Falls from the skies
「
司馬懿が自分の勧誘を断りつづけたことに対して、内心は曹操も不快感を抱いてはいる。
しかし、いまの彼は、長い遠征でとにかく疲れていた。さっさと
が、ねちっこい曹洪がそんな簡単には退くはずがなかったのである。
「恩人の子だろうが関係ねぇ。悪党の不正を見過ごすのは、君子の道とは言えないぜ。司馬懿の奴が、孟徳兄貴の不在の間に、どれだけの悪事を働いたことか……。おい! 野郎ども! 司馬懿がこの数か月で何やらかしたか言ってやれ!」
曹洪は、後ろに控えていた三人の食客――眼帯をしているチンピラA、鼻ピアスをしているチンピラB、目玉が魚みたいにぎょろぎょろしているチンピラC――に怒鳴った。
「ひへへへ‼ 曹公に申し上げまぁーす‼ 極悪非道な司馬懿は、
真っ先にそう
自分たちが人身売買をやらかそうとして、曹丕と司馬懿に阻止されたというのに、とんでもなく
「曹公‼ それだけじゃないんですぅー‼ 司馬懿の奴ったら、めちゃくそ強欲で近所迷惑な野郎なんですぅー‼ 亡くなった
謎のかわいこぶりっこ口調で野太い声を張り上げたのは、鼻ピアスのチンピラB。
司馬懿が張繍の旧邸にいるのは事実だし、隣近所の屋敷で飼われていた牛たちを焼死させてしまったのも(「もったいないから」と言って、あとで曹丕と一緒に食べたことも含めて)事実ではある。
しかし、張繍の妻子を別の家に強制引っ越しさせ、司馬懿にあの豪邸を与えたのは曹丕だ。司馬懿はつい最近までそんな事情は知らなかった。また、牛たちを死なせたのは、
曹洪は、それらの内実を調べたうえで、食客に讒訴させているのである。非常にたちが悪いというほかない。
「まだまだあります‼ 聞いてください、曹公‼ 俺様と俺様の弟は、司馬懿を
などと嘘泣きをして訴えたのは、魚眼のチンピラC。
たしかに、チンピラCの弟は、
(い、いたたた……。洪の手下どもの野卑極まりない言葉を聞いていたら、持病の頭痛が……。いったい、どこまでが虚言で、どこからが事実なのだ?)
途中まで聞き流していた曹操だったが、ここまで話題がてんこもりだと、食客たちの訴えの一部はもしかしたら本当なのかも知れないと思えてきた。
実際、何割かは事実を混ぜ込んでいるし、調べたらすぐ分かること(張繍の屋敷のことなど)もあるため、なかなか巧妙な讒言の手口なのである。パッパラパーに見えて、こういう時にはいやらしいほど知恵が働くチンピラどもたちなのだった。
「いい加減にせぬか、
見るに見かねてそう怒鳴ったのは夏侯淵である。
夏侯淵は、近ごろ曹丕に重用されている司馬懿という男をよくは知らない。だが、曹洪が曹丕の勢力を削ろうと前々から躍起になっていることは、承知している。もしも司馬懿が曹操に殺されれば、曹丕はとうぜん怒るだろう。ただでさえ最悪な父子の関係が決定的に
(この阿呆は、父と子が争った結果、孟徳が子殺しの罪を犯してしまう可能性を考えぬのか。いまは乱世だぞ。たとえ親子であっても、抜き差しならぬ事態に陥れば、有り得ぬ話ではない。最悪の結末に至った場合、のちのち孟徳が激しい後悔に
夏侯淵は若い頃、ある事情から幼い我が子を棄てた。いまでも、その子の幻影を見て、果てなくつづく罪悪感に絶望する夜もある。だからこそ、
「父子の仲を裂くような真似はいたすな。あまり横着なことばかりしておると、貴様らに天罰が降りそそごうぞ」
と、曹洪とチンピラどもを叱責したのであった。
だが、曹洪という人間は、そんなことぐらいで「はい、そうですか」と
「
煮ても焼いても食えぬ男である。
しかし、曹洪の野蛮な笑声は、唐突に止まったのだった。
何の前触れもなく、この鬼畜将軍は、後ろ向きにどうっと倒れたのである。
ほぼ同時に、曹洪の食客たちも一斉にぶっ倒れた。
「洪⁉ お前たち、何をふざけて――」
困惑した曹操は、目を回している曹洪と手下三人に、馬上から声をかけようとした。
だが、言葉の途中で、曹操までもが愛馬から転げ落ちていた。激しい衝撃がとつぜん脳天を襲い、意識が一瞬飛んでしまったのだ。
(もしや、袁家の残党の襲撃かッ⁉)
とっさにそう思った夏侯淵は素早く抜剣し、曹操に駆け寄った。
幸い兜を被っていたため、多少は衝撃を和らげることができたらしい。すぐに意識を回復させた曹操は、夏侯淵に助けられながら半身を起こし、「孤を守れ! 群衆の中に刺客が隠れているぞ!」と近衛兵たちに命じた。
「おおッ!」
一方、主君に叱責されたことをいまだに引きずってボーっとしていた
しかし――彼ら近衛隊の素早い対応は、全てが無駄であった。なぜなら、脅威は地上にはなかったからである。むろん足元でもない。空だった。
「……ぬっ⁉ 上かぁぁぁ‼」
自分の頭めがけて「何か」が落下してくることを野生的直感で察知した夏侯淵は、剣を頭上で一閃させ、落下物を叩き落とした。そして、足元に転がったそれを見た直後、
「こ、これは……魚だ! 魚が空から降ってきたぞ!」
そう叫んでいた。武威赫々たるこの勇将も、魚が天より落下してくるという珍事にはさすがに動揺してしまったようである。
「魚? 空からだと? そんな馬鹿な!」
曹操は驚きながらも、あたりを素早く見回した。
自分のすぐそばに、
まさか……と思い、いまだに気絶している曹洪と食客たちを見ると、彼らの口から銀灰色の魚の尾びれが生えていた。このチンピラ主従は、天から降ってきた魚を運悪く呑み込んでしまい、ぶっ倒れたのだろう。魚たちはまだ生きているらしく、下半身をピチピチ忙しなく動かしている。
――これはまだまだ降ってくるのではないか。
人並み外れた危機察知能力を有する曹操は、確信に近い予感を抱いた。すぐさま鋭い声で、「ぜ……全員、頭を守れッ‼」と、兵士たちや自分の家族、そして群衆たちに注意を促した。
しかし、時すでに遅しである。次の瞬間には、大量の銀灰色の魚が、十、二十、三十……と天からボロボロ降ってきたのだ。
曹操の頭に降ってきたのは、まだ成育しきれていない若魚であったが、落下してくるものの中には体長が四十センチか五十センチ、大物だと六十センチ以上の成魚があった。それなりの大きさと重量のある物体が、雨あられとばかりに人々の頭上に降りそそいでくる。
「ギョギョギョ⁉ 曹公、これは
曹軍の兵士の中に、やたらと魚に詳しい者が一人いて、そう声高に叫んでいたが、彼の豆知識に耳を傾ける余裕など曹操にはなかった。もちろん、他の者たちも全く聞いていない。
空から何かが落下してくるというのは、非常に危険なことなのである。
しかし、その日は何気なく、ティッシュ配りの人の「どうぞ」という声を無視して、立ち止まらずに先を急いだ。
その直後――筆者がつい一秒前までいた場所で、ダァァァーンと何かが激しく叩きつけられたような凄まじい音が周囲に響き渡ったのである。
ぎょっと驚いて振り返ると、そこにあったのはカラスの死骸だった。上空を飛んでいる最中に突然死したのか、けっこうな大きさのカラスが私のすぐ真後ろに墜落したのだ。
(もしも、ティッシュを受け取るために、ほんの一瞬でも立ち止まっていたら……)
筆者はぞっとした。他の通行人たちも、朝の忙しい時間帯なのに、足を止めて呆然としている。
いちばん肝を冷やしたのは、カラスの死骸がアスファルトに叩きつけられる瞬間を至近距離で目撃してしまった、ティッシュ配りのお兄さんだった。顔面は真っ青、首が千切れる勢いで周囲をキョロキョロ見回しながら右往左往し、手から落としたティッシュを何度も踏んでいた。
そして、しばらくして、ティッシュ配りのお兄さんがちょっと落ち着くと、筆者と目が合い、
「にへっ!」
「うふっ!」
と、二人は引きつった顔のまま微笑み合った。意味不明である。
カラス一羽だけでこうなのだ。水中の生物である魚が空から大量に落下してきたら、さらに意味不明すぎてパニックは必至である。重量のある成魚が頭に当たってしまった場合、しゃれでは済まない。
当然、
曹純と許褚、その部下たちは、落下してくる魚を剣や槍で払い落としつつ、民たちに冷静になるよう怒鳴った。しかし、そんなことで混乱が収拾するわけがない。近衛隊の鉄壁の守りも次第に乱れ始めた。
魚が頭や肩に当たって倒れる者。でたらめに逃げている同士で激突してしまう者。または地面に落ちている魚を踏んづけて転び、頭をしたたかに打つ者……。つい先ほどまでの祝勝ムードは吹っ飛び、魚の雨が降りそそぐ迎春門の内外は、阿鼻叫喚の
(く、くそ。この曹孟徳が鍛え上げた精鋭兵も、空からの襲撃にはさすがに対応できぬか。この奇怪な雨……まさか度朔君か? おのれぇ……。許さぬぞ、あのまがいものの神めッ!)
「曹」と大書された軍旗がバタバタと倒れていくさまを睨みながら、曹操は憤怒の形相で歯噛みするのであった――。
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