肆 やっと美校の生徒らしく絵を描ける
そうして線ばかり書く毎日の中、僕はあの横山という人を探すともなしに探していて、実のところ早々に彼を見つけていた。
あの声はよく通るし、笑い声の中心にいるのは大抵あの人だったから。さすがに上級生の中に入っていける勇気はなくて、それをちょっと残念には思った。
というか、本当はそのことよりも線だらけの毎日でそれどころではなかったんだ。あれは一日が終わると目も腕も本当に疲れる。おまけに錬逸の家まで一時間はかかるんだもの。帰って倒れるように寝てまた学校で書く。そんな毎日には全然余裕がなかったんだ。
それでも基本のひと月が過ぎて、僕にも線を描くということが少しずつわかってきた。いつか感謝するという先生の言葉の意味が、初めて理解できたように思う。
これでようやく美校の三本柱に取り付くことができる。古画の模写、写生、新案制作。やっと美校の学生らしく絵を描ける。もちろん絵の基礎も、歴史も和漢文もやるのだけれど。とにかく絵が描けるんだ。絵を描ける毎日は楽しくて仕方ない。
「できた」
課題画をひとつ終えて筆を置く。神来さんは僕の絵を覗き込んで、こりゃ
今回は雅邦先生のお手本を見ながら描いたんだ。狩野派の絵は
なかなかに大変だったけれど、少しは雅邦先生の絵に近づけたかなあ。
「『
神来さんは絵を見ながら言った。
「これ構図も先生の手本と同じなのかい。ほとんど模写じゃないか」
「雅邦先生の表現と、他にもいろいろ研究してみたんです」
美校に入る前に日本画を描いていた人は多い。神来さんみたいに
「そうか、ここまで先生の筆を研究するか。うん、俺はいいと思うぞ」
「ありがとうございます」
試業成績用に一点、学習成果を提出したから次はもっと古画の研究もしたい。岡倉先生は保護事業と教育の両面から、とにかく古画の模写を勧めてくれている。色や線の使い方、技法のひとつを取っても学ぶことは多い。ありがたいことに、これには特に多くの時間が割かれていた。
「……もう少しで終わりますから」
その時、入り口に人の気配を感じた僕は早手回しにそう言った。
後ちょっとだけ描きたいんだ。ここで邪魔をされたくはない。さっさとその人物を頭から消して模写へ集中する。
古色を作り出し画面に置く。ここはもうちょっと暗い色。これはもっと濃い緑。古画の退色した様が経過した時を伝えてくる。そうだな、あと百年ほど色を退けて。写し取った線画に古い色を乗せる。描きあがった絵はまだまだ新しさが匂うようで今ひとつ納得がいかなかったけれど。とりあえず今日はここまで、と僕は筆を置いた。
もうちょっと色を工夫しないといけないなあ。後、ほんの少し色を……
「よくその色を無造作に作るな」
「わっ!」
まさか人がいるとは思っていなかった。急に聞こえた声に飛び上がって、その辺にあった物を倒してしまう。がたんと音が大きく響いた。
「ああ、すまない。驚かせてしまったかい」
「あ、あなたは」
ばくばくと煩い心臓を押さえて顔を上げる。
「横山、さん?」
「おう、君は結城先生のとこにいた菱田君だろ」
そう言って横山さんはニカッと笑った。
「最近、模写の上手い奴がいるって評判になってるからさ。見学に来たんだよ」
「け、見学? 評判って、僕がですか?」
「知らないのかい」
「知りません。なんで僕が……」
それだよ、と横山さんは絵を指差す。
「その古画の色、よくさらっと出せるな。皆、結構苦労してるんだぜ」
「そうなんですか」
「その色彩感覚は稀なもんだと思う。俺も勉強させてもらいてえくらいだ」
「あ、ありがとうございます!」
驚いた。こんなに褒めてもらえるなんて。明日、もう少し工夫してみよう。なんだかもっとやれそうな気がしてきた。
さて、と横山さんは手を叩いた。
「続きは明日にしよう。鍵閉めてもいいかい? 当番なんだ」
「すみません、今片付けます」
探すともなしに探していた人とは、こうしてまた出会った。知ってて声をかけてくれたってことは、もしかして横山さんも僕を探してくれてたのかな。それなら嬉しいなあ。
鍵を閉めた教室を後にしながら、次は一緒に描ける機会もあるぞ、と横山さんが話してくれる。途切れない会話に気遣いを感じながら、僕は兄さんみたいだなと余計に嬉しく思った。
「ん? どうしたんだい」
「いえ、なんだか、うちの兄に似ているなと……すみません」
「いやあ、謝ることはないさ。俺も英語学校とか、あちこち行ってたからそういう
「え?」
ちゃんと名前を聞いていなかったから、と横山さんが言う。
「俺が兄貴なら菱田君って呼ぶのは変だろう?」
「あ、あの、僕は菱田三男治といいます」
「三男治……じゃあ、ミオさんだな」
「はい、家族にはそう呼ばれてます」
「あっははは! ますます兄貴っぽくなっちまった。俺は
「はい……秀さん、よろしくお願いします」
「よろしくな、ミオさん」
それからというもの、なにかと話す機会が増えて彼は本当に兄さんのように僕に接してくれた。
なんだか僕の周りは兄さんみたいな人が多いような気がするなあ。
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