丁姑あらわる

 その日の夜のこと。


 度朔君どさくくん廟に、一人の女神が舞い降りた。


 度朔君に頼まれ、彼女を背中に乗せて連れて来たのは、あの子鹿もどきの白い獣である。獣は幼いながらも、高速で空を飛ぶ能力を有しており、度朔君廟がある河東かとう郡(現在の山西省南部)と女神が暮らしている丹陽たんよう郡(現在の江蘇省の長江以南)を往復するのに一時間もかからなかった。


「白坊や。ありがとう」


 白き獣が廟前でふわりと着地すると、小さな背中に横乗りしていた女神は優雅におりて、子鹿もどきの頭を撫でてやった。獣は「キュ~ン!」と嬉しそうに鳴き、女神の華奢な脚に頬ずりをする。


 彼女は、縹色はなだいろの着物を身にまとい、青空を連想させるその明るい色は、夜の暗闇に美しく映えていた。


「……女神様。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」


 外で待機していた方士大福が、やや緊張した声でそう言い、廟の扉を開けた。


 誰に対しても傲岸不遜なこの男が、女神にはやたらとへりくだっている。


 実は以前、その小娘みたいな外見――十代半ばぐらいに見える――に惑わされ、侮った態度を取ったところ、川に沈められて危うく溺死しそうになったことがあったのである。


「あら。貴方、女を見下すのが大好きなクズ野郎さんじゃありませんか。まだここにいたのですね。度朔君ったら、どうしてこんなクズ野郎さんをいつまでも使っているのかしら。……あの時、サクッと殺しておけばよかったわね」


 優しくまるみのある声音で恐ろしいことを言うと、女神はマフラーみたいに首に巻いている真紅の布を指でいじりながらウフフと上品に笑った。大福は、背筋に冷たいものが走り、顔を強張らせる。


 女神はいま黒笠を深々とかぶっているため、ほころんだ口元しか大福からは見えないが、恐らく彼女の目は笑ってはいまい。かなり前のことでもずっと根に持っているタイプの神様なのである。


「そ、その節は無礼な態度を取ってしまい、まことに申し訳なく――」


しゃべらないで。耳がけがれる」


 大福の言葉をピシャリと遮ると、女神は陰気な二流方士を無視して、廟の中に入って行った。


「……チッ。クソ女が」


 扉がバタンと閉まる音がするのを待ち、大福はごくごく小さな声で毒を吐いた。


 彼が口と耳、鼻からドバドバッと大量の血を噴き出し、もんどり打って倒れたのは、その三秒後のことである。


 どうやら、自分の悪口に敏感な女神には、ばっちり聞こえていたらしい。


「わたくしが帰るまで、そこで血の海に溺れていなさい」


 という冷たい声が、建物の中からした。


「だ……だずげ……」と大福は救いを求めたが、助けてくれるわけがない。度朔君も、外の状況が分かっているはずなのに、無視している。


 激痛が体中を走り回り、だんだん何も考えられなくなっていき、彼は文字通り血の涙を流しながら気絶してしまった。


「……キュン?」


 どうしてこんなところで寝てるんだろう。そう不思議に思っている様子の白い獣は、ちょこんと小首を傾げ、大福をしばし眺めているのであった。




            *   *   *




 ――やあ、丁姑ていこ揚州ようしゅうからはるばるよく来てくれたねぇ。良い酒があるから、こっちにおいでよ。話を始める前に、とりあえず一献やろう。



 度朔君は、姿を現した女神にテレパシーで声をかけ、すだれの中に請じようとした。


 しかし、丁姑と呼ばれたその神は、酒には興味がないらしい。「結構です」と断ると、黒笠を取り、隅っこでぽつねんと座っている中年の婦人――おたまじゃくしの解毒薬で救われた(?)王宋おうそう――にツカツカ歩み寄った。ちなみに、と農夫たちは、度朔君に家へ帰るよう命令されたので、すでにここにはいない。


「度朔君。白坊やが言っていた可哀想な女の人というのは、この人ですね」


 丁姑は、王宋のまわりをうろうろ歩きつつ、そう問うた。


 そうさ、彼女の姓名は王宋だ、と度朔君はテレパシーで答える。


「ああ、王宋さん。知っています。この人の夫の劉勲りゅうくんが一時期、揚州の盧江ろこう(現在の安徽省)でブイブイ言わせていたことがあるので。

 そろそろ四十の坂にさしかかる年齢のはずなのに、二十代後半と言っても分からない美しさですね。タヌキ顔の劉勲には本当にもったいない。でも、貴女…………」


 非常に臭う。とっても臭っていますよ――犬みたいに鼻をくんくんさせると、丁姑は無遠慮にそんなことを言い放った。王宋を見つめる大きな瞳は黒々と澄んでいて、あどけなさを残した花のかんばせには悪意が全く感じられない。


 突然あらわれた謎の少女の無邪気な暴言に、王宋はビックリしてしまった。眉根を寄せ、「わ……私、そんなに臭くありません!」と抗議した。


 ただ、大人しい性格の彼女なりにがんばって怒ってみせてはいるが、声にぜんぜん迫力がない。体に力が入らないのである。毒物を飲んでさっきまで意識不明だったのだから、当然のことだった。


「あー失礼。貴女がばっちくて臭う、というのではありません。貴女から、男に裏切られた不幸な女の臭いがする、と言っているのです」


「男に裏切られ――」


 どうやら図星だったらしい。王宋は黙り込んでしまい、悲しげに目を伏せた。



 ――さすがは「嫁の神」だねぇ。虐げられた嫁の悲哀が、その者が放つ香りで分かるとは。王宋よ、先ほど余に話してくれたことをこの女神にも語ってごらん。彼女は、この世すべての嫁の味方。きっと力になってくれるはずだよ。



 度朔君がそううながすと、王宋は「えっと……」と当惑げに視線をさ迷わせ、躊躇ちゅうちょする素振りを見せた。


 度朔君のことは、曹操すら恐れをなす河東郡の神だと噂に聞いたことがあったので、問われるままに事情をついつい話してしまったが、自分の娘よりも年下に見えるこの少女が神様だとは信じられない。しかも、「嫁の神」っていったい何だろう、という疑問もある。頼っていいものやら……と迷うのは無理もなかった。


 ちなみに、これは余談だが――「嫁の神」なのに名前が丁とはこれ如何いかにと思いたくなるが、「姑」には「しゅうとめ」以外に「おんな」「婦女」という字義がある。ここでいう丁姑とは、丁女ていどの意味だろう。


「やれやれ。神になって間もない身とはいえ、まだまだわたくしの名は売れていないようですね。知らないのならば教えてあげますよ、わたくしの偉大さを」


 丁姑はそう言うと、フフーンと得意そうに笑い、広大なるモンゴル草原を彷彿ほうふつとさせる真っ平な胸を大きく反らせた。


「王宋さん。貴女の夫の劉勲は、かつて揚州に盤踞ばんきょしていたことがありますよね。その頃に聞いたことがあるはずですよ? 江南地方では、『九月九日の重陽ちょうようの節句には、どこの家も嫁を働かせない』という風習があることを。何を隠そう、お嫁さんに優しいこの風習を世間に広めたのが――」


「あの、話の途中ですみません。そんな風習、ありましたっけ? 私、知らないんですけれど」


「……はぁぁぁ⁉ なんでなんで⁉ なんで知らないの⁉ むかし揚州にいたんでしょ⁉ そんなはずがない、思い出してくださいってば!」


 丁姑がいまにも噛みつきそうな勢いで迫ってきたため、王宋は首を傾げながらウーン……と考えた。


「…………あっ。そういえば、そんな風習を有する里がどこぞにあると小耳に挟んだことがあったような、なかったような……。でも、本当に限られた地域だけで、それほど広まってはいなかったはずですけれど」


 王宋が当時のことを思い出しつつ答えると、丁姑は「うぐぅ……」と唸り、美しい顔を歪ませた。


「い……いま、大々的に広めようと、メチャクチャがんばっているところですから。あ、あと百年も経てば、江南のどこの家でも、九月九日は嫁の休息日になる予定ですから。最終目的は、この風習を中国全土に拡散することで――って、いまはそんな話はどーでもいいのですぅー! とにかく、巫女にのりうつって神託を下し、その風習を作るように命じた神がこのわたくし、丁姑ちゃんなのですぅー! だから、貴女も、全国のお嫁さんの味方であるわたくしをもっと有り難がり、敬い、そして頼りなさぁーい! 絶対に力になってあげますから!」


 癇癪かんしゃくを起こした嫁の神は、地団駄を踏みながら、涙目でキャンキャンわめきたてた。自分がまだまだマイナーな神様で、信仰を広めてくれる崇拝者がごく一部の地域にしかいないことをかなり気にしているらしい。さっきまでの余裕ある態度はどこへやら、神としての威厳は消え失せ、見た目だけでなく言動までもが十代の小娘とほとんど変わらぬ幼稚さになっていた。


「力になると言われても……。私、夫に離縁されたのです。いまさらどうしようもありません」


「つべこべ言わず、事情を話す! さあ早く!」


 丁姑は、頬をぷくーっと膨らませながら王宋に迫り、キス寸前の近さまで顔を近づけた。


 女同士とはいえ、とびきりの美少女の顔が三センチ前にあったら、さすがにドキッとしてしまう。王宋は赤面し、「わ……分かりました。話しますから、そんなに顔を近づけないでください」と言った。


 満足した丁姑は「よしよし、それでいいのです」と微笑み、そこらへんにあったむしろの敷物を王宋の隣に置き、そこにどっかと座った。あまり行儀は良くないようである。


「……私は、ほんの小娘といっていい年齢で子台しだい(劉勲のあざな)様に嫁ぎ、二十余年のあいだ夫に誠心誠意つかえてきました。一女を授かり、最初は仲睦まじかったのですが……。私が世継ぎの男子を産むことができなかったせいで、夫の心はだんだんと私から離れていったのです」


「あー、あるある。よくある。なかなか身籠らなかったり、女ばかり産まれて男子ができなかった時、その原因と責任をぜんぶ妻に押しつけちゃう世間のいやぁ~な悪習。あれ、本当に胸糞悪いんですよねぇー。んで、とうとう離縁を言い渡されてしまったと?」


「え、ええ……。数日前に突然、『世継ぎを産めぬ女は必要ない。ピッチピチの新しい妻を迎えるゆえ、家から出て行け』と告げられました。娘と別れの言葉を交わす時間もろくに与えられず、ぎょう城の屋敷を追い出され……」


「それはひどい! 劉勲って、旧知である曹操の威光を笠に着るクズ将軍だとは風の噂で聞いていましたが、想像以上のクズだったようですね。糟糠そうこうの妻をそんな簡単に切り捨てるなんて。チ〇ポを切り落とされても文句を言えない最低野郎じゃないですか」


「ち、ちん……こほん! 私にはすでに父母がなく、頼れる相手といえば、このあたりに住む遠縁の者がただ一人。それゆえ、その遠縁の家を訪ねるべく、わずかな供を連れて河東郡まで来たのですが――運悪く、この里の近くで盗賊に遭遇してしまいまして。供の者は殺され、私は命からがらこの里まで逃げてきました。我が身のあまりの不運に、すっかり人生を悲観してしまい……。ふところに忍ばせていた毒薬の小壺を取り出して、衝動的に飲んでしまったのです」


「懐に忍ばせていた? 貴女、もしかして、毒をいつも持ち歩いていたのですか?」


「はい。あの毒薬は、子台様に嫁ぐ際、父から贈られた物でした。『戦で城が落ち、夫いがいの男に辱めを受けそうになったおりには、これを飲んでみさおを守れ』という言葉と一緒に……」


「……フーム。面白くない話ですねぇ。女はただ一人の男に人生を捧げることを求められ、男のほうは複数の女を取っ替え引っ替え。いらなくなった古女房はポイして、若い女を新しい妻に迎える。まったくもって不公平な世の中です。でも、こうして無事に生きているということは、毒が効かなかったということですか?」


 丁姑がそう問うと、さっきからずっと二人の対話を黙って聞いていた度朔君が、テレパシーで代わりに答えた。



 ――うちの里の者たちがおたまじゃくしの解毒薬で救った……と言いたいところだけれど、たぶん毒の効果が薄まっていたんじゃないのかな。なにせ二十年以上前に作られた薬だし。



「なるほど。それは運が良かったですね」



 ――とはいえ、命は助かっても、彼女の傷ついた心は癒されぬままだ。このままではまた自殺しかねない。力になってやりたいところだが、余はついこのあいだ、曹操の居城でひと暴れしてきたばかりでねぇ。しばし休息して、霊力を回復させねばならない。それで、動けぬ余のかわりに彼女を助けてやってもらいたくて、貴女を呼んだのだ。



「ほほーう、そういうことでしたか。よろしい、力になりましょう。わたくしは嫁の神、この世すべての嫁の味方です。この丁姑ちゃんが、王宋さんになりかわって、クズ夫への復讐を果たしてあげましょう。長年にわたって尽くしてきた妻をあっさり捨てた劉勲なんて、あらゆる恐怖と苦痛を味わわせ、じっくりなぶりり殺してあげます」



 ――ちなみに、劉勲の主君である曹操は、無類の女好きで知られる男だ。数えきれないほどの妻妾を持ち、他人の妻にまで手を出している。そんな好色ジジイに仕えている正室や側室らは、さぞかし辛い思いをしていることだろう」



「むむむっ! それは聞き捨てなりませんね! 女にだらしないおっさんだとは噂で何となく知っていましたが、曹操ってやつはそこまで女泣かせなのですか!」



 ――そうさ。曹操みたいな女の敵が天下の権を握っているから、劉勲ごとき雑魚までが女を虐げるんだ。恐らく、曹操軍の配下の多くも、嫁をいじめるひどい夫ばかりじゃないのかなぁぁぁ。



 度朔君は、ねっとりとした口調でそんな臆測を言い、丁姑をたくみに煽った。河東郡の民たちに対しては穏やかな善神として振る舞っていたのに、曹操がからむと、この神は邪悪な気配を漂わせ始めるのだった。


 一方、丁姑は、精神年齢が十代半ばのため、狡猾な邪神の悪だくみに気づけず、まんまとコントロールされてしまっている。「それは放っておけません!」と叫ぶと、憤然と立ち上がった。


「劉勲に死という名の天罰を与えるついでに、曹操とその配下たちの嫁も救わねば! 王宋さん、さあ行きましょう! 鄴城の男という男を血祭りにあげに!」


「え? え? どいうことですか⁉ なんでそうなるんです⁉ そ……そもそも、夫を殺してなどと頼んでいません。彼が死ねば、一人娘の身寄りがなくなって不憫――」


「いざ出陣ッ‼」


 丁姑は、ぜんぜん話を聞いていない。王宋の手をつかむと、彼女を引きずって、飛ぶように建物から出た。外で血反吐をはきながら気絶している大福を踏んづけ、子鹿もどきの白い獣に「白坊や! ちょっと鄴までのせていってください!」と頼む。


「二人乗りしても重たくないですか? ちなみに、女の子に『重い』とか言う子はもてませんよ?」


「キューーーン!」


「よーし、いい子です! ほら、王宋さん。この子にしっかりつかまって」


「ま、待って? 本当に待って? 復讐とかそういうのって、ふつう本人の意思確認とか必要なのでは⁉」


 問答無用である。白い獣は、丁姑と王宋を背中に乗せると、嫁の神が命じるまま鄴城めざしてジェット機のごとくぶっ飛んでいった。


「ああああああああーーーーーーッ!!!!!!」という王宋の悲鳴が夜空に響き渡る。



 一方、廟内で独りになった度朔君は、「……とにかく、いまは曹操の権威を地に落とすことだ」と喉から発する生の声でブツブツ呟いていた。


「居城の鄴で次々と怪異が起きれば、民たちの心は奴から離れていくであろう。離反を考える重臣もやがて現れるはず。余が曹孟徳を討つのは、そのあとだ」

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