標的
「
この不可解な怪奇現象は、怪異狂いのお前にしてみれば、面白おかしい研究対象なのだろうが……。漢朝の
曹操が声を激しながらそう言うと、曹丕は萎縮するどころか、にたぁぁと挑戦的な笑みを浮かべた。この若者は、父親が余裕を無くせば無くすほど、愉快な気持ちになるのである。
「なるほど、なるほど、仰せごもっとも。それはそうでしょうなぁ。
などと、なぶるような語調で言い、怒れる父と相対した。
曹操は、権力者の悪政という言葉に敏感に反応し、ギリリと歯を強く食いしばる。
父親に忌々しげな表情で睨まれても、曹丕は毛ほども気にせず、さらに続けた。
「成帝の時代は、
五十八年前の怪異現象も、また
父上にしてみれば、ここさいきん
「…………チッ」
父親が窮地に立たされていることを十分承知しながら、さも楽しげに
ちなみに、
「そうだ。その通りだ。孤は天下万民のため、今上帝(
曹操は、至誠
だが、曹丕は、父の本性を熟知している。かつてはあった尊皇の情熱も薄れ、漢の皇帝を傀儡としてしか見なくなりつつあるのは、ここ数年の朝廷に対する横暴な振る舞いからも明らかであった。曹操は七年前、
あんなにも
曹操は、息子の冷えきった視線から逃げるように、生白い化粧顔を横にそらす。そして、「……よいか、丕よ」と凄みを利かせた声で言った。
「ベラベラと
「
「十中八九は、度朔君であろう。しかし、証拠をつかんでから討伐せねば、奴を信仰している民衆が納得せぬ。
「簡単に言ってくれるなぁ~。俺は人間ですよ。しょせん人間の身では、神は殺せない。無茶を言わないでいただきたい」
「フン。なにが神だ。あの神もどきは、とんだ俗物だぞ。昔、孤は一人の美しい娘をめぐり、奴と争ったことがあるゆえ、よく知っている。その正体は、神を名乗るペテン師に違いない。首を
(なるほど。英雄を名乗る俗物と、神を名乗る俗物の戦いというわけか。しかし、あの度朔君の力は、生身の人間のものとはとても思えんがなぁ……)
曹丕が心の中でそう呟いていると、「こ……公子様! 妙な物が腹から出て来ました!」と、魚の解体作業を行っていた兵士が声を上げた。最後の一匹で、とうとう何かを発見したようだ。
「どれ。見せてみろ」
魚の腹から出て来た物を受け取ると、それは木簡に使うような、一枚の細長い木片だった。何の変哲もない。だが、そこに書かれていた文字が、穏やかではなかった。
――女の敵は、必ず血祭りに上げる。心せよ。
曹丕は、当世随一の書家である
(これは……)
曹丕の鋭い
そして、「どうやら、狙われているのは劉勲のようですな」と曹操に告げた。
「ええ⁉ わ……
いつだって自分の悪事を棚に上げ、すっかりさっぱり忘却してしまうこの男は、心底おどろいた様子で素っ頓狂な声を上げた。
曹操は、劉勲のことなど無視して、「どういうことだ? その木片には何が書かれている」と問う。
「女の敵は血祭りにあげる、とあります」
「意味が分からぬ。もっと詳しく説明せよ」
「鬼物奇怪の事に関心の無い父上に、我が推理を語っても、どうせ理解できぬでしょう。とにかく、標的は劉勲だ、ということですよ。
たぶん、今夜あたり、魚を降らせた犯人が劉勲の屋敷に現れるはずです。俺が徹夜で屋敷を張り込み、その者との接触をはかってみます。父上と他の将軍がたは、安心してグースカ寝ていてください」
「そういうわけにはいかん。獲物を狩るからには全力でいかねば。劉勲邸の近隣の家々に、曹純の
「そんな大仰なことをされると、逆に困るんだよなぁ~。相手は不思議な力を持っているのですよ。伏兵がわんさかいたら、超能力か何かですぐに察知して、のこのこ出て来るはずがありませんってば。……ったく、これだから素人は」
「ああん⁉ 父に向って、なんだその口の利き方は⁉ いい加減殴るぞ‼」
激昂した曹操は、勢いよく立ち上がると、
これは本当に殴りかかりそうだな、と察した曹純が素早く動き、「まあまあまあ……」と言いながら曹操を後ろから羽交い締めにする。
「おい、こら! 主君を羽交い締めにする奴があるか! は……はなせ!」
曹操が興奮していると、夏侯淵が冷静な声で「ちょっと落ち着け、孟徳」とたしなめた。
「怪異全般のことは、子桓の言葉に従うのが吉だ。子桓の言う通り、お前は鬼物奇怪の事について、何も分からぬであろう。余計なことをして敵を逃せば、困るのはお前なのだぞ」
「ぬ……ぬぬぅ……」
曹操は
普通ならばうるさがるところだが、「こいつは何があっても、自分を裏切らない」という絶対的信頼があるため、曹操といえども夏侯淵の言葉には素直にならざるをえない。
曹操は若いころ、ある罪を犯して、捕まりそうになった。それを夏侯淵が身代わりで出頭してくれて、難を逃れたことがある。その後、刑が執行される直前、曹操は知恵を働かせて夏侯淵を救出した。お互いの生命を守り合ったという青年期の体験が、君臣の立場をこえた、何でも言い合える関係性を作っていたのである。
「お前がそこまで申すのならば……丕に一任しよう」
渋々ではあるが、曹操は曹丕に全てゆだねることを決めた。
曹丕は、勝ち誇ったように悪戯っぽい笑みを浮かべて、「それでいいのですよ、父上」とメチャクチャ上から目線で言った。曹操はチッと舌打ちしつつも、もう何も言わない。
かくして、曹丕と謎の怪異との戦いがついにはじま――
「
りかけたところで、微妙にタイミング悪く、城内の悪鬼捜索を終えた張郃が戻って来た。
捜索に協力していた司馬懿は、曹丕の命令に従って自邸(旧
「おう、張郃。どうだった。何も見つからなかったか」
どうもこれは悪鬼の仕業ではなさそうだ、と考え始めている曹丕が、そうたずねると、張郃は暗い顔で「ほうぼう歩き回ったのですが――」と答えようとした。
が、彼の言葉は、そこで止まってしまったのである。
張郃の背後で、突然、
「ちょ……ちょえぇぇぇ~~~い‼」
女のものと思われる、気の抜けるような弱々しい
その場にいた武将や兵士たちは、何が起きたのか理解できず、うつ伏せに倒れている張郃をしばし呆然と見つめていた。張郃の背後でたしかに女の声がしたはずなのに、誰の姿も見当たらないのが不可思議だった。
「まさか――。おい、
嫌な予感がした曹丕が、厳しい表情を作り、張郃の一番近くにいる許褚にそう命じる。
ナンデ、コンナ奴ノコトヲ……と内心思いながらも、許褚はしゃがみこみ、張郃の口元に手を当ててみた。
すると、ビッグフット似の顔が見る見るうちに険しくなっていき、「シ……シ……シ……」と声を
「死ンデル……‼ 張郃死ンジャッタ‼ 息シテナイ‼」
「な、なんだと⁉」
曹操は、白粉を塗りたくった顔に驚愕の色を浮かべた。
夏侯淵、曹純ら歴戦の武将たちも、仲間の突然の死に動揺を隠せず、困惑げに互いの顔を見ている。
兵士たちにいたっては、「ひ……ひえっ……!」「あんなに元気だった張郃将軍が急に亡くなるなんて!」「また怪異が起きたのか……?」とめいめいに叫び、すっかり顔面蒼白になっていた。
曹操は張郃に駆け寄り、自らその死を確認すると、振り返って曹丕をキッと睨んだ。
「おい、丕……。これはいったいどうなっておる。標的は劉勲だったのではないか? 張郃が死んでしまったぞッ‼」
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