奸雄の凱旋
曹軍の隊列に「落下物」が降りそそぐ約十数分前――。
愛馬の
曹操は、高々と右の拳をあげ、歓喜の声にこたえる。小柄であまり風采のあがらぬ男だが、目に鮮やかな
「おお、さすがは天下の大半を切り取られた曹公。威風堂々としておられる」
「もはや曹公に逆らう群雄もおるまい。これからは、戦も少しは減るじゃろう」
「そうあってもらいたいものだなぁ」
などと、声高に曹操をたたえあった。
ただし、その言葉の裏には、
――何年も戦つづきで疲れたし、しばらくは自分たちの家族を戦場に連れて行ってもらいたくない。
という彼らの切実なる本音が隠れている。その本音を実際に口にする者は、たとえ囁き声であったとしても、
曹操軍、特に本人直属の部隊は、薄気味悪いまでに統率がとれている。まるで巨大怪物が地を這っているように、一個の意志となって、おおぜいの兵士が粛々行進しているのである。『孫子』を徹底的に研究し、同書に
そんな恐怖の軍団長たる曹操にぴったりと付き従い、護衛にあたっているのが、
虎豹騎は、曹軍のなかでも精鋭中の精鋭しか選ばれない最強の近衛騎兵隊で、今回の北方遠征で
また、許褚が指揮を執る虎士も、手練れの剣士を集めた近衛歩兵隊として勇名をはせている。今は亡き
ただ、隊長の許褚だけは、珍しく元気がないようだ。しょんぼりとうつむき、しきりにため息をついている。
「
などと、自分の任務を妨害した張郃を呪う言葉をときどき呟いていた。
「あなた。お帰りなさいませ」
従軍した家族の帰還を喜び、領民たちが歓呼の声を上げている中、彼らとともに
日頃から仲間に「
妻子との久しぶりの対面を果たした曹操は、満足げに
「……
曹操という男は
卞夫人が産んだ四番目の男子の
「それが……沖は数日前から風邪をひいていまして。
曹沖の生母である環夫人が申し訳なさそうに答えると、曹操は
「それで――丕は? あの怪異狂いはどこにおる」
つづいて卞夫人に投げかけた声は、曹沖の所在を環夫人に訊いた時に比べると、あきからに冷ややかだった。
どうせあの親不孝者は、父親を出迎えるのが嫌で、ばっくれたに決まっている。問わずとも察しのつくことではあったが、尋ねずにはいられなかったのである。
曹丕は正室の卞夫人が産んだ長子だ。その長子が、はるか北方の戦場より戻った父を出迎えぬとあっては、家臣や領民への示しがつかない。曹操という男は自分の息子の手綱すら上手く握れぬのか、と
「ええと……。ひ……丕は……。その……」
「申し訳ありません! この
夫の責めるような眼差しに、卞夫人が顔を赤らめて答えに窮していると、彼女をかばうように前へ進み出た
「万死に値します! 私の首を
「よせ、真。立て。めでたい凱旋の日に、誰の命も取らぬ」
曹真の必死な顔を見た曹操は、湧き起こりつつあった憤怒の感情を
曹操は、この曹真に対して、永遠に消えることのない罪の意識があった。曹真が幼少の時、彼の実父は曹操を助けるために死んだのである。この哀れな孤児だけは自分のために死なせてはならない、と思って我が子のように養育してきたのだった。
「されど、子桓様がこの場にいないのは、外出をお止めすることができなかった私の罪です。命は取らぬと仰せならば、せめて我が財産をぜんぶ没収してください」
「ええい、財産も取らん。いい加減にせぬか。……分かった。分かったから、もうよせ。そなたに免じて、丕のこたびの不行跡には目をつぶろう。我が留守中に
「は……ハハッ! ありがとうございます! 感謝いたします!」
「後方の列に、郭嘉をのせた馬車がある。長い行軍で疲れているであろうから、なるべく早く休ませてやりたい。兵たちに
「
曹丕お
だが、この処置が面白くないのは、曹丕とは犬猿の仲の曹洪である。ペッと
「あのガキは子桓の腰巾着なんだ。子桓の馬鹿が何をやらかしたって、かばっちまうような奴だぞ。
遠慮の欠片もない物言いである。曹操は
前にも書いたが、あれやこれやとあこぎな商売をしている曹洪は、主君の曹操など問題にならない資産を持つ
そういう背景があるため、曹洪とその食客たちが陰で人身売買やら汚職やらをしていても、曹操は見て見ぬふりをせざるをえないのである。その汚い金が、曹軍の軍資金となり、天下統一事業の一助となっているからだ。
簡潔に言えば、曹操にとって、曹洪は金に困った時の財布なのである。これまでずっと助けられてきた借りもあるので、財布がどれだけ生意気な口を利き、やりたい放題の問題人物であっても、頭ごなしに「黙れッ! 我が決定が不服かッ!」と一喝することなどできないのだった。
「だってぇ~……。納得がいかねぇからよぉ~」
曹操が厳しく叱らないため、曹洪はいつまでもネチネチ言う。豪快なように見えて、案外と陰湿なところがある男である。
「
「ふぅ~ん……。孟徳兄貴がそこまで言うのなら、まあいいけどさぁ~……。でも、子桓の新しい腰巾着は、早い内に始末しておいたほうがいいぜ。とんでもない大悪人だから、ただでさえ問題の多い子桓に悪影響を与えかねないぞ」
「新しい腰巾着? 誰だ、それは?」
「司馬懿、字は仲達。孟徳兄貴の招きをさんざん無視していた、仮病野郎のことだよ。あの若造、『
主君の曹操が勧誘していた人材だから、自分の手ではさすがに殺せない――と曹洪なりに自重し、今までは司馬懿に危害を加えてこなかった(
だが、あの男が自分を真っ向から批判し、外道呼ばわりした怨みを忘れていたわけではない。曹操が帰還したこのタイミングに、司馬懿を処刑させてやろうと企んでいたのである。
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