怪異調査中断

 その日の夜。


 司馬懿は、自邸の寝室で、曹丕が来るのを待っていた。


 ――今から怪異退治に行くぞ。三つ数えるうちに支度しろ。


 と無茶を言われても大丈夫なように、腰には霊剣泰山環たいざんかんを帯び、鉄蒺藜てつしつれい(鉄製撒菱まきびしの中国名)を入れた竹筒も準備している。


 だが、どういうわけか、曹丕はいつになってもやって来ない。司空府で何かあったのだろうか。


「おっそい……。様子を見に行くべきだろうか?」


「ここで待機しているように命じられておるのだろう? 心配な気持ちは分かるが、大人しく待っておれ。曹丕殿の言うように、いきなり曹操殿と会ってしまう事態は避けたほうがよい。あの御仁の心は測り難いゆえな……。このわしも、『今なら殺されぬでしょう』と賈詡かくが判断するまでは、曹操殿に降伏しなかったものだ」


 司馬懿が落ち着きなく室内をウロウロしていると、鎧姿の幽鬼が豊かな髭を撫でながらそういさめた。度朔君どさくくん事件が発生する少し前から、司馬懿の身辺にまとわりつくようになった、張繍ちょうしゅうの亡霊である。


 彼は、北方遠征に従軍中亡くなったが、どういうわけか冥府からの迎えが来ず、いまだ現世にとどまっている。自分の家族は別の家に引っ越していて、その場所も把握しているというのに、「元は自分の家だった、ここのほうが居心地がいい」という理由で、司馬懿邸に毎晩のように現れるのであった。


 ただし、司馬懿の妻の張春華ちょうしゅんかに目撃されて、「この幽鬼めッ!」と剣で追いかけ回されたことが何度かあるので、基本的には司馬懿の寝室からは出ない。


 司馬家の元下女で、今は冥府の正門の掃除係である小燕しょうえん(享年十四歳)も、夜になると夜食のスープを主人に届けるため現れるが、彼女もまた、妊娠中の奥様が自分を見て興奮してしまってはいけないと思い、この家では司馬懿いがいの人間とは接触しないように気をつけているのであった。


 ちょっと鈍感なところがある娘だが、幽鬼の自分と遭遇した春華があまりにも動揺するため、


 ――死んだ時のことは覚えていないけれど、私の死には奥様が関わっているのかも。


 と、さすがに察しはじめていたのである。


 しかし、それでうらむどころか、(下女の自分のせいで奥様に精神的な負担をかけ、お腹の子にもしものことがあったら、旦那様に申し訳ない)と遠慮してしまうところが、小燕らしかった。悪意というものを微塵も持たぬ娘なのである。



「う~ん……。囲碁って難しいですねぇ~」


 張繍と碁盤を挟んで座っている小燕は、盤上に置かれた白と黒の碁石たちを見つめつつ、可愛らしく小首を傾げている。


 この幽鬼メイドは、非常に人懐っこい性格のため、同じ幽霊の張繍とすっかり仲良くなっていた。


 張繍は張繍で、身分や地位など、生前のしがらみから解放されているせいか、庶民出身の小燕に対して尊大な態度を取らず、年の離れた友人のように、毎晩こうやって遊び相手になっている。ここ数日は、「六博りくはく(古代中国のすごろく)ばかりでは飽きてしまうわい。他のこともしよう」と言って、小燕に囲碁の打ち方を教えてやっていた。


「そなたは頭が良い。少し教えただけで、ここまで善戦できるようになったのだから、たいしたものだ。いずれは儂が負ける日も来るであろう」


「え? 私が? 本当ですか?」


「うむ。少なくとも、そなたの主人の司馬仲達よりは筋がいい。郭嘉かくかが言っていたが、囲碁に通ずる者は、天文に通じて人の運命を知り、兵法に通じて戦の勝敗を決めるという。修練を積めば、小燕は名軍師になれるさ」


「え、えへへぇ~。そこまで褒められちゃうと照れるなぁ~。よーし、私、がんばります!」


 張繍は生前、部下の美点を見つけてはそれを称賛し、さらにその才能を伸ばしてやるのが得意な大将だった。なので、たった一人の遊び相手である小燕の地頭が良いことに目をつけ、囲碁の対局相手として育成しようとしていたのである。


(なぁ~にが『主人の司馬仲達よりは筋がいい』だよ。暇人の幽鬼め)


 仲良さそうに囲碁に興じている二人を横目に、司馬懿は心の中でそう毒づいていた。張繍と三度ほど対局してボロ負けし、「よっわ……。おぬし、それでも軍師志望なのか? これでは実際の戦の采配も期待できんなぁ」と味噌糞みそくそに言われたことを根に持っているのである。



「……む? 司馬仲達よ、どうやら待ち人が来たようだぞ。儂は顔を合わせるのが気まずいゆえ失礼する。小燕、この続きは明日やろう」


 歴戦の武人だった張繍は、幽鬼になって以来、近くにいる者の気を敏感に察知する能力を得たらしい。顔をふと上げてそう告げると、風に吹かれた煙のようにしゅるりと姿を消した。そして、その数秒後――。


「よう、仲達。待たせたな」


「あっ、子桓様」


 曹丕が、窓からその美貌をのぞかせたかと思うと、ひょいっと軽く飛び、室内に入って来た。


 さも当然のように、他人の家に窓から侵入してきている。非常識な行動の理由はただひとつ、いちいち屋敷の門を叩いて案内を乞うのがまどろっこしいからである。そういえば、孝敬里こうけいりで初めてこの若者と出会った時も、彼は留守中の家に勝手に上がり込み、司馬懿の寝台でごろ寝していたものであった。ゴーイング・マイ・ウェイにもほどがある。


 だが、環境に順応しやすい性格(図太いとも言う)の司馬懿は、この程度のことではだんだん気にしなくなってきている。窓からの闖入ちんにゅうを普通に受け入れ、「遅かったじゃないですか。何かあったのですか?」とたずねた。


「色々とありすぎて、何から話せばよいか困るぐらいだ。……ところで、怪しい悪鬼は城内に潜んでいたか?」


「昼間から活動しているような、強力な悪鬼は見つけられませんでしたよ。でも、その報告なら、張郃ちょうこう殿からすでに聞いたのではありませんか?」


「それが聞けなかったのだ。あいつ、いきなり死んじゃったから」


「なるほど。死んじゃったら、そりゃ聞けな――へ? ど……どゆこと⁉ あんなにもピンピンしてたのになんで⁉」


 つい数時間前まで一緒にいた人間が急死したと知り、司馬懿は驚きのあまりつばを飛ばしながら叫んだ。近くに座っていた小燕の顔に唾がかかり、彼女は「わぁ~! 旦那様、ばっちぃですよぉ~!」と騒いだが、今は幽鬼メイドの抗議を聞いている余裕はない。


「それがどうにも奇妙な話でな。倒れる直前まで顔色も良く、壮健そうに見えたのに、なよなよとした女の叫声きょうせいが張郃のすぐ背後でしたと思った次の瞬間、あいつは唐突に事切れたのだ」


「女の声……。何らかの悪鬼に祟り殺されたのでしょうか。そういえば、司空府には、袁紹えんしょうの夫人が夫の死後に殺した妾たちの幽鬼が棲みついていましたよね。夕方以降に廊下を歩いていると、たまにすれ違ったりしていましたが……。もしかして、彼女らの一人がついに悪鬼化して、張郃殿をあやめたのではありませんか?」


「その可能性はいちおう俺も考えたが、たぶん違うな。お前は張郃とは今日はじめて会ったばかりでよく知らんだろうが、あいつは悪鬼の一人や二人に容易たやすく殺されるようなヤワな武人ではない。

 それに、人を祟り殺す気バリバリの悪鬼が、気の抜けるような声で襲いかかるか? 『ちょえぇぇぇ~~~い』だぞ、『ちょえぇぇぇ~~~い』。俺が知る限り最も人畜無害な幽鬼である小燕ならば分かるが、悪鬼はそんな声を出さないはずだ」


「つまり――私が犯人っていうことですか⁉」


 そそっかしい小燕が、驚愕きょうがくの表情で立ち上がった。


「落ち着け、小燕。誰もそんなこと言っていない。自分が犯人じゃないことぐらい、冷静に考えたら分かるだろ?」


「す、すみません、旦那様……」


 小燕は顔を赤らめ、恥ずかしそうにもじもじしている。


 曹丕は、天然ボケをかました幽鬼メイドのことなど無視して、憶測を述べた。


「これはまだ断定できんが……あの女の声は、冥府から来た役人のものかも知れない」


「冥府⁉ つまり、張郃殿は天命が尽きて、あの世からの迎えが来たということですか⁉」


「うむ。クソ親父は気づいていない様子だったが、あの女の声には聞き覚えがある。すでに故人となっている女性にょしょうだ。俺はほとんど口を利いたことがなかったが、好色な奸雄かんゆうに貞節を汚された挙句、最後には無惨に死んだ哀れな女であった。しかし、気弱そうな性格に見えたゆえ、悪鬼化して現世にとどまっているとは思えん。恐らくは、すでに冥府の住人となっていることであろう」


「その女人にょにんが、今では死人しびとの魂を冥界に連れて行く役目についている……と?」


「ああ。小燕が冥府の正門の清掃係になっているように、な。(死んだ人間)たちに様々な仕事を任せているところ見ると、冥府というのはよほど人手が足りぬ役所らしい」


 曹丕は、時間を見つけては、小燕が冥府で見聞したこと――と言っても、ずっと門の掃除をしているだけだし、あの世に行って日が浅いので、得られる情報はそれほど多くないが――を根掘り葉掘り聞き出していて、死んだ人間が冥界のお役所で働いていることも知っている。そのため、自分の兄が死ぬ元凶となったあの女も、冥府で役人仕事をやらされているであろうことは推測できたのであった。


「ということは、やっぱり張郃殿は今日亡くなる運命だったということですか。まだそんな年齢じゃないのに……」


「前にも言ったと思うが、冥吏はたまに人違いをして、寿命がまだ残っている人間を冥府に連れて行ってしまう場合がある。それに、張繍みたいに、死んだのに迎えが来ぬという手違いもある。……だが、冥府の役人がそんな頻繁に不手際をやらかすとは考えにくいし、まあ普通に天命が尽きたのであろうなぁ」


「う~む。惜しい人材を無くしましたなぁ……。俺のことをちゃんと軍師扱いしてくれる良い人だったのに」


「たしかに気の毒ではあった。だが、張郃の奴は、少々間の悪い時に死んでくれた。おかげで、こたびの怪異事件は、俺の手から離れてしまった」


「といいますと?」


 司馬懿が首を傾げると、曹丕は、落下物の魚の腹から一枚の木片を見つけたこと、そこに書かれていた文言と筆跡から劉勲りゅうくんが狙われていることを推理したこと、そして、その推理を曹操に披露した直後に劉勲ではなく張郃が頓死とんししてしまったことをやや口早に語った。


妙才みょうさい夏侯淵かこうえんあざな)おじさんの口添えで、こたびの事件は俺に一任されることが決まりかけていたのだが――」


「子桓様の推理とは違う人物が怪死を遂げたことで、曹公(曹操)が『話が違うではないか』と怒ったというわけですな」


「そういうわけだ。魚の雨事件と張郃の急死は何の関連性もない、恐らく冥府の役人が張郃の魂を連れて行ったのだ、その冥吏は貴方が一度犯したことのある女だと思われるが声で分からなかったのか、と言ってやったのだが、クソ親父は怒り狂っていて聞く耳を持たない。『お前の推理は外れた。やはり、つまらぬ鬼物奇怪の知識など、何の役にも立たぬ。こたびの騒動を起こした犯人の捕縛は、我が直属の兵に任せるゆえ、お前は引っ込んでおれ』とのお言葉だ。ったく……。これだから怪異嫌いのド素人スケベジジイは」


「スケベは関係ないんじゃ……」


「とにかく、この一件から俺は外された。もう何がどうなろうが知ったことではない。魚の雨を降らした者の正体は気になるが、『引っ込んでおれ』と言われてまでクソ親父を助けてやる義理はないからな。今回の怪異調査はこれでしまいだ。俺に任せておけば今夜中に解決したものを……。謎を謎のまま終わらせるのは気色が悪いし、たぶんこうだろうなぁという当てもあるが、関わる気が完全に失せてしまった。もはや未練もない。頼まれても、俺は絶対に動かん」


(いやいやいや。めっちゃ未練たらたらですやん。ほんと大人げない若様だなぁ~)


 口に出したらゲンコツが飛んできそうなので、司馬懿は心の中でそうツッコミを入れた。


 膨大な怪異譚を収集し、いずれは我が国初の志怪しかい小説を完成させることに精魂を傾けている曹丕が、目の前に転がっているミステリーを無視できるはずがない。真相を究明し、自分の怪異譚コレクションに加えたいと思っているはずだ。クソ親父にムカつく暴言を吐かれ、反抗精神メラメラファイヤーになっている今はそんなことを言っているが、いずれは我慢できなくなるに違いない。


「まあ、そう言わずに。曹公が自力で解決できるようなら、たいして面白くない怪異だということですよ。二、三日様子を見て、曹公が手こずっているようであれば、子桓様が独自に動いて解決してやればいいのです。それでぎょう城が平和になるのなら、誰も文句は言わんでしょう。もちろん、その時は助手の俺にも声をかけてください」


 曹丕が我慢できなくなって怪異事件に首を突っ込んだ際、「俺は絶対に動かん」と宣言した手前、自分に黙って調査を始めてしまうかも知れない。それは寂しいし心配なので、司馬懿はそう言うのであった。


 しかし、それは、「曹操の意向に従う必要がどこにあるのか」と暗にそそのかしていることになるのだが、本人は無自覚に口走っているため、その言葉に潜む凶暴性に気づいていない。


(こいつめ。なかなか大胆なことを言ってくれる。天下の権を握る俺の親父のことを豆粒ほども畏敬しておらんな)


 曹操の息子ならば怒らねばならぬ場面だが、父を嫌う曹丕にとっては、我が友の恐るべき不遜は痛快であった。「フン。お前らしくもない、おべっかを使うな」とぞんざいに吐き捨てつつも、やや機嫌を直したようで、ニヤリと悪戯っぽい笑みを見せた。


「心配しなくても、俺が動く時には必ず呼びつけてやるさ。前にも言ったはずだ。『俺についてきたいのならば、勝手にしろ。もとより俺は、これからもお前を怪異調査の助手としてこき使うつもりだ』とな」


 そう言うと、曹丕は、小脇に抱えていた箱を司馬懿に手渡した。


 何だろうと思ってふたを開けてみたところ、それは美味しそうな魚の蒸し料理だった。


「これって、もしかして……」


「そうだ。昼間に空から降ってきた魚を調理したものだ。兵士たちに食べさせたゆえ、お前も食いたいだろうと思って、持って来てやった」


「いやいや、そんな不気味なものを食べるはずが――」



 ぐぅ~~~。



 食欲をそそる匂いに刺戟されて、腹の虫が豪快に鳴く。司馬懿は「うっ……」と言いつつ赤面した。さっき小燕のスープをぺろりと食べたばかりなのに、本当に食い意地の張った男である。


「……いただきます」


「おう、食え。なかなか美味であったぞ。うろこが薄かったゆえ、剥がさずに蒸させてみたが、食感も悪くない」


 司馬懿は、小燕からはしを受け取り、キュウ鰣魚ジギョの古名)を食べた。そして、咀嚼しはじめて数秒後、「こ……これは……!」と叫び、クワッと両眼を見開いた。


「なんと柔らかく、風味があって、脂肪たっぷりの肉なのだ。魚肉に溶け込んでいるこの旨味うまみはいったい何なのだ⁉ ……ハッ! 分かったぞ! 薄い鱗を剥がさぬまま蒸したことで、溶けた鱗が魚肉にじゅるり濃厚溶け込み、旨味と旨味の大合唱を奏でているのだッ! なんということだ、噛めば噛むほど咥内こうないで旨味が縦横無尽に駆け巡っていくではないか! 天下無双の旨味が千里の道をひた走っておる! こ、こいつは……魚料理界の赤兎馬せきとばだぁぁぁーーーッ!!!」


 テンション爆上げで食レポをする司馬懿を、曹丕は珍妙な動物のように面白がって監察し、ニヤニヤ笑っている。


 だが、迷惑なのは小燕である。口の中をもごもごさせながらしゃべるたびに、食べカスが彼女の頭や顔に降りそそぎ、幽鬼メイドはまたもや「ぎゃーーー!」とわめいていた。しかし、魚料理の美味さに感動している司馬懿は気づいていない。


「美味い! 美味い! 俺はいま、猛烈に感動しているぅ~!」


「良かったな。俺もわざわざ持って来てやった甲斐があった。もしかしたら、それが最後に口にするごちそうになるやも知れぬ。たっぷり味わえ」


「はい! ありがとうございます! …………えっ? 最後のごちそうって、どういう意味ですか?」


「実はな。親父が、明日お前に会う、と言っているのだ。曹洪のクソジジイが色々と吹き込んでいるらしくってな。風向きしだいでは命が危ういやも知れん。せいぜい気をつけろ」


「そんなことを突然言われたら……。なんだか急に料理が不味くなってきちゃったんですけど……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る