らは黙って扉の向こうのやり取りに耳をすませた。


「やっぱり落第だね。化け物絵を描くようじゃ美校の評判にも関わる」

「なんてことを言うんですか! 私にもこんな絵は描けない。これは画期的な絵なんですよ」


 雅邦先生の声だ。普段は物静かなかたなのに、大きな声をあげられるなんて。


「どこがだ。この汚い絵のどこが画期的なのか教えてほしいものだ」

「全体から受ける主題の重さは命を題材にしているからでしょう。それは受け手にきちんと伝わります。技術も申し分ない。特によろいの精緻さは素晴らしいものです」


 ああ、雅邦先生はひとつの作品に対して、こんなにも細かなところまで見て褒めてくださるんだなあ。


「主題をいうなら真ん中の女だろう。薄ぼんやりとして気味が悪い。不気味な作風は卒業制作に相応ふさわしくない」


 ざわざわと、それに賛同する声が聞こえる。


「技法にも統一性がないが、描線びょうせんの多様さや身体の曲線は悪くないな」

「卒業制作だからこそでしょうね。学習の成果を盛り込むのは当たり前のことですし」

「人物の表情も全体の色調も薄暗い」


 これは、もしかしたら……


「母子の情愛は感じられますよ。赤子はしっかり抱かれているし、この安心した表情はいいじゃないですか」

「悲壮感が生々しすぎる。だから化け物絵だというのがわからんのか」

「そこは人間のありのままの感情を表現したということでは」

「背景の光と影の描写はいいですね。西洋画の表現を取り入れてみたのでしょう。これこそ学習成果ではないですか」


 そういう、ことか。途中から薄々感じていたのだけれど、これは僕が描いた『寡婦と孤児』で揉めてたんだ。

 反対しているのは苦い顔つきだった福地先生か。雅邦先生がどれだけ言ってくださっても、どうにも自説を覆しそうにない。なるほど、下村先生が当分決着はつかないと言うわけだ。


 延々と繰り返される擁護ようごと反論。時間が経つごとに気持ちが落ち込んでくる。

 議論の中に足音と扉を叩く音。その後に声が続く。


「評定は終わったかね」


 僕はぼんやりと顔を上げた。


「岡倉先生、いつお戻りに?」

「たった今だよ。私も評定が気になっていてね。急いで戻ってきたんだ」


 ああ、岡倉先生が戻られたのか。


「決まったかね? やはり優等は『寡婦と孤児』かい」

「岡倉先生!」

「貴方はこの絵に優等をつけるつもりですか! こんな化け物絵に」

「福地先生、化け物絵はないでしょう。この一場面を、時間ごと切り取ったような巧みな描写だ。空間の処理もなかなか見事じゃないですか」

「実はまだ意見が割れていまして……」


 遠慮がちな下村先生の声に岡倉先生が応えられた。


「ふむ、そうか。では、私が校長として『寡婦と孤児』に優等第一席をつけよう」


 いきなり何なんだ、勝手だ、と評定の場に怒号が溢れる。


「横暴ではないですか。貴方の意見だけで決まるのなら私達の評定は無駄ということですか!」


 福地先生の叫び声が悲愴なまでに聞こえてくる。僕はただただ混乱していた。


「ここまで長い時間をかけて評定を続けたなら意見も出尽くしたでしょう。であればこそ、私は校長としての権限でこの作品を最優等とします」

「では、決まりですね」


 宣言するように、少し大きな下村先生の声がした。


「優等第一席は『寡婦と孤児』に決まりました」


 最、優等……? 僕の絵が第一席? 嘘だろう? さっきまで散々な言われようだったのに。

 僕の肩をポンと叩いて神来さんが頷いた。


「おめでとう。鶴の一声、だな」


 本当に岡倉先生が最優等をつけてくださったのか。夢じゃないんだ。

 同期の皆がわらわらと寄ってくる。


「俺は、お前はやるやつだと思ってたよ」

「やっぱり、どこか違うんだよなあ」

「とにかく、おめでとう!」


 わしわしと頭を撫でられたり、肩を叩かれたり、教室で待っていた皆にもみくちゃにされた。


「ありがとう! ありがとうございます!」


 この作品を描いてよかった。僕が描きたいことが伝わったのが嬉しい。雅邦先生が声を上げてくださったのも、岡倉先生が褒めてくださったのも、嬉しすぎて頭の中が真っ白だ。

 僕は岡倉先生の理想とする日本画に一歩でも近づけただろうか。半歩でもいい、そちらに目を向けただけと言われてもいい。今はまだ難しいかもしれないけれど、いつか絶対、先生の理想を描いてやる。



 卒業成績の発表が終わってようやく一段落した。

 さてと、手紙を何通か書かないといけないな。まずは飯田の父上に卒業の報告をしなくては。

 また唯蔵ただぞうすすを集めるように言ってもらおう。あれは面白い色になるんだ。天井裏に登って煤取りをすると真っ黒になってしまうし、仕事をすることになったから残念だけど家に行けない。しゃくだけど、やっぱり弟頼みなんだよなあ。うん、これは仕方がないことだな。


 本当は飯田に帰って直接会って話したい。唯蔵とだって会いたい。煤を取れって言ったら喧嘩になるかもしれないけれどね。一度、帰りたいなあ。

 いけないいけない、せっかくめでたい卒業なんだ。しんみりしてないで前を向こう。駆け出しとはいえ、僕は兄さんの希望だった画家になったんだぞ。


 そうだ! 秀さんにも最優等を取れたことを知らせよう。あの人はなんて言うかな。それとも黙ってて僕も事業で来たんですよって、びっくりさせるのもいいかな。会えたらきっと大きな声で笑って、待ってたぜって背中を叩かれるんだろう。ふふっ、会うのが楽しみだなあ。

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