参 合格しました!

 はあ、はあ、と息を切らして走る。

 僕は合格の報を持って あにさんの元へ走っていた。


「兄さん!」


 下宿に辿りついて兄さんを呼ぶ。


「兄さん、合格しました!」

「おお! おめでとう、ミオさん。がんばったな、おめでとう!」

「ありがとうございます」

「さっそく父上にお伝えしないとね」


 兄さんがうろうろと歩き回って落ち着かないなんて初めて見たよ。僕以上に喜んでくれて本当に嬉しい。


「手続きもあるし、これから忙しいぞ」


 そう言ってくれた兄さんはもういつもの兄さんだったけれど。

 ああ、やっと願いのひとつを叶えられたんだな。学校ではもっとがんばらなくちゃ。僕は画家になるんだから。心がそわそわして止まらない。なにをするでもなく立ったり座ったりしている僕を兄さんがにこにこ笑って見ていた。


「実は話があるんだ」


 僕が落ち着くのを待っていた兄さんが改まって言った。


「九月から熊本第五高等中学校で教えることになったんだよ」

「すごいな、兄さんもおめでとうございます」

「ありがとう。だがここも引き払わなくてはならないんだ」


 そうか。僕は居候だから兄さんがいなくなったらここにはいられない。


「学校から少し遠くなってすまないが、高橋家にお世話になれるよう頼んでおくよ」

錬逸れんいつのとこ? ありがとうございます。錬逸なら平気だ」


 飯田にいた時も従兄弟の間では仲がよかったから、あいつのところなら気が楽だ。


「なるべくご厄介をかけないように。悪いね、すぐに下宿先を見つけてあげられなくて。できれば早めに探すんだよ」

「わかりました」


 入学準備に僕らの引っ越しにと、あっという間に日は過ぎて入学まであと数日を残すだけになった。


「ミオさん、写真を撮りに行こう」

「兄さん? どうしたの、急に」

「いや、入学の記念にさ。せっかく制服があるんだからそれを着て写真を撮ろう。父上に送って差し上げたいんだ」


 そう言われて僕に反対する理由はない。

 制服に着替えて写真館へ行くと、写真師はしげしげと僕の格好を見た。


「ずいぶんと時代がかった制服ですね」


 やっぱり珍しいものなのかな。兄さんにもそう言われた。


「ええ。伝統的美術の保養のために新設された美術学校なので、制服もそれに合わせたものなのでしょうね。中々見ることもないでしょうから記念にと思いまして」

詰襟つめえり角帽かくぼうは撮影しましたが、ほうというのは初めてです」


 写真機の後ろで兄さんと写真師が話をしている。

 僕はちょいちょいと制服の袖を引っぱってみた。僕が知らないだけで東京なら他にもこういうのがあるんじゃないの? 一年いたって僕にはまだ珍しく思うものが多いんだから。


「では、そのままで」


 写真機の前に立って、しばらくこのまま動かずにいなくてはならない。露出とかいうものの為に時間がかかるんだ。


「はい、終わりましたよ」

「ありがとうございます」


 この制服は校長の岡倉おかくら天心てんしん先生が奈良時代の役人の服装を参考に作られたものだそうだ。特別な理由で作られたなら他にもありそうな気がするのだけど。ううん、よくわからない。まあいいか。それより入学前だから汚さないように着替えたいな。

 早く帰ろうと兄さんをつつく。


「二枚お願いします」

「あれ、一枚じゃないの?」

「私も持っていていいかな。弟の晴れ姿なんだから」


 兄さんに言われて僕は口元が緩む。ふふっ、嬉しいなあ。


「熊本に持って行ってくれるの? 仕方ないなあ、兄さんは寂しがりなんだから」


 笑った兄さんがポンと僕の頭に手を乗せた。ああ、これもしばらくできないんだな。そう思ったら僕もちょっと寂しくなってしまった。




 数日後、晴れて美校に入学した僕はこの昔風な制服を着て通い始めた。


「おはようございます」


 教室の空気はいつものように暗い。


「はああ……」

「朝からため息つくなよ」

「だってよう。この妙な制服のおかげで通学の間中、じろじろ見られるんだぜ」

「いい気はしないよなあ」

「復古主義にも程があると思うんだ。俺らは公家じゃないっつうの」

「袍ってなんだよ、袴でいいだろ。そっちのほうが楽なのに」

「帝大は角帽だろ。詰襟に外套マントでさ」


 そして最後に皆で言うんだ。


「バンカラなのもいいよなあ」


 この言葉とため息で会話を締めるのが毎朝の日課になっている。実はこの制服、学生の間ですこぶる評判が悪い。


「もう学校で着替えることにするよ」

「ああ、いいな! 俺もそうしよう」


 揶揄やゆされるのが、気持ちのいいものではないっていうのはわかる。そこは周りの話にもうんうんと頷いた。

 だけど僕が服装に頓着とんじゃくしないせいか、皆がそこまでこだわる理由がよくわからない。だって結局は先生も含め美校の中では全員同じ服なんだからどうでもいいじゃないか。

 そう言ったら呆れたような顔をされた。


「お前は! どうして気にならないのか逆に聞きたいわ!」

「これだから顔のいい奴は」

「俺達はなあ!」

「この格好だと女の子にモテないって言ってるんだよ!」


 あっ、そういうことか。確かに袴をつけて短靴ブーツを履くような女の子の隣にこの服は合わない。


「まったく、この朴念仁ぼくねんじんは……やっとわかったか」


 皆に小突かれながら、僕は苦笑いで頭を掻いた。

 でもさ、きっと皆は知らないんだろう。女の子なんて煩いだけだぞ。そんなの妹たちを見ていればわかる。僕はごめんだな。


「授業の準備はできているのかな」


 騒がしい僕らの中に、授業開始の合図と先生の声が混ざり込んだ。

 慌ただしくなる教室の中から窓の外を見ると、晴れ空の下を行く先輩たちの姿。なにか議論でもしているのか難しい顔で歩いていく。あの着崩した様子は格好良く見えるんじゃないか。そんなことを思いながら僕は彼らを見送る。


「さて、授業を始めるぞ」


 先生の声が外を向いていた僕を授業へと引き戻した。

 僕ら一年生は最初のひと月、ひとつのことしかやらせてもらえない。例の懸腕直筆けんわんちょくひつ。結城先生のところでやったあれだ。

 毎日毎日、絵を描くというより線を描く。ただまっすぐな線をひたすら描く。狩野かのう派という画派の修練方法のひとつで、美校ではこれを徹底的にやるんだ。


 ここへ来てわかった。

 僕はまだ全然下手くそなんだってこと。

 基本のこれだって、他の人の線はもっときちんとしている。筆の運びも引かれた線もなめらかで綺麗で真っ直ぐで。僕のはただ線を引いているだけだ。描けているつもりだったけれど、まだまだ足りないんだ。


 先生方がいつかこれに感謝すると言う。基本はおろそかにしてはいけないのは当然のことだ。まして、まだ全然できていない僕は、余計にこれをがんばらなくちゃいけない。

 わかってるんだ、それは嫌という程わかってる。ああ、僕は本当に下手だな。長い時間ずっと自分の拙い線と向き合っているとがっかりしてへこむ。


「目がチカチカしてきたな」


 休憩時間になって、隣で描いていた人が目を押さえながら言った。


「そうですね」


 半ばぼうっとしながら呟いた。


「なんでこればっかりなんだろうなあ、いい加減飽きてきた」


 飽きたなんて言ってられない。大変だけどこれはきちんとやるつもりだし、やらなきゃいけないんだから。


「へえ、そこは愚痴らないんだ」

「僕はまだ下手だから、もっとがんばらなきゃいけないんです。前にも基本をやっていて良くなってきたって言われたから、これはきちんとやるつもりです」

「ふうん、君は真面目だなあ」


 僕の隣にいた人はそう言ったきりまた首や腕をぐるぐる回した。

 始めるぞ、という先生の声でまた筆を取る。


「よしっ、やるか。あ、俺は天草あまくさ神来しんらいってんだ。よろしくな」

「僕は菱田三男治です。よろしくお願いします」


 この人はいくらか年上だろうか。文句は言っていても率先してやるところを見るとこの人こそ真面目な人なんだろう。

 そういえば、さらっと話ができてしまったな。なんだか話をしても全然違和感がない。ずっと一緒にいた人みたいだ。

 この最初の会話以来、僕らは互いに声をかけながら描くようになった。


 この年上の人とは不思議と気が合う。熊本の出身だと聞かされ、兄さんがそちらの学校で教えてることを思い出す。そうすると余計に親しみを感じた。

 僕を気にかけてはくれるけれど、あまりこちらの交友関係に突っ込んでくる人柄ではなかったから、そのこざっぱりとした距離感はなんとも心地がいい。そういう性格が気に入って、僕と神来さんが一緒に下宿を借りようという話になるまで時間はかからなかった。

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