Falls from the skies

の者の父親は、我が恩人、司馬防しばぼう殿だ。司馬防殿が洛陽北部尉らくようほくぶい(洛陽の北側の治安を守る警察部長)に推挙してくれたからこそ、われは世に出ることができた。そんな恩人の息子を軽々に首チョンパできるものではない」


 司馬懿が自分の勧誘を断りつづけたことに対して、内心は曹操も不快感を抱いてはいる。


 しかし、いまの彼は、長い遠征でとにかく疲れていた。さっさと司空府しくうふ(曹操の政庁兼屋敷)で旅塵りょじんをおとし、ひと眠りがしたい。従弟いとこの陰険極まる讒言ざんげんを聞いているのは苦痛かつ面倒だったので、話を速やかに打ち切ろうとした。


 が、ねちっこい曹洪がそんな簡単には退くはずがなかったのである。


「恩人の子だろうが関係ねぇ。悪党の不正を見過ごすのは、君子の道とは言えないぜ。司馬懿の奴が、孟徳兄貴の不在の間に、どれだけの悪事を働いたことか……。おい! 野郎ども! 司馬懿がこの数か月で何やらかしたか言ってやれ!」


 曹洪は、後ろに控えていた三人の食客――眼帯をしているチンピラA、鼻ピアスをしているチンピラB、目玉が魚みたいにぎょろぎょろしているチンピラC――に怒鳴った。



「ひへへへ‼ 曹公に申し上げまぁーす‼ 極悪非道な司馬懿は、華歆かきん様が朝廷より下賜かしされた女奴隷たちを全員誘拐し、闇市場で売っぱらっちゃいましたぁー‼ ふひっ‼」


 真っ先にそう誣告ぶこくしたのは、眼帯のチンピラA。


 自分たちが人身売買をやらかそうとして、曹丕と司馬懿に阻止されたというのに、とんでもなく厚顔無恥こうがんむちな罪の押しつけっぷりである。この場に事件の当事者の華歆がいれば、即座に否定するはずだったが、あいにく彼はいろいろ事情があって易京えきけい城に残っていた。



「曹公‼ それだけじゃないんですぅー‼ 司馬懿の奴ったら、めちゃくそ強欲で近所迷惑な野郎なんですぅー‼ 亡くなった張繍ちょうしゅう将軍のお屋敷を乗っ取り、将軍の奥方やご子息を追い出しちゃったんですぅー‼ しかも、張繍将軍の邸宅に居座ったかと思うと、今度は隣近所の貴重な牛さんたちを強奪し、焼肉にしてみんな食べちゃったんですぅー‼ えげつなすぎて恐すぎますぅー‼」


 謎のかわいこぶりっこ口調で野太い声を張り上げたのは、鼻ピアスのチンピラB。


 司馬懿が張繍の旧邸にいるのは事実だし、隣近所の屋敷で飼われていた牛たちを焼死させてしまったのも(「もったいないから」と言って、あとで曹丕と一緒に食べたことも含めて)事実ではある。


 しかし、張繍の妻子を別の家に強制引っ越しさせ、司馬懿にあの豪邸を与えたのは曹丕だ。司馬懿はつい最近までそんな事情は知らなかった。また、牛たちを死なせたのは、度朔君どさくくんが操る草の兵士を退けるために火牛かぎゅうの計を用いたからであって、悪意があったわけではない。牛を借りた家々には、後日ちゃんと謝罪し、それ相応の金を渡している(ただし、金を出したのは無職の司馬懿ではなく、父の司馬防と兄の司馬朗しばろう)。


 曹洪は、それらの内実を調べたうえで、食客に讒訴させているのである。非常にたちが悪いというほかない。



「まだまだあります‼ 聞いてください、曹公‼ 俺様と俺様の弟は、司馬懿を招聘しょうへいするため、礼儀を尽くして孝敬里こうけいりまで行ったんですよ‼ なのに、あの卑怯者は、武芸の達者な自分の嫁に命じて俺様と弟をボコボコにしたんです‼ 俺様は右腕を折られるだけで済みましたが……う、うう……。可哀想に……。俺の弟は、あれいらい人事不省に陥って、まだ目が覚めていないんっす……。うわぁぁぁぁぁぁん‼ お願いですから弟の仇の司馬懿を首チョンパしてくださぁぁぁい‼」


 などと嘘泣きをして訴えたのは、魚眼のチンピラC。


 たしかに、チンピラCの弟は、張春華ちょうしゅんかによって両手両足の骨を粉砕される重傷を負ったが、別に昏睡状態にはなっていないうえに毎日大盛りの飯を食べているほど元気である。しかも、春華がそんなデンジャラスな行為に及んだのは、そもそもの原因がこのチンピラ兄弟が彼女にセクハラ発言をし、おっぱいを揉みしだこうとしたからだった。



(い、いたたた……。洪の手下どもの野卑極まりない言葉を聞いていたら、持病の頭痛が……。いったい、どこまでが虚言で、どこからが事実なのだ?)


 途中まで聞き流していた曹操だったが、ここまで話題がてんこもりだと、食客たちの訴えの一部はもしかしたら本当なのかも知れないと思えてきた。


 実際、何割かは事実を混ぜ込んでいるし、調べたらすぐ分かること(張繍の屋敷のことなど)もあるため、なかなか巧妙な讒言の手口なのである。パッパラパーに見えて、こういう時にはいやらしいほど知恵が働くチンピラどもたちなのだった。



「いい加減にせぬか、子廉しれん(曹洪のあざな)。あるじが帰還して早々、悪意ある誣言ふげんを吐き散らすなど、見苦しいにもほどがある」


 見るに見かねてそう怒鳴ったのは夏侯淵である。


 夏侯淵は、近ごろ曹丕に重用されている司馬懿という男をよくは知らない。だが、曹洪が曹丕の勢力を削ろうと前々から躍起になっていることは、承知している。もしも司馬懿が曹操に殺されれば、曹丕はとうぜん怒るだろう。ただでさえ最悪な父子の関係が決定的に破綻はたんしてしまう。そうなることを狙い、曹洪はしつこく讒訴しているのだ――と見抜いていたのだった。


(この阿呆は、父と子が争った結果、孟徳が子殺しの罪を犯してしまう可能性を考えぬのか。いまは乱世だぞ。たとえ親子であっても、抜き差しならぬ事態に陥れば、有り得ぬ話ではない。最悪の結末に至った場合、のちのち孟徳が激しい後悔にさいなまれることになるのだぞ)


 夏侯淵は若い頃、ある事情から幼い我が子を棄てた。いまでも、その子の幻影を見て、果てなくつづく罪悪感に絶望する夜もある。だからこそ、


「父子の仲を裂くような真似はいたすな。あまり横着なことばかりしておると、貴様らに天罰が降りそそごうぞ」


 と、曹洪とチンピラどもを叱責したのであった。


 だが、曹洪という人間は、そんなことぐらいで「はい、そうですか」と首肯しゅこうするようなやからではない。天に向かって馬鹿でかい口を開けながらガハハハハハと大笑した。三人の食客たちも真似して笑っている。


妙才みょうさい(夏侯淵の字)はおかしなことを言う。孟徳兄貴への忠節心から奸臣を排除するよう進言しておるわしが、なにゆえ天の罰を受けるというんじゃ。しかも、今日は雲ひとつない青天! 天罰どころか雨の一滴すら降りそそぐまい! ぬわははははは!」


 煮ても焼いても食えぬ男である。


 しかし、曹洪の野蛮な笑声は、唐突に止まったのだった。


 何の前触れもなく、この鬼畜将軍は、後ろ向きにどうっと倒れたのである。


 ほぼ同時に、曹洪の食客たちも一斉にぶっ倒れた。



「洪⁉ お前たち、何をふざけて――」


 困惑した曹操は、目を回している曹洪と手下三人に、馬上から声をかけようとした。


 だが、言葉の途中で、曹操までもが愛馬から転げ落ちていた。激しい衝撃がとつぜん脳天を襲い、意識が一瞬飛んでしまったのだ。


(もしや、袁家の残党の襲撃かッ⁉)


 とっさにそう思った夏侯淵は素早く抜剣し、曹操に駆け寄った。


 幸い兜を被っていたため、多少は衝撃を和らげることができたらしい。すぐに意識を回復させた曹操は、夏侯淵に助けられながら半身を起こし、「孤を守れ! 群衆の中に刺客が隠れているぞ!」と近衛兵たちに命じた。


「おおッ!」


 たけき声で応じた曹純が、虎豹騎こひょうきを迅速に動かし、曹操と夏侯淵を厳重に取り囲む。わずか数秒で、いずこから刺客が飛び出て来ても撃退できる鉄壁の守りを築いた。たとえ敵が隠れ穴を掘っていて、足元から奇襲を仕掛けて来たとしても、たやすく返り討ちにできるであろう。


 一方、主君に叱責されたことをいまだに引きずってボーっとしていた許褚きょちょも、典韋てんいの元部下が的確に行動してくれたおかげで、何とか出遅れずに済んだ。虎士こしたちは、剣や槍などおのおの得意な武器を構え、臨戦態勢を取っている。


 しかし――彼ら近衛隊の素早い対応は、全てが無駄であった。なぜなら、脅威は地上にはなかったからである。むろん足元でもない。空だった。


「……ぬっ⁉ 上かぁぁぁ‼」


 自分の頭めがけて「何か」が落下してくることを野生的直感で察知した夏侯淵は、剣を頭上で一閃させ、落下物を叩き落とした。そして、足元に転がったそれを見た直後、


「こ、これは……魚だ! 魚が空から降ってきたぞ!」


 そう叫んでいた。武威赫々たるこの勇将も、魚が天より落下してくるという珍事にはさすがに動揺してしまったようである。


「魚? 空からだと? そんな馬鹿な!」


 曹操は驚きながらも、あたりを素早く見回した。


 自分のすぐそばに、銀灰色ぎんかいしょくの魚が落ちている。夏侯淵の頭上を襲った魚に似ていた。これが頭に当たって、曹操は落馬したのだ。兜に激突した衝撃で死んだか、それとも元々死んでいたのか、魚はピクリとも動いていない。


 まさか……と思い、いまだに気絶している曹洪と食客たちを見ると、彼らの口から銀灰色の魚の尾びれが生えていた。このチンピラ主従は、天から降ってきた魚を運悪く呑み込んでしまい、ぶっ倒れたのだろう。魚たちはまだ生きているらしく、下半身をピチピチ忙しなく動かしている。



 ――これはまだまだ降ってくるのではないか。



 人並み外れた危機察知能力を有する曹操は、確信に近い予感を抱いた。すぐさま鋭い声で、「ぜ……全員、頭を守れッ‼」と、兵士たちや自分の家族、そして群衆たちに注意を促した。


 しかし、時すでに遅しである。次の瞬間には、大量の銀灰色の魚が、十、二十、三十……と天からボロボロ降ってきたのだ。


 曹操の頭に降ってきたのは、まだ成育しきれていない若魚であったが、落下してくるものの中には体長が四十センチか五十センチ、大物だと六十センチ以上の成魚があった。それなりの大きさと重量のある物体が、雨あられとばかりに人々の頭上に降りそそいでくる。


「ギョギョギョ⁉ 曹公、これはキュウ鰣魚ジギョの古名)でギョざいますー‼ ふだんは海水を泳いでいて、春ギョろに産卵のため長江流域など内陸の河川まで遡上してくるお魚でギョざいますー‼ でも、今は秋だし、長江名物のお魚がどうしてこんなところにぃ~⁉」


 曹軍の兵士の中に、やたらと魚に詳しい者が一人いて、そう声高に叫んでいたが、彼の豆知識に耳を傾ける余裕など曹操にはなかった。もちろん、他の者たちも全く聞いていない。




 空から何かが落下してくるというのは、非常に危険なことなのである。


 私事わたくしごとではあるが――筆者わたしがまだ大学生だった頃のこと。ある日、筆者は電車に乗るため、駅前を歩いていた。駅前には、ティッシュを配っている人がよくいる。そのころの筆者は、要りもしないティッシュをもらっちゃうタイプの人間だった。


 しかし、その日は何気なく、ティッシュ配りの人の「どうぞ」という声を無視して、立ち止まらずに先を急いだ。


 その直後――筆者がつい一秒前までいた場所で、ダァァァーンと何かが激しく叩きつけられたような凄まじい音が周囲に響き渡ったのである。


 ぎょっと驚いて振り返ると、そこにあったのはカラスの死骸だった。上空を飛んでいる最中に突然死したのか、けっこうな大きさのカラスが私のすぐ真後ろに墜落したのだ。


(もしも、ティッシュを受け取るために、ほんの一瞬でも立ち止まっていたら……)


 筆者はぞっとした。他の通行人たちも、朝の忙しい時間帯なのに、足を止めて呆然としている。


 いちばん肝を冷やしたのは、カラスの死骸がアスファルトに叩きつけられる瞬間を至近距離で目撃してしまった、ティッシュ配りのお兄さんだった。顔面は真っ青、首が千切れる勢いで周囲をキョロキョロ見回しながら右往左往し、手から落としたティッシュを何度も踏んでいた。


 そして、しばらくして、ティッシュ配りのお兄さんがちょっと落ち着くと、筆者と目が合い、


「にへっ!」


「うふっ!」


 と、二人は引きつった顔のまま微笑み合った。意味不明である。




 カラス一羽だけでこうなのだ。水中の生物である魚が空から大量に落下してきたら、さらに意味不明すぎてパニックは必至である。重量のある成魚が頭に当たってしまった場合、しゃれでは済まない。


 当然、ぎょう城の民衆たちは恐慌状態に陥った。悲鳴を上げながら逃げ惑い、そのうちの何割かは、ワケワカメなまま虎豹騎や虎士の隊列へと闇雲に突っ込んだ。


 曹純と許褚、その部下たちは、落下してくる魚を剣や槍で払い落としつつ、民たちに冷静になるよう怒鳴った。しかし、そんなことで混乱が収拾するわけがない。近衛隊の鉄壁の守りも次第に乱れ始めた。


 魚が頭や肩に当たって倒れる者。でたらめに逃げている同士で激突してしまう者。または地面に落ちている魚を踏んづけて転び、頭をしたたかに打つ者……。つい先ほどまでの祝勝ムードは吹っ飛び、魚の雨が降りそそぐ迎春門の内外は、阿鼻叫喚のちまたと化した。


(く、くそ。この曹孟徳が鍛え上げた精鋭兵も、空からの襲撃にはさすがに対応できぬか。この奇怪な雨……まさか度朔君か? おのれぇ……。許さぬぞ、あのまがいものの神めッ!)


「曹」と大書された軍旗がバタバタと倒れていくさまを睨みながら、曹操は憤怒の形相で歯噛みするのであった――。

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