怪異調査中断
その日の夜。
司馬懿は、自邸の寝室で、曹丕が来るのを待っていた。
――今から怪異退治に行くぞ。三つ数えるうちに支度しろ。
と無茶を言われても大丈夫なように、腰には霊剣
だが、どういうわけか、曹丕はいつになってもやって来ない。司空府で何かあったのだろうか。
「おっそい……。様子を見に行くべきだろうか?」
「ここで待機しているように命じられておるのだろう? 心配な気持ちは分かるが、大人しく待っておれ。曹丕殿の言うように、いきなり曹操殿と会ってしまう事態は避けたほうがよい。あの御仁の心は測り難いゆえな……。この
司馬懿が落ち着きなく室内をウロウロしていると、鎧姿の幽鬼が豊かな髭を撫でながらそう
彼は、北方遠征に従軍中亡くなったが、どういうわけか冥府からの迎えが来ず、いまだ現世にとどまっている。自分の家族は別の家に引っ越していて、その場所も把握しているというのに、「元は自分の家だった、ここのほうが居心地がいい」という理由で、司馬懿邸に毎晩のように現れるのであった。
ただし、司馬懿の妻の
司馬家の元下女で、今は冥府の正門の掃除係である
ちょっと鈍感なところがある娘だが、幽鬼の自分と遭遇した春華があまりにも動揺するため、
――死んだ時のことは覚えていないけれど、私の死には奥様が関わっているのかも。
と、さすがに察しはじめていたのである。
しかし、それで
「う~ん……。囲碁って難しいですねぇ~」
張繍と碁盤を挟んで座っている小燕は、盤上に置かれた白と黒の碁石たちを見つめつつ、可愛らしく小首を傾げている。
この幽鬼メイドは、非常に人懐っこい性格のため、同じ幽霊の張繍とすっかり仲良くなっていた。
張繍は張繍で、身分や地位など、生前のしがらみから解放されているせいか、庶民出身の小燕に対して尊大な態度を取らず、年の離れた友人のように、毎晩こうやって遊び相手になっている。ここ数日は、「
「そなたは頭が良い。少し教えただけで、ここまで善戦できるようになったのだから、たいしたものだ。いずれは儂が負ける日も来るであろう」
「え? 私が? 本当ですか?」
「うむ。少なくとも、そなたの主人の司馬仲達よりは筋がいい。
「え、えへへぇ~。そこまで褒められちゃうと照れるなぁ~。よーし、私、がんばります!」
張繍は生前、部下の美点を見つけてはそれを称賛し、さらにその才能を伸ばしてやるのが得意な大将だった。なので、たった一人の遊び相手である小燕の地頭が良いことに目をつけ、囲碁の対局相手として育成しようとしていたのである。
(なぁ~にが『主人の司馬仲達よりは筋がいい』だよ。暇人の幽鬼め)
仲良さそうに囲碁に興じている二人を横目に、司馬懿は心の中でそう毒づいていた。張繍と三度ほど対局してボロ負けし、「よっわ……。おぬし、それでも軍師志望なのか? これでは実際の戦の采配も期待できんなぁ」と
「……む? 司馬仲達よ、どうやら待ち人が来たようだぞ。儂は顔を合わせるのが気まずいゆえ失礼する。小燕、この続きは明日やろう」
歴戦の武人だった張繍は、幽鬼になって以来、近くにいる者の気を敏感に察知する能力を得たらしい。顔をふと上げてそう告げると、風に吹かれた煙のようにしゅるりと姿を消した。そして、その数秒後――。
「よう、仲達。待たせたな」
「あっ、子桓様」
曹丕が、窓からその美貌をのぞかせたかと思うと、ひょいっと軽く飛び、室内に入って来た。
さも当然のように、他人の家に窓から侵入してきている。非常識な行動の理由はただひとつ、いちいち屋敷の門を叩いて案内を乞うのがまどろっこしいからである。そういえば、
だが、環境に順応しやすい性格(図太いとも言う)の司馬懿は、この程度のことではだんだん気にしなくなってきている。窓からの
「色々とありすぎて、何から話せばよいか困るぐらいだ。……ところで、怪しい悪鬼は城内に潜んでいたか?」
「昼間から活動しているような、強力な悪鬼は見つけられませんでしたよ。でも、その報告なら、
「それが聞けなかったのだ。あいつ、いきなり死んじゃったから」
「なるほど。死んじゃったら、そりゃ聞けな――へ? ど……どゆこと⁉ あんなにもピンピンしてたのになんで⁉」
つい数時間前まで一緒にいた人間が急死したと知り、司馬懿は驚きのあまり
「それがどうにも奇妙な話でな。倒れる直前まで顔色も良く、壮健そうに見えたのに、なよなよとした女の
「女の声……。何らかの悪鬼に祟り殺されたのでしょうか。そういえば、司空府には、
「その可能性はいちおう俺も考えたが、たぶん違うな。お前は張郃とは今日はじめて会ったばかりでよく知らんだろうが、あいつは悪鬼の一人や二人に
それに、人を祟り殺す気バリバリの悪鬼が、気の抜けるような声で襲いかかるか? 『ちょえぇぇぇ~~~い』だぞ、『ちょえぇぇぇ~~~い』。俺が知る限り最も人畜無害な幽鬼である小燕ならば分かるが、悪鬼はそんな声を出さないはずだ」
「つまり――私が犯人っていうことですか⁉」
そそっかしい小燕が、
「落ち着け、小燕。誰もそんなこと言っていない。自分が犯人じゃないことぐらい、冷静に考えたら分かるだろ?」
「す、すみません、旦那様……」
小燕は顔を赤らめ、恥ずかしそうにもじもじしている。
曹丕は、天然ボケをかました幽鬼メイドのことなど無視して、憶測を述べた。
「これはまだ断定できんが……あの女の声は、冥府から来た役人のものかも知れない」
「冥府⁉ つまり、張郃殿は天命が尽きて、あの世からの迎えが来たということですか⁉」
「うむ。クソ親父は気づいていない様子だったが、あの女の声には聞き覚えがある。すでに故人となっている
「その
「ああ。小燕が冥府の正門の清掃係になっているように、な。
曹丕は、時間を見つけては、小燕が冥府で見聞したこと――と言っても、ずっと門の掃除をしているだけだし、あの世に行って日が浅いので、得られる情報はそれほど多くないが――を根掘り葉掘り聞き出していて、死んだ人間が冥界のお役所で働いていることも知っている。そのため、自分の兄が死ぬ元凶となったあの女も、冥府で役人仕事をやらされているであろうことは推測できたのであった。
「ということは、やっぱり張郃殿は今日亡くなる運命だったということですか。まだそんな年齢じゃないのに……」
「前にも言ったと思うが、冥吏はたまに人違いをして、寿命がまだ残っている人間を冥府に連れて行ってしまう場合がある。それに、張繍みたいに、死んだのに迎えが来ぬという手違いもある。……だが、冥府の役人がそんな頻繁に不手際をやらかすとは考えにくいし、まあ普通に天命が尽きたのであろうなぁ」
「う~む。惜しい人材を無くしましたなぁ……。俺のことをちゃんと軍師扱いしてくれる良い人だったのに」
「たしかに気の毒ではあった。だが、張郃の奴は、少々間の悪い時に死んでくれた。おかげで、こたびの怪異事件は、俺の手から離れてしまった」
「といいますと?」
司馬懿が首を傾げると、曹丕は、落下物の魚の腹から一枚の木片を見つけたこと、そこに書かれていた文言と筆跡から
「
「子桓様の推理とは違う人物が怪死を遂げたことで、曹公(曹操)が『話が違うではないか』と怒ったというわけですな」
「そういうわけだ。魚の雨事件と張郃の急死は何の関連性もない、恐らく冥府の役人が張郃の魂を連れて行ったのだ、その冥吏は貴方が一度犯したことのある女だと思われるが声で分からなかったのか、と言ってやったのだが、クソ親父は怒り狂っていて聞く耳を持たない。『お前の推理は外れた。やはり、つまらぬ鬼物奇怪の知識など、何の役にも立たぬ。こたびの騒動を起こした犯人の捕縛は、我が直属の兵に任せるゆえ、お前は引っ込んでおれ』とのお言葉だ。ったく……。これだから怪異嫌いのド素人スケベジジイは」
「スケベは関係ないんじゃ……」
「とにかく、この一件から俺は外された。もう何がどうなろうが知ったことではない。魚の雨を降らした者の正体は気になるが、『引っ込んでおれ』と言われてまでクソ親父を助けてやる義理はないからな。今回の怪異調査はこれで
(いやいやいや。めっちゃ未練たらたらですやん。ほんと大人げない若様だなぁ~)
口に出したらゲンコツが飛んできそうなので、司馬懿は心の中でそうツッコミを入れた。
膨大な怪異譚を収集し、いずれは我が国初の
「まあ、そう言わずに。曹公が自力で解決できるようなら、たいして面白くない怪異だということですよ。二、三日様子を見て、曹公が手こずっているようであれば、子桓様が独自に動いて解決してやればいいのです。それで
曹丕が我慢できなくなって怪異事件に首を突っ込んだ際、「俺は絶対に動かん」と宣言した手前、自分に黙って調査を始めてしまうかも知れない。それは寂しいし心配なので、司馬懿はそう言うのであった。
しかし、それは、「曹操の意向に従う必要がどこにあるのか」と暗にそそのかしていることになるのだが、本人は無自覚に口走っているため、その言葉に潜む凶暴性に気づいていない。
(こいつめ。なかなか大胆なことを言ってくれる。天下の権を握る俺の親父のことを豆粒ほども畏敬しておらんな)
曹操の息子ならば怒らねばならぬ場面だが、父を嫌う曹丕にとっては、我が友の恐るべき不遜は痛快であった。「フン。お前らしくもない、おべっかを使うな」とぞんざいに吐き捨てつつも、やや機嫌を直したようで、ニヤリと悪戯っぽい笑みを見せた。
「心配しなくても、俺が動く時には必ず呼びつけてやるさ。前にも言ったはずだ。『俺についてきたいのならば、勝手にしろ。もとより俺は、これからもお前を怪異調査の助手としてこき使うつもりだ』とな」
そう言うと、曹丕は、小脇に抱えていた箱を司馬懿に手渡した。
何だろうと思って
「これって、もしかして……」
「そうだ。昼間に空から降ってきた魚を調理したものだ。兵士たちに食べさせたゆえ、お前も食いたいだろうと思って、持って来てやった」
「いやいや、そんな不気味なものを食べるはずが――」
ぐぅ~~~。
食欲をそそる匂いに刺戟されて、腹の虫が豪快に鳴く。司馬懿は「うっ……」と言いつつ赤面した。さっき小燕の
「……いただきます」
「おう、食え。なかなか美味であったぞ。
司馬懿は、小燕から
「なんと柔らかく、風味があって、脂肪たっぷりの肉なのだ。魚肉に溶け込んでいるこの
テンション爆上げで食レポをする司馬懿を、曹丕は珍妙な動物のように面白がって監察し、ニヤニヤ笑っている。
だが、迷惑なのは小燕である。口の中をもごもごさせながら
「美味い! 美味い! 俺はいま、猛烈に感動しているぅ~!」
「良かったな。俺もわざわざ持って来てやった甲斐があった。もしかしたら、それが最後に口にするごちそうになるやも知れぬ。たっぷり味わえ」
「はい! ありがとうございます! …………えっ? 最後のごちそうって、どういう意味ですか?」
「実はな。親父が、明日お前に会う、と言っているのだ。曹洪のクソジジイが色々と吹き込んでいるらしくってな。風向きしだいでは命が危ういやも知れん。せいぜい気をつけろ」
「そんなことを突然言われたら……。なんだか急に料理が不味くなってきちゃったんですけど……」
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