奸雄の凱旋

 曹軍の隊列に「落下物」が降りそそぐ約十数分前――。


 愛馬の爪黄飛電そうこうひでんまたがった曹操が迎春門を通過すると、ぎょうの城内で待ち受けていた民衆たちがワッと歓声を上げた。


 曹操は、高々と右の拳をあげ、歓喜の声にこたえる。小柄であまり風采のあがらぬ男だが、目に鮮やかな赤地錦あかじにしき戦袍せんぽう絢爛けんらんたる明光鎧めいこうがいまとい、体躯たいくたくましい天下の名馬に乗れば、それなりの威厳は出るというものだ。曹操が目当てではなく、帰還兵の中から自分の夫や息子、兄弟の姿を探そうと押し寄せていた民たちも、


「おお、さすがは天下の大半を切り取られた曹公。威風堂々としておられる」


「もはや曹公に逆らう群雄もおるまい。これからは、戦も少しは減るじゃろう」


「そうあってもらいたいものだなぁ」


 などと、声高に曹操をたたえあった。


 ただし、その言葉の裏には、



 ――何年も戦つづきで疲れたし、しばらくは自分たちの家族を戦場に連れて行ってもらいたくない。



 という彼らの切実なる本音が隠れている。その本音を実際に口にする者は、たとえ囁き声であったとしても、堵列とれつする民衆の中には一人もいなかったが……。


 曹操軍、特に本人直属の部隊は、薄気味悪いまでに統率がとれている。まるで巨大怪物が地を這っているように、一個の意志となって、おおぜいの兵士が粛々行進しているのである。『孫子』を徹底的に研究し、同書に緻密ちみつな注釈をほどこした用兵の天才だからこそできる、整斉たる行軍だった。突如、数千の敵兵が地下より湧いて出たとしても、冷静に対応できるであろう緊張感を、兵士たちは味方の城に入った今でも持続させている。ちょっとでも反抗的な言動や怪しい動きをする者が近くにいれば、人混みの中であろうが、すぐに察知して捕縛するはずだった。とてもではないが、曹操を悪しざまに言うことなど、恐ろしくてできない。


 そんな恐怖の軍団長たる曹操にぴったりと付き従い、護衛にあたっているのが、従弟いとこ曹純そうじゅん曹仁そうじんの同母弟)率いる虎豹騎こひょうきであり、許褚きょちょ率いる虎士こしである。


 虎豹騎は、曹軍のなかでも精鋭中の精鋭しか選ばれない最強の近衛騎兵隊で、今回の北方遠征で烏桓うがん族の首領蹋頓とうとんを捕殺する大勲たいくんをたてたのも、先年の南皮なんひの戦いで袁譚えんたん袁紹えんしょうの長男)を斬首したのも、この部隊であった。


 また、許褚が指揮を執る虎士も、手練れの剣士を集めた近衛歩兵隊として勇名をはせている。今は亡き悪来あくらい典韋てんいの元部下が多く在籍し、彼らの中から、のちのち将軍クラスに出世する者が多数あらわれる。この虎士たちが身命を賭して敵から主君を守ってきたからこそ、曹操はこれまで戦で死なずに済んだのである。この時も、袁家の残党が城内に紛れ込んで曹操暗殺を虎視眈々と狙っていないか警戒し、眼光鋭く周囲をめ回していた。戦場でもないのにる気オーラ満々である。


 ただ、隊長の許褚だけは、珍しく元気がないようだ。しょんぼりとうつむき、しきりにため息をついている。郭嘉かくかの診察のために華佗かだを連れて来るという簡単なお使いに失敗し、曹操にこっぴどく叱られたせいである。


張郃ちょうこうナンカ死ンジャエ……張郃ナンカ死ンジャエ……張郃ナンカ死ンジャエ……」


 などと、自分の任務を妨害した張郃を呪う言葉をときどき呟いていた。




「あなた。お帰りなさいませ」


 従軍した家族の帰還を喜び、領民たちが歓呼の声を上げている中、彼らとともに凱旋がいせん軍の到着を二時間ばかり待っていた卞夫人べんふじんが、よく通る声で夫にそう言った。すると、彼女に付き従っていた環夫人かんふじん(曹沖の生母)を始めとする十数人の側室たち、それぞれの腹の子供たちもそれにならい、「お帰りなさいませ」と口々にあいさつした。


 夏侯淵かこうえん曹洪そうこうも、赤い官服を着た武官、黒い官服の文官を数多あまた引き連れ、曹操を出迎えた。


 日頃から仲間に「飲兵衛のんべえの鬼畜将軍」と陰口を叩かれている曹洪だが、さすがに今日ばかりは昼酒ひるざけを控えているらしい。常時赤黒い顔がこの日は健康的な宍色ししいろであった。三人だけ連れて来た曹洪自慢の食客たちも、いつものような世紀末暴走族ふうの半裸姿ではなく、場をわきまえた身だしなみをしている。


 妻子との久しぶりの対面を果たした曹操は、満足げにうなずくと、馬上から家族の顔をザッと見渡した。


「……ゆうは相変わらずせっておるのだな。ちゅうはいかがいたした?」


 曹操という男は目敏めざとい。ほんのちょっと見ただけで、二十人前後もいる子女(従軍していた曹彰そうしょう曹植そうしょくはのぞく)のうち三人の息子がいないことに気がついた。


 卞夫人が産んだ四番目の男子の曹熊そうゆうは生来病弱で、ここ一、二年はほとんど寝たきりである。恐らく父を出迎えることはできまい、と曹操もあらかじめ予想していた。しかし、曹丕と曹沖はどこにいるのか?


「それが……沖は数日前から風邪をひいていまして。主公とののご帰還をずっと楽しみにしていたのですが……」


 曹沖の生母である環夫人が申し訳なさそうに答えると、曹操は憂色ゆうしょくを浮かべて「それは心配だ。あの子も、昔は病弱であったからなぁ」と最愛の息子を気遣った。


「それで――丕は? あの怪異狂いはどこにおる」


 つづいて卞夫人に投げかけた声は、曹沖の所在を環夫人に訊いた時に比べると、あきからに冷ややかだった。


 どうせあの親不孝者は、父親を出迎えるのが嫌で、ばっくれたに決まっている。問わずとも察しのつくことではあったが、尋ねずにはいられなかったのである。


 曹丕は正室の卞夫人が産んだ長子だ。その長子が、はるか北方の戦場より戻った父を出迎えぬとあっては、家臣や領民への示しがつかない。曹操という男は自分の息子の手綱すら上手く握れぬのか、と世人せじんに侮られてしまうのは彼のプライドが許さなかった。


「ええと……。ひ……丕は……。その……」


「申し訳ありません! このしんが悪いのです! 朝まではいらっしゃったのですが、私が少し目を離したすきに……。どうか私を罰してください!」


 夫の責めるような眼差しに、卞夫人が顔を赤らめて答えに窮していると、彼女をかばうように前へ進み出た曹真そうしんが地面に両膝をついて謝罪した。このままでは曹丕が何らかの罰を与えられかねないと恐れ、飛び出したのである。


「万死に値します! 私の首をねてください! それにて、どうか子桓様のことは不問に付していただきたく存じます!」


「よせ、真。立て。めでたい凱旋の日に、誰の命も取らぬ」


 曹真の必死な顔を見た曹操は、湧き起こりつつあった憤怒の感情をつとめておさえ、なるべく声が荒立たぬようにそう言った。「あの不良息子め」と曹丕への怒りを口にすれば、責任を感じた曹真がこの場で自刎じふんしかねないと恐れたからだった。思いつめやすい性格なので、その可能性は十分にあり得る。


 曹操は、この曹真に対して、永遠に消えることのない罪の意識があった。曹真が幼少の時、彼の実父は曹操を助けるために死んだのである。この哀れな孤児だけは自分のために死なせてはならない、と思って我が子のように養育してきたのだった。


「されど、子桓様がこの場にいないのは、外出をお止めすることができなかった私の罪です。命は取らぬと仰せならば、せめて我が財産をぜんぶ没収してください」


「ええい、財産も取らん。いい加減にせぬか。……分かった。分かったから、もうよせ。そなたに免じて、丕のこたびの不行跡には目をつぶろう。我が留守中に度朔君どさくくんの襲撃を退けた功績もあるからな。だからもう、無闇に自分を責めるのはよさぬか。次に『罰してくれ』と口にしたら怒るぞ」


「は……ハハッ! ありがとうございます! 感謝いたします!」


「後方の列に、郭嘉をのせた馬車がある。長い行軍で疲れているであろうから、なるべく早く休ませてやりたい。兵たちに輿こしを用意させてあるゆえ、郭嘉を自邸まで送ってやってくれ」


御意ぎょいッ!」


 曹丕おとがめなしと聞いて、曹真は喜色を浮かべた。勢いよく立ち上がり、郭嘉のいる後方の隊列へと走って行く。卞夫人も、夫に気づかれぬように、静かに安堵のため息をもらしているようだった。



 だが、この処置が面白くないのは、曹丕とは犬猿の仲の曹洪である。ペッとつばを吐き、「孟徳兄貴。あいつに甘すぎだぜ」となじるような語調で言うと、馬上の従兄いとこを睨んだ。


「あのガキは子桓の腰巾着なんだ。子桓の馬鹿が何をやらかしたって、かばっちまうような奴だぞ。子丹したん(曹真のあざな)が泣いて懇願したら、そのたびに子桓の不始末を許すのかよ。まわりに示しがつかねぇし、罰してくれって本人が言っているんだ。子桓ともども罰しちまえよ」


 遠慮の欠片もない物言いである。曹操はわずらわしそうに眉をしかめ、「声が大きい。民たちの面前で、主君を声高に難詰なんきついたすな」と叱った。だが、その叱声は、この男にしては弱々しい。


 前にも書いたが、あれやこれやとあこぎな商売をしている曹洪は、主君の曹操など問題にならない資産を持つ金満家きんまんかである。曹操挙兵の際には、莫大な額の援助をした。今でも、戦があるたびに、武具兵糧の不足分を曹洪が用立ててくれている。


 そういう背景があるため、曹洪とその食客たちが陰で人身売買やら汚職やらをしていても、曹操は見て見ぬふりをせざるをえないのである。その汚い金が、曹軍の軍資金となり、天下統一事業の一助となっているからだ。


 簡潔に言えば、曹操にとって、曹洪は金に困った時の財布なのである。これまでずっと助けられてきた借りもあるので、財布がどれだけ生意気な口を利き、やりたい放題の問題人物であっても、頭ごなしに「黙れッ! 我が決定が不服かッ!」と一喝することなどできないのだった。


「だってぇ~……。納得がいかねぇからよぉ~」


 曹操が厳しく叱らないため、曹洪はいつまでもネチネチ言う。豪快なように見えて、案外と陰湿なところがある男である。


われにも考えがあるのだ。あのドラ息子……丕には、やらせたい仕事がある。怪異狂いのあやつにしかできぬ仕事だ。それゆえ、これぐらいのことで罰したりはせぬ」


「ふぅ~ん……。孟徳兄貴がそこまで言うのなら、まあいいけどさぁ~……。でも、子桓の新しい腰巾着は、早い内に始末しておいたほうがいいぜ。とんでもない大悪人だから、ただでさえ問題の多い子桓に悪影響を与えかねないぞ」


「新しい腰巾着? 誰だ、それは?」


「司馬懿、字は仲達。孟徳兄貴の招きをさんざん無視していた、仮病野郎のことだよ。あの若造、『風痺ふうひ(関節リウマチ)の病だから出仕できない』とかぬかしていたくせに、どういうわけか子桓の招聘しょうへいには応じて、ふつうにピンピンしてやがるんだぜ? 孟徳兄貴や、兄貴の代理として丁重なる使者を送り続けてきたわしのことを、ずいぶんとめていると思わないか? あんな奴、首チョンパしちゃってくれよ」


 主君の曹操が勧誘していた人材だから、自分の手ではさすがに殺せない――と曹洪なりに自重し、今までは司馬懿に危害を加えてこなかった(拉致らちして、司馬懿の鼻の穴に自分の鼻くそを捻じ込んだのは、曹洪の中では「危害」に分類されていない)。


 だが、あの男が自分を真っ向から批判し、外道呼ばわりした怨みを忘れていたわけではない。曹操が帰還したこのタイミングに、司馬懿を処刑させてやろうと企んでいたのである。

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