丁姑祠縁起

「ほほーう。重陽ちょうよう節が嫁の休息日になっているのですか。その地の人々は嫁を大事にしているのですな。なんともやさしい話だ」


「ところがどっこい、そうでもない。この風習の成り立ちには、しゅうとめしいたげられて死んだと伝わる哀れな娘の説話が関わっている」


 淡々と語っていた曹丕の語調に、次第に力がこもりつつある。どうやら、その娘の説話とは、彼が収集している鬼物奇怪きぶつきっかいの事――すなわちオカルトネタの一つらしい。


費長房ひちょうぼうの方士仲間に左慈さじという男がいる。これは左慈の弟子の葛玄かつげんから伝え聞いた説話だ。

 昔……といっても、わりと最近のことだそうだが、葛玄が居住していた揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐんにかつて美しい娘がいた。姓はていといい、名は伝わっていない。

 丁家の娘は、十六歳の時、隣の郡のしゃ家に嫁いだ。しかし、その家の姑が非常に厳しく、意地悪な女だったらしい。嫁をさんざんにこき使い、言いつけた仕事をこなせないと木の棒で激しく叩いた。耐え切れなくなった丁家の娘は、首をくくって自害してしまったそうだ。それが、ちょうど九月九日のことであったという」


「え……ええぇぇ……。ひどい……。ぜんぜんやさしい話じゃない……」


 司馬懿は、鬼姑の過剰な嫁いびりにドン引きし、自殺に追い込まれた丁家の娘をあわれんだ。あまりにひどい話に、香雪こうせつ劉勲りゅうくんの娘も眉をひそめている。


「しかし、話の先は読めましたよ。自殺した丁家の娘が悪鬼となり、姑を祟り殺したのですな。それで、隣近所の人々が『嫁を働かせすぎるのはよくない。丁氏みたいに自殺して、化けて出られたら困る。彼女が死んだ九月九日を嫁たちの休息日にしよう』と決めた……。こんな感じでしょう?」


「残念。少し違うんだなぁ~。死んだ丁家の娘はその後、神となったのだ」


「は? 神? なんでいきなり神になったのです? ちょっと意味が分からんのですが……。うらみを抱いて死んだ人間は悪鬼になる。これは、子桓様が教えてくれた怪異譚の原則ですよ?」


「誰も原則だとは言ってはおらん。決めつけるな。怪異研究は『こうに違いない』という決めつけが一番危ういといつも教えているだろう。いい加減、覚えろ」


「は、はぁ……」


「いいか、仲達。非業の死を遂げた人間は、時に人々の同情の対象になったり、祟りを恐れる畏怖いふの対象となったりする場合があるのだ。その憐れみや恐怖心が、やがて信仰へと変わっていき、死者の魂をなぐさめしずめるための祠廟しびょうが建てられる。さすれば、その故人の魂は、人々の信仰心によって神格を得て、新たな神となる」


「非業の死を遂げた人間が神へ……。そういえば、いま思い出しました。江南地方の各地では、地元の英雄の伍子胥ごししょ(主君の呉王夫差に疎まれ、死を賜った春秋時代の人物)が神として崇められているとか。そんな話を父から聞いたことがあります」


「最近では、漢の敵であった項羽こううの廟も、呉の地につくられている。江南の民たちは、無念の末路をたどった元人間を神に祭り上げる傾向が特に強いようだ。丁氏のように名も無き庶民の娘までまつっているくらいなのだからな」


「つまり、嫁の祟りを恐れた謝家が、彼女を祀ったということでしょうか?」


「いや。丁家の娘――丁姑ていこと呼ばれているその女神の祠廟は、彼女が生まれた里にあると葛玄は言っていた。恐らくは、謝家は嫁の死後、故人をいたむどころか何の供養もしていまい。彼女のことを幼い頃からよく知っている故郷の人々が、その死を憐れんで神として祀ったのであろう。

 ……で、だ。話には続きがある。ある日、その女神丁姑が巫女にのりうつり、『各家の嫁たちが毎日汗水かいて働く姿は哀れを誘う。九月九日は嫁をこき使ってはならない。この日を嫁の休息日とすべし』という託宣を下したらしい。それゆえ、彼女の生まれ故郷とその近辺のいくつかの里では、重陽の節句に嫁を休ませている……という話だ。ただまあ、今のところ丹陽郡以外ではあまり広まってはいないらしいがな、その風習も丁姑信仰も」


「ううむ……。このあいだ遭遇した邪神度朔君どさくくんとは違い、何とも気の毒な神様だ。自殺するぐらいだから、謝家の義母はよほど恐ろしいばあさんだったのでしょうなぁ。ひどい姑もいたもんだ」


 深々と嘆息し、司馬懿はそのように所懐しょかいを述べた。すると、意外なところから、


「ひどいのは姑だけではないと思います。一番いけないのは夫です」


 と、異論が出た。


 司馬懿は、おやっと思い、唐突に口を開いた彼女――劉勲の娘に眼差しを向けた。曹丕にとっても意想外いそうがいなことだったらしく、酒杯を傾けながら、チラリと横目で見ている。


 司馬懿がこの娘と会ったのは今日をふくめてたった二度だけで、彼女のことはほとんど知らないが、それでも、横柄で騒がしい父親とはぜんぜん似ていない控えめな性格であることは、何となく分かっていた。山登りをしている間も、こうして酒を飲んでいる間も、誰かに話しかけられないかぎりは、この娘は率先して口を利いたことがなかったからである。華佗かだの診察を受けている際も、大人しく従順で余計なことはしゃべらず、うるさくわめきたてる劉勲の態度を恥ずかしがっているように見えた。


 そんな万事慎み深い彼女が、積極的に他人のげんに異論を差し挟むのは、ちょっと珍しい。よほどの存念があるのかも知れない。そう考えた司馬懿は、己の言葉を否定されても特に気分を害したりはせず、じっと見つめながら彼女が二の句を発するのを待った。


 だが、劉勲の娘は、いつもの内気な性格にあっさり戻ってしまったらしい。司馬懿の眼差しを避けるようにうつむいて、「す、すみません。何でもありません……」と謝った。


 司馬懿の眼光は、鷹のように鋭い。本人にそのつもりはなくても、睨みつけているように見えることがある。気弱な彼女は、無駄に鋭利な司馬懿の目力に、すっかりおびえてしまったようだ。


丹華たんかよ。言いたいことがあるのなら、遠慮なく申せ。何を言っても、ここにいる者たちは怒らぬ。仲達は、目つきは悪いが、中身は人畜無害のとほほ軍師だ。女子おなごを取って食ったりはせぬ」


 曹丕はそう言って、艶やかな笑みを劉勲の娘に向けた。司馬懿はいままで知らなかったが、彼女は劉丹華というらしい。


 ――とほほ軍師は余計だろ。


 そう食ってかかってやりたかったものの、司馬懿は喉まで出かかった言葉を呑み込み、黙って丹華を見守ることにした。


 この年若い娘に自分が微妙に恐がられていることぐらいは、人間観察に長けた男なので、曹丕に指摘されるまでもなくすでに察している。ここでまた自分が何か言ったら、この娘はさらに萎縮する恐れがある。


 ……などと気を遣っていたのだが――。


「あの……その……」


 曹丕に続きをうながされた丹華の顔は、ほんのりと朱に染まっていた。美貌の貴公子に見つめられ、今度は恥ずかしがっているようだ。


(俺の時とは反応がぜんぜん違うではないか。これが顔面格差社会というやつかよ……)


 彼女の分かりやすい反応に、司馬懿は心中プチいらついてしまった。が、それでも我慢して沈黙を守り続けた。


「……男の人が……いけないと……思うのです」


 とぎれとぎれながらも、丹華は自分の存念をようやく語りだした


「いくら姑が嫁を気に入らなくても、夫が妻を愛し、ちゃんと守ってあげていたら……。きっと、その女の人は首をくくらなかったと……その……思います」


 なるほど、と司馬懿は納得した。男性優位なこの時代の社会通念において、男である曹丕と司馬懿の前で口にするには、そうとう勇気のいる発言である。丹華はただでさえ控えめな性格なのだ。言うか否か躊躇ちゅうちょしてしまったのは当然だった。よくぞ言えたものだ、と司馬懿は彼女の意外な芯の強さに感心した。


 香雪も深く心を動かされたらしい。強くうなずき、「丹華様のおっしゃりたいこと、よく分かります」と、いつものおっとりとした口調とは違う、やや大人びた声で、丹華に賛同した。


「女は他家に嫁げば、夫と義理の両親に誠心誠意つかえ、子をたくさん産むことを望まれるもの。たくさんの家事をこなして休む暇も無く、出産は命懸け。せめて夫ただひとりだけは自分の味方でいて欲しい。そう願うのは女心ですわ」


 このほんわか妓女にも、ちゃんとした自分の考えがあるようである。


 しかし、そんなふうに思っているのに、費長房みたいな合法ロリ好き変態野郎を情夫にしていて大丈夫なのだろうか……? そんな疑問と心配が司馬懿の脳裏をかすめたが、他人の色恋に口出しするのも野暮なので、それは指摘しなかった。彼女にも、他人には言えない事情が色々とあるのだろう。


 一方、丹華は、同じ女性である香雪の賛同に勇気づけられたようだった。「そうです。そうなのです」と言いながら、しきりに首をたてにふった。


「心尽くして仕えてきた殿方にだけは裏切られたくない。自分を裏切るはずがない。母だってそう願い、信じていたはずなのです。それなのに我が父は……」


 思いつめた表情でそこまで語ると、丹華は急に立ち上がった。


 そして、曹丕たちから少し離れた場所まで歩いていき、何事かを一生懸命祈るように両手を胸に当てて空を仰いだ。よく見ると、肩が小刻みに震えている。


(もしかして泣いているのか? いったいどうしたのだ、彼女は……?)


 司馬懿が不審に思って眉をひそめると、曹丕が驚くべきことを低声こごえささやいた。


「家を出た母親のことを想い、その無事を願っているのであろう」


「え? 家を出た?」


「丹華の父――あのタヌキ顔の劉勲が、二十余年連れ添った妻の王宋おうそうを『世継ぎを産まない』という理由で、つい先日離縁したのだ。かわりに新しい妻を迎えるらしい。丹華とほとんど年の変わらぬ若い女だ」


「な、なんと。それは娘にしてみれば、非常にやるせない話ですな。……あっ、それで子桓様は丹華殿を登高飲酒に誘われたのですか。遠い地へと去った母親の無事を祈れるようにと……」


「フン。別にそんなつもりで誘ったのではない。ただの気まぐれだ」


 曹丕はぶっきらぼうにそう答えて相変わらず酒を飲んでいるが、どう考えてもそのつもりで誘ったんじゃないかと司馬懿は確信し、心の中でクスリと笑った。


 曹丕という若者はイジワルで、たちの悪いイタズラを好む。しかも、オカルト好きという奇矯ききょうなる趣味を持つ。それでも司馬懿が曹丕を好きなのは、民衆やか弱き者を慈しむ優しさを心の奥底に彼が隠し持っているからなのである。そのことを指摘すると曹丕は怒るので、ふだんは口にしたりはしないが――。




「……おや? あれはいったい……。ぎょう城のほうで何やら騒ぎが起きているような……⁉」


 母を想ってずっと祈っていた丹華が、ふと視線を落とし、山の頂きから見える風景を眺望した。彼女の口から、控えめな性格には似合わぬ一驚の声が出たのは、その直後のことである。


 つられて曹丕、司馬懿、香雪も立ち上がり、丹華のそばまで来て鄴城の方角を見下ろした。


 遠く離れているため、何が起きているのか詳しくは分からない。ただ、迎春門から入城しつつあった曹操軍の兵たちが、何らかの理由で恐慌状態に陥っているように見えた。整然と押し立てていた軍旗が次々と倒れ、隊列も散り散りに乱れている。


「ここからではよく見えぬが――」と冷静な声で言いつつ、曹丕は鄴城の方角を指差した。


「見ろ、仲達。空は雲一つない秋空だというのに、大量の何かが、兵士たちのの頭上に降り注いでいるぞ。その落下物に驚いて、みんな大騒ぎしているのだ」


「また、度朔君の襲撃でしょうか?」


「それは有り得るが、確かめてみねば分からん。残念だが酒宴はこれで終わりだな。急いで山をおりるぞ」








<丁姑信仰が始まった時期について>


「嫁の神」の丁姑の説話が載っているのは、毎回お馴染みの干宝著『捜神記』です。


『捜神記』によると、「丹陽郡生まれの丁氏は十六歳の時、淮南わいなん全椒ぜんしょう県の謝家に嫁いだ」とあります。


現在の安徽省にあった淮南郡は、後漢時代までは九江郡と称されていました。淮南郡に改称されるのは、三国時代の二五一年(司馬懿が亡くなった年)のこと。


つまり、干宝が記した『捜神記』の文章を素直に読むと、丁氏という女性が存在したのは早くても三国志の時代の終盤、遅ければ晋の時代に入って以降……。曹丕が生きていた頃には丁姑信仰は影も形も存在しなかったことになってしまいます(^_^;)


けっこうキャラ強めで面白そうな女神様なのに、小説に登場させられないのはもったいない‼ どうしても登場させたい‼ 何とかしてよ、イマジナリー・アキラ‼




イマジナリー・アキラ(CV:福〇潤)

「強引に出してしまえばいい。『丁氏は後漢時代の人で、自殺後に女神になった。しかし、曹丕が在世していた前後には、地元住民にも認知されていないご当地萌えキャラみたいなマイナー女神だった。歳月をかけてじわじわと丁姑信仰が江南地方の全域に広まり、東晋時代(干宝が生きていた時代)には武道館ライブができるレベルのアイドル女神になっていた。それで、干宝の『捜神記』にその説話が採用された』。……そんな感じの脳内設定で押し通せ!!!」


アキラ

「でも、丁氏は九江郡が淮南郡に改称されて以降に生まれたんじゃ……」


イマジナリー・アキラ

「そんな些細ささいなことを小説家が気にするなッ。昔話だって『むかーしむかし、三重県の山に鬼が住んでおりました。その鬼を退治するために坂上田村麻呂は……』みたいな感じで語られるではないか。昔は伊勢国と言われていても現代人が分かりやすいように現代の地名に言い直すなんてこと、日常茶飯事! 干宝も、むかし九江郡と呼ばれていた土地を今風(東晋時代)に淮南郡と言い換えただけだ。……という屁理屈で押し切れ!! 小説は史実ばかりにとらわれていたら面白いものは書けんぞ!!」


アキラ

「分かったよ、イマジナリー・アキラ!! オレやるよ!!」




……などという葛藤(?)の末、丁姑を物語に登場させる決断をしました( ̄▽ ̄)


ちなみに、歴史モノだからといって史実にこだわりすぎず、心に創作の翼を持つべきだ、とむかし気づかせてくれたのは、司馬遼太郎先生の短篇『戈壁ゴビの匈奴』です。

この作品で司馬先生は「チンギス・ハンの飽くなき征服事業の原動力は、他国の美女を得たいという野望だった」というテーマを描くために、チンギス・ハンが最後に滅ぼした西夏の最後の君主・李睍を女性にしているんですよね。


へぇ~、そんな美女がいたんだぁ~と思って調べたら、史実は男だったと知ってビックリしました。司馬先生に一本背負いで地面に叩きつけられたような感じです(笑)


「西夏の女は美しい」と若い頃に聞かされ、美女を欲し続けた英雄の最後の征服相手は、やっぱり西夏の美女じゃないとロマンスがない。だから李睍は小説内では美女であるべきなのです……(≧▽≦)





あっ、あとこれは余談ですが、劉勲の娘の名前についても一言。

いつまでも「劉勲の娘」では可哀想なので、彼女には小説オリジナルの名前「劉丹華」をつけることにしました。

曹植の詩『棄婦篇』(子供ができなくて離縁された妻の悲哀を詠んだもの。もしかしたら王宋のことかも?)にある「丹華 灼として烈烈」(赤い花は鮮やかに輝く)の一文から拝借し、劉丹華と名付けました。

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