弐 本式に習うっていうのはこういうことなんだ

 結城先生の所へ通うようになってしばらく経つ。最近は使いを頼まれることも増えて、それはちょうど用を終えて庭先を通りかかった時のことだった。


「先生!」

ひでさんかい」


 誰だろう。先生は僕みたいな者を何人か画塾で見ておられるけれど、あまり聞いたことのない声だ。

 伸び上がって垣根の向こうを見てみる。うん? あの背格好は何回か見かけたような気がするぞ。


「はい。この度、東京美術学校に入学が決まりましたのでお礼とご報告に参りました」

「よかったなあ。それにしても、あの短い時間でなんとか覚えてくれるとはね。大変だったろう」

「先生のご指導の賜物です。感謝してもしきれません」


 遠くからでもよく声が通る。

 短い時間でって……ああ、先生が言っておられた人かなあ。確か鉛筆画で受験する人が多いからと、急遽きゅうきょ、毛筆画での受験に変更したって人がいたって聞いたんだ。そんなことで受かるのか、って思ってたけれど、すごいな合格したのか。確か、横山とかいう人だったっけ。


「これからは学校で君の作品を見せてもらうことになるね。皆が最初の一筆ひとふでから始めるのだよ。がんばりなさい」

「はい。こういうものはきちんと基礎から学ばねばならないと、今更ながら痛感しております。この度はご無理を言って申し訳ありませんでした」


 そんな話が聞こえてきたけれど、いくら先生に教えていただいたからって短い間に毛筆画をものにするなど簡単にできるわけがない。顔もよく知らないこの人は、きっと先生の見ていないところでもたくさんの絵を描き続けたのだろうな。


「ところで、お父上のお許しはもらったのかい」

「それが相変わらず大反対でして。ですが、ご教授いただいたことには、きちんと礼を言ってこいと尻を叩かれました」


 画家になるのを反対されてる? 


「まあ、絵を描くのは好きですから精一杯やろうと思っています」


 そのくせ、反対されていることには頓着してなさそうな口ぶりだ。

 どんな人なんだろう。

 興味がわいた僕は、こっそりと話し声に近づいていった。


 初めての人と話すのは緊張するから、真っ正面から会うのは苦手なんだ。だけど反対されても絵の勉強をしたいって言えるなんて強い人だな、なんかすごそうな人だな、って思ったんだ。

 なあに、見つかったら偶然を装って退散すればいいんだもの。そう思って少しばかり勇気を出してみることにした。


 その人はちょうど辞するところだったらしく、もじゃもじゃした頭を丁寧に下げていた。

 これじゃあ顔は見えないか、残念。

 僕は軽く会釈をして通り過ぎようとした。


「おっ、ちょうどいい。秀さん、彼は君の後輩になるかもしれないよ」


 えっ? 先生、引き止められるのは困るよ! これじゃあ、思い切り間近じゃないか。

 負けん気は強いのにな、と頭の中であにさんが苦笑いした。

 き、緊張するのは最初だけだってば!

 焦った僕はぺこりと頭を下げ、それから恐々と目線を上げた。


「おお、来年受けるのかい? 待ってるぞ!」


 弾むような声だった。声の主は明るい子どものような目で僕を見る。好奇心でいっぱいの、あれもこれもと手を出したがる子どものような目。

 目尻をくしゃくしゃにした開けっぴろげな笑顔は、裏表のなさそうな心根をそのまま写してるように思った。


「あの、ええと、僕はまだ受かると決まったわけでは……」

「いいや、受かるさ。先生も後輩になるとおっしゃっているじゃないか。なんなら俺も保証するぞ」


 僕の絵を見たわけでもないだろうに、そう言った大きな手に背中を叩かれた。

 何なんだ、この人は。豪放磊落ごうほうらいらくというかこだわりがないというか。内にこもりがちな僕とは対極にある性格だな。


 もう一度、待ってるからなと言って豪快に笑い、僕がぽかんと口を開けている間に手を振って帰っていった。

 つられて手を振っている僕を見て先生が笑う。


「快活なやつだろう?」

「はあ、なんと言いますか、開けっ……明るい方ですね」

「あっはっは、違いない。だが彼はこれからが大変だぞ。入学した後は、日本画というものの基礎知識から何から全て身につけなくちゃならんのだ」


 それはもしかしたら、僕よりもだいぶ大変なことなのではないだろうか。

 僕も小学校高等科までで描いたのは、簡単な水彩画くらいで本格的な絵のことはあまりよく知らない。だから今から少しずつ先生に教えていただいている。


 知識も技術もほとんどないのにその世界に飛び込もうなんて、多くの人は考えもしないだろう。僕がこれから行こうとしているところには、あんな人もいるんだ。他にもすごい絵を描く人はたくさんいるのだろうな。これは負けてはいられないぞ。


 為吉兄さんは、絵を描きたいけれど自分は惣領だから、と僕に思いを託してくれた。さっきの待ってるぞという言葉も僕の気持ちを後押ししてくれる。せっかく一年間教えていただけるんだ。何がなんでも力をつけて合格しなくては。

 僕はもう一度固く心に決めた。


 絵を描くのは面白い。だけど画塾では基本の運筆うんぴつから始めるから、好きなものだけを描くわけにはいかない。

 本式に習うっていうのは、こういうことなんだな。

 紙に筆をついてすっと引く。終わりは軽く止めて筆を離す。これを肘をつかないようにやるんだ。


「菱田君」

「はいっ」

「面倒だとか、何のためにだとか、退屈だとか色々思うだろうが、これほど大事な練習はないんだからね」

「……はい」


 先生には見透かされてたみたいで、そんな風に言われた。


「ふふ、私も好きではなかったよ」

「えっ?」

「絵を描くのが好きなのは一番いいことさ。だが一番力がつくのは基本の練習だよ。まあ、いつかこれに感謝する日が来るから、それまでしっかりやりなさい」


 毎回、縦横斜めの線を書くのに結構な時間がかかる。丸を書くのも難しい。だけど、この練習をやらないと模写も写生もやらせてくださらないんだよなあ。感謝する日っていつ来るんだろう。

 そんな毎日を過ごして半年ほど経っただろうか。兄さんが僕の絵を見て言った。


「ミオさん、上手くなったなあ。やはり先生について教えてもらうというのは全然違うのだね」

「そ、そうかな。自分じゃそんなに変わらない気がするんだけど」

「う……ん、いや、これは確かに前よりも線がしっかりしているよ」

「本当!?」


 そうか、これが基本練習の成果なのか。

 よく見てごらん、と兄さんに言われて以前の絵と比べてみた。


 言われたとおり線の確かさが違って見える。描いている時はそこまで深く考えてはいなかったのだけれど、ふらふらと自信なさげな線は減ってきている。なるほど、これが先生のおっしゃっていた感謝する時というやつなんだな。

 こんなに変わるとは思っていなかった。ようし、もっとがんばろう! もっと一本一本の線を意識して丁寧に描くんだ。


「これはね、懸腕直筆けんわんちょくひつっていう基本の運筆練習をしっかりやってるからだよ」


 僕が威張って言うと、兄さんは感心して頷いた。


「そうなのか。やはり、どの分野でも基本は大事なのだな」


 もちろん、その日からの僕がこの基本の練習を大いに真面目にやるようになったのは言うまでもない。



 絵を描くことに熱中しているうちに、あっという間に時間が経ってしまう。僕が上京してから一年が過ぎた。


 考えてみれば、初めての東京は人力車に気をつけることで精一杯だったな。騒々しくてせわしなくて、僕なんかがやっていけるのかと思ったこともあった。けれど、これが人の生きるしたたかさなんだ、と思うくらいには東京にも慣れた。


 今日も忙しなく人は流れていく。僕も流れにのって歩いていく。

 そうして僕は美校の校舎の前で立ち止まった。

 そう、ついに試験の日がきたんだ。


 流れから分岐してここに入っていく人達は、僕と同じように絵を描きたくてここに来たんだよな。

 ああ、もう試験だなんて信じられないくらいだ。

 なんだか他の人は僕より上手い絵を描くように見えて不安になってくる。先生から教えていただいた全てをもっとやっておけばよかった。もっと学んでおけば、こんな不安なんて感じなかったんじゃないかな。


 いやいや! 弱気になってはいけないぞ。先生が教えてくださったことは、とことんやったはずだ。先生の助手をさせていただけるほどにもなったじゃないか。最初の絵に比べたら僕の絵だって変わっただろう。

 手が震えているように思うのは、これは武者震むしゃぶるいというやつなんだ。


 あの横山という人だって、大変な思いで試験を受けたって聞いた。他の人もそうかもしれない。だけど僕だって絵を描きたい思いは負けていないんだ。それに為吉兄さんは、本当は自分がここに来たかったんだぞ。僕のためだけじゃなく、兄さんのためにもしっかりしなくちゃ。


 大きく息を吸って吐く。よし、精一杯、試験を受けよう。僕の思いを見てもらうんだ。

 僕は東京美術学校へ足を踏みいれた。

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