伍 女の子の話より今は授業の最中でしょう

 秀さんが言ってたように、二学年以上は授業によって違う学年と一緒になる。

 とある日の午後、写生帳を手に校舎を出た僕らはぞろぞろと校庭を横切っていた。


「今日は本当にいい天気だなあ」


 先輩のひとりが伸びをして言った。


「そうですね。草木の写生には今日みたいな日は本当にいいですね」


 僕がそう言うと妙な顔で見返された。


「なに言ってるんだい。こんな日に女の子と出かけたらいいだろうなって話だぞ」

「はい?」

「ああ、こいつは駄目っすよ。そういうの、ぜんっぜんうといんで」


 神来さん? どういうことだよ、女の子の話なんてしてなかったじゃないか。


「みたいだなあ」


 晴れ空の下を歩く僕達は、しかめっ面でそんな話をしている。

 今日みたいな日は先輩の絵を見せてもらえることもある。それがとても参考になるんだ。それを楽しみにしていた僕は女の子の話より今は授業の最中でしょうと返した。


「これだから朴念仁ぼくねんじんは」

「まったくわかってない」


 まあまあ、と皆をなだめた秀さんは僕に言う。


「ミオさんも、もうちょっと頭を柔らかくしてもいいんじゃないか」


 なんで苦笑いなんだ。

 別に僕は女の子が嫌いとか、そんなことを言ってるわけじゃないんだぞ。まとわりついてうるさいんだから面倒なだけなのに。


「実は男が好きなのか?」


 ああ本当にもう! 去年、教室から先輩方を見た時に真面目な話をしているだなんて思っていた僕が馬鹿だった。


「一年生が見たら、僕らはきっと絵画についての議論をしているんだろうな、なんて思われてるんですよ。もっと真面目に……」


 むきになって秀さんに詰め寄った。


「おう、もちろん真面目な話さ。描く対象を草木だけに限らず、人物にまで広げてみたらって話じゃないか」

「あれ? そういうことでしたっけ」


 首を傾げる僕と真面目くさって頷く秀さん。僕らを見ている周りの皆が肩を震わせている。

 いろんなことを丸々誤魔化されたような気はしたけれど、秀さんにかかるとそれさえ面白く思えてくるから不思議だ。


「さてと、俺はこの辺りにしよう」

「僕はもう少し他を見てきます」

「おう! またな」


 他の人達も三々五々、腰を落ち着けて描き始める。僕もようやく筆を取り描き始めた。

 小さな野の花がたくさん咲いている。撫子なでしこは特に江戸の頃などは栽培も盛んで、品種の改良も大いに流行ったと聞く。花弁の長く伸びた背の高い種や、小さい一重咲きのもの。いろんな形があって面白い。花弁の鋸歯のこばを丁寧に写し取る。茎はすっきりと伸ばす。こっちの小さいのは笹の葉のようだ。描いてみよう。丁寧に、あるがままに。

 黙々とその姿を写していた僕は、ふいに揺れた花に熱中ぶりを笑われたような気がして手を止めた。


「おーい。ミオさん、そろそろ時間だぞ」

「あ、はいっ! 今行きます」


 立ち上がった途端、筆が転がり落ちた。慌てて拾い上げると風が揺れくすくすと花が笑う。そんなに笑わなくてもいいじゃないか。君らを描いていて楽しかったよ。

 またおいでと言う小さな花を振り返る。それじゃまたねと僕は唇の端を上げ、その場から駆け出した。

 絵を描いている時間はあっという間に過ぎていく。なぜだか楽しい時間というものは蒸気機関のような早さで通り過ぎていってしまうんだ。




 美校もできたばかりの学校だから、方針は変わらないけれど授業課程や編成が変わることがある。僕も日本画の専修科から普通科に編成替えになって、そして今度は分期教室というものが作られた。


 第一教室「巨勢こせ、土佐派、古代より中古に行われたる画派を主としたるもの」


 第二教室「雪舟せっしゅう、狩野派、足利時代及び徳川前期に行われたる画派を主としたるもの」


 第三教室「丸山四条派、徳川前期に行われたる書画を主としたるもの」


 大雑把に言えば、第一は伝統的なやまと絵、第二は狩野派、第三は写実的な絵か。

 貼り出された分期教室の内容を見て僕らはずいぶんとざわついた。それはそうだろう、この中から自身の創作の主軸に据えるものを選べってことだろうから。少なくとも積極的に学んでいきたいものを選ばなくてはならない。


 僕はもう決めているけれど皆はどうするのかなあ。

 掲示板の前で腕を組んでいた秀さんが、よう、と手を上げた。


「ミオさんはもう希望を出したのかい」

「はい、雅邦先生の第二教室に」

「だよなあ。これ皆、第二に希望を出すんじゃないか」


 日本画といえば狩野派というくらいだから、学生の作風はそれに寄っているものが多い。第二への希望が多いだろうな。

 伝統的なやまと絵にも、丸山まるやま応挙おうきょの絵にも惹かれるものがあるけれど。僕は雅邦先生の言われる、絵に対しての「こころもち」を第一にという考え方を大切にしたい。それに先生のお人柄も厳しいけれど温かくて好きなんだ。


「そうですね。均等に分かれるのは難しいでしょうし、人数の少ない教室もそれはそれでどうかと思いますし。どうなるんでしょうね。僕もできたら第二に行きたいんですが」


 そこまで話して岡倉先生に呼ばれているのを思い出した。

 僕は、いってきますと秀さんに声をかける。


「おう」


 秀さんは言ったきり腕を組んでまた掲示板を睨みつけている。

 しばらく掲示板の前は騒がしいだろう。そう思いながら校長室に向かった。


「やあ菱田君、よく来てくれた。そこに掛けたまえ」

「失礼します」


 岡倉先生は僕の目の前に座ると、前置きもなしに思いがけないことを言われた。


川端かわばた玉章ぎょくしょう先生の第三教室で描いてみないかね」

「第三、ですか。僕は橋本雅邦先生の教室でと思っているんですが」

「うむ。確かに第二でも学べることは多いし、君が橋本先生を慕っているのもよくわかる」


 わかっておられるならどうしてなんだろう。僕はもっと雅邦先生の下で描いてみたいんだけど、なんで第三教室なんだ。


「君にはもう一段階踏み込んで写生を軸に学んでほしい。色々と手法を学んで、君の中の創造性を引き出してほしいのだよ」


 小さくまとまってほしくないのだと先生の目が僕に向けられる。なんだか心の底まで見つめられているような気がしてきた。


「橋本先生の言う『こころもち』とは作品そのものの主題から感じられる画家の思いだろう。対して応挙のそれは写生だ。物事の本質を見極めようとする探究心だね。それがなければ、あの花鳥風月の素晴らしさ、装飾性豊かな画面の創造はなかっただろう」


 悩む僕におかまいなしに続けられる先生のお話は、まるで怒涛のように僕を押し流す。


「応挙の流れを汲む川端先生に学ぶことは、君にとって大いに意義のあることだと思うのだ。狩野派の技術だけでなく、他のものからも学んだ上で描かれた君の絵をぜひ見てみたい。君ならたとえ人物に写実的な要素を取り入れても西洋画に寄ったりはすまいよ」


 僕は言葉の奔流に溺れそうになっていた。ようやく言葉を止められて僕はやっと息を継ぐ。その息継ぎの一瞬間いっしゅんかん、先生はまるで夢を見るような目をされた。

 なんだか少年のようだな、なんて思ってしまった。夢を見て、その夢は掴めるのだと信じていて、だから実行するに何の躊躇ちゅうちょもないんだ。僕は一瞬見た先生の目を宝物のように心に焼きつけた。


「私はね、日本画という芸術を世界的なものにしたいと思っている。ぜひ西洋画に劣らない作品制作をしてほしい」


 身体が震える。こんな風に期待をかけてくださっているなんて思ってもいなかった。身を乗り出して話される先生の眼差しは真剣で、日本画の未来を遠く見据える思いの熱さが胸に響く。

 浮世絵が西洋の画家に受け入れられたように、これからの日本画も世界に受け入れられるのかな。もし先生の思いを描けたら、僕の描く絵もそうなるのかな。さっきから身体の震えが止まらない。ああ、これはきっと武者震いというやつだ。


「どうかね、私は君にならできると信じている」


 先生の思い描く理想を実現してみたい。これは是が非でもやってみたい。


「僕は……」


 迷いを振り切って返事をお伝えした。

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