標的

成帝せいてい御世みよに魚の雨が降ったことは『漢書かんじょ』に載っておるゆえ、われも知っておる。五十八年前の羊肉落下事件も、祖父曹騰そうとうから、自分が宮廷にいたころ見聞した珍しい話として、幼少時に語り聞かされたことがある。

 この不可解な怪奇現象は、怪異狂いのお前にしてみれば、面白おかしい研究対象なのだろうが……。漢朝のまつりごとつかさどる孤にとっては、長年かけて築き上げた地位を失いかねぬ由々しき事態なのじゃ」


 曹操が声を激しながらそう言うと、曹丕は萎縮するどころか、にたぁぁと挑戦的な笑みを浮かべた。この若者は、父親が余裕を無くせば無くすほど、愉快な気持ちになるのである。


「なるほど、なるほど、仰せごもっとも。それはそうでしょうなぁ。世人せじんは、天変地異や不気味な怪異が起きれば、得てしてそれを権力者の悪政に結び付けるものですからねぇ」


 などと、なぶるような語調で言い、怒れる父と相対した。


 曹操は、という言葉に敏感に反応し、ギリリと歯を強く食いしばる。


 父親に忌々しげな表情で睨まれても、曹丕は毛ほども気にせず、さらに続けた。


「成帝の時代は、外戚がいせきの王氏(漢王朝をいったん滅ぼした王莽おうもうの一族)が台頭し、政治が不安定になりつつあったころ。信都しんとに降った魚の雨を人々は凶兆と見て、恐れおののいたことでしょう。

 五十八年前の怪異現象も、またしかり。あのころ、漢朝の実権は、前代の皇帝(後漢十代質帝しつてい)を毒殺した梁冀りょうきと、その妹の梁皇太后(後漢八代順帝じゅんていの皇后)が握り、罪無き功臣を殺していた。『洪範五行伝こうはんごぎょうでん』(前漢の劉向りゅうきょうの著)によれば、『法を無視し、功臣を放逐すれば、羊禍が起きる』とある。当時の人々は、羊肉が落下した怪現象の原因が梁氏の暴政にあると考えたことでしょう。

 父上にしてみれば、ここさいきんぎょう城で多発している怪異が面白くないのは分かりますよ。城邑まちの犬という犬が一夜で全滅したり、草の兵士が城内をうろついたり……。そして、今回の魚の雨だ。民衆が『何らかの政変の前触れではないか』とおびえて動揺し、故事に詳しい学者たちが『これは曹孟徳が漢王朝を滅ぼす兆しだ』と言い立て始めるのは時間の問題でしょうからなぁ~」


「…………チッ」


 父親が窮地に立たされていることを十分承知しながら、さも楽しげにしゃべるとは、なんて親不孝な奴だ――曹操はそう苛立ち、舌打ちをした。


 ちなみに、度朔君どさくくんが先日巻き起こした怪異事件のあらましは、夏侯淵と曹洪の報告書(曹洪のは、ほとんど字が読めなかったが)で、曹操もすでに把握している。もちろん、曹丕がひた隠しにしている袁煕えんき曹叡そうえいの関係については、さすがに気づいていないが……。


「そうだ。その通りだ。孤は天下万民のため、今上帝(献帝けんてい)のおんため、死力を尽くして戦っておる。それなのに、こんなつまらぬことで、我が声望が地に落ちるのは我慢ならぬッ」


 曹操は、至誠あふれる態度をよそおって、吠えた。わざとらしさの微塵も感じられぬ演技力である。


 だが、曹丕は、父の本性を熟知している。かつてはあった尊皇の情熱も薄れ、漢の皇帝を傀儡としてしか見なくなりつつあるのは、ここ数年の朝廷に対する横暴な振る舞いからも明らかであった。曹操は七年前、董承とうしょうらが企てた自身の暗殺計画が発覚した際、董一族を皆殺しにした。その中には、献帝の子を身籠っていた董承の娘――董貴人も含まれていたのである。妃と腹の子を一度に失った帝は密かに血の涙を流したことであろう。


 あんなにもむごいことをやっておいて、よくもそんな空々しい台詞せりふが言えるなぁと呆れつつ、「今上帝のおんため、ねぇ……」と、胡散臭うさんくさそうな目で曹操を見つめた。


 曹操は、息子の冷えきった視線から逃げるように、生白い化粧顔を横にそらす。そして、「……よいか、丕よ」と凄みを利かせた声で言った。


「ベラベラと鬼物奇怪きぶつきっかいの知識を喋っている暇があったら、こたびの騒動の犯人を早々に突き止めるのじゃ。これは命令ぞ」


張郃ちょうこうから聞きましたが、父上は度朔君の仕業だと考えているのですよね?」


「十中八九は、度朔君であろう。しかし、証拠をつかんでから討伐せねば、奴を信仰している民衆が納得せぬ。河東郡かとうぐんの民たちから要らざるを反感を買い、大規模な反乱が起きるのは困る。それゆえ、奴が犯人である確たる証が必要なのだ。証拠をつかんで、捕えしだい奴を殺せ」


「簡単に言ってくれるなぁ~。俺は人間ですよ。しょせん人間の身では、。無茶を言わないでいただきたい」


「フン。なにが神だ。あの神もどきは、とんだ俗物だぞ。昔、孤は一人の美しい娘をめぐり、奴と争ったことがあるゆえ、よく知っている。その正体は、神を名乗るペテン師に違いない。首をねれば、命など易々と奪えるはずだ」


(なるほど。英雄を名乗る俗物と、神を名乗る俗物の戦いというわけか。しかし、あの度朔君の力は、生身の人間のものとはとても思えんがなぁ……)


 曹丕が心の中でそう呟いていると、「こ……公子様! 妙な物が腹から出て来ました!」と、魚の解体作業を行っていた兵士が声を上げた。最後の一匹で、とうとう何かを発見したようだ。


「どれ。見せてみろ」


 魚の腹から出て来た物を受け取ると、それは木簡に使うような、一枚の細長い木片だった。何の変哲もない。だが、そこに書かれていた文字が、穏やかではなかった。



 ――女の敵は、必ず血祭りに上げる。心せよ。



 曹丕は、当世随一の書家である鍾繇しょうようと文通しているため、自身も書に明るい。これが教養ある女人の筆跡であることにすぐ気づいた。しかも、この筆跡は、何度か見たことがあるものだ。


(これは……)


 曹丕の鋭い眼光まなざしは、自然と劉勲りゅうくんに向かう。


 そして、「どうやら、狙われているのは劉勲のようですな」と曹操に告げた。


「ええ⁉ わ……わし⁉ ど、どゆこと⁉ 誰かにうらまれることなんて、何もしていないのに……」


 いつだって自分の悪事を棚に上げ、すっかりさっぱり忘却してしまうこの男は、心底おどろいた様子で素っ頓狂な声を上げた。


 曹操は、劉勲のことなど無視して、「どういうことだ? その木片には何が書かれている」と問う。


「女の敵は血祭りにあげる、とあります」


「意味が分からぬ。もっと詳しく説明せよ」


「鬼物奇怪の事に関心の無い父上に、我が推理を語っても、どうせ理解できぬでしょう。とにかく、標的は劉勲だ、ということですよ。

 たぶん、今夜あたり、魚を降らせた犯人が劉勲の屋敷に現れるはずです。俺が徹夜で屋敷を張り込み、その者との接触をはかってみます。父上と他の将軍がたは、安心してグースカ寝ていてください」


「そういうわけにはいかん。獲物を狩るからには全力でいかねば。劉勲邸の近隣の家々に、曹純の虎豹騎こひょうき許褚きょちょ虎士こしを忍ばせておくこととする。犯人が姿を見せ次第、一斉に包囲、捕縛するのじゃ」


「そんな大仰なことをされると、逆に困るんだよなぁ~。相手は不思議な力を持っているのですよ。伏兵がわんさかいたら、超能力か何かですぐに察知して、のこのこ出て来るはずがありませんってば。……ったく、これだから素人は」


「ああん⁉ 父に向って、なんだその口の利き方は⁉ いい加減殴るぞ‼」


 激昂した曹操は、勢いよく立ち上がると、胡床こしょうを乱暴に蹴り倒して、そう怒鳴った。


 これは本当に殴りかかりそうだな、と察した曹純が素早く動き、「まあまあまあ……」と言いながら曹操を後ろから羽交い締めにする。


「おい、こら! 主君を羽交い締めにする奴があるか! は……はなせ!」


 曹操が興奮していると、夏侯淵が冷静な声で「ちょっと落ち着け、孟徳」とたしなめた。


「怪異全般のことは、子桓の言葉に従うのが吉だ。子桓の言う通り、お前は鬼物奇怪の事について、何も分からぬであろう。余計なことをして敵を逃せば、困るのはお前なのだぞ」


「ぬ……ぬぬぅ……」


 曹操はうなり声を上げ、押し黙った。


 侠気おとこぎかたまりのような夏侯淵は、身内の武将の中でも、夏侯惇かこうとんと並んで主君への直言が多い。間違っているものは間違っていると、遠慮なく言う。


 普通ならばうるさがるところだが、「こいつは何があっても、自分を裏切らない」という絶対的信頼があるため、曹操といえども夏侯淵の言葉には素直にならざるをえない。


 曹操は若いころ、ある罪を犯して、捕まりそうになった。それを夏侯淵が身代わりで出頭してくれて、難を逃れたことがある。その後、刑が執行される直前、曹操は知恵を働かせて夏侯淵を救出した。お互いの生命を守り合ったという青年期の体験が、君臣の立場をこえた、何でも言い合える関係性を作っていたのである。


「お前がそこまで申すのならば……丕に一任しよう」


 渋々ではあるが、曹操は曹丕に全てゆだねることを決めた。


 曹丕は、勝ち誇ったように悪戯っぽい笑みを浮かべて、「それでいいのですよ、父上」とメチャクチャ上から目線で言った。曹操はチッと舌打ちしつつも、もう何も言わない。


 かくして、曹丕と謎の怪異との戦いがついにはじま――


主公との! 公子様! ご報告いたしまする!」


 りかけたところで、微妙にタイミング悪く、城内の悪鬼捜索を終えた張郃が戻って来た。


 捜索に協力していた司馬懿は、曹丕の命令に従って自邸(旧張繍ちょうしゅう邸)に帰っているため、彼ひとりである。


「おう、張郃。どうだった。何も見つからなかったか」


 どうもこれは悪鬼の仕業ではなさそうだ、と考え始めている曹丕が、そうたずねると、張郃は暗い顔で「ほうぼう歩き回ったのですが――」と答えようとした。


 が、彼の言葉は、そこで止まってしまったのである。


 張郃の背後で、突然、



「ちょ……ちょえぇぇぇ~~~い‼」



 女のものと思われる、気の抜けるような弱々しい叫声きょうせいが響き、一弾指いちだんしの間を置かずして張郃はバタリと倒れたのだった。


 その場にいた武将や兵士たちは、何が起きたのか理解できず、うつ伏せに倒れている張郃をしばし呆然と見つめていた。張郃の背後でたしかに女の声がしたはずなのに、誰の姿も見当たらないのが不可思議だった。


「まさか――。おい、虎痴こち(許褚の渾名あだな)。張郃を見てやれ」


 嫌な予感がした曹丕が、厳しい表情を作り、張郃の一番近くにいる許褚にそう命じる。


 ナンデ、コンナ奴ノコトヲ……と内心思いながらも、許褚はしゃがみこみ、張郃の口元に手を当ててみた。


 すると、ビッグフット似の顔が見る見るうちに険しくなっていき、「シ……シ……シ……」と声を戦慄わななかせた。


「死ンデル……‼ 張郃死ンジャッタ‼ 息シテナイ‼」


「な、なんだと⁉」


 曹操は、白粉を塗りたくった顔に驚愕の色を浮かべた。


 夏侯淵、曹純ら歴戦の武将たちも、仲間の突然の死に動揺を隠せず、困惑げに互いの顔を見ている。


 兵士たちにいたっては、「ひ……ひえっ……!」「あんなに元気だった張郃将軍が急に亡くなるなんて!」「また怪異が起きたのか……?」とめいめいに叫び、すっかり顔面蒼白になっていた。


 曹操は張郃に駆け寄り、自らその死を確認すると、振り返って曹丕をキッと睨んだ。


「おい、丕……。これはいったいどうなっておる。標的は劉勲だったのではないか? 張郃が死んでしまったぞッ‼」


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