死を司る冥吏

「こ……この痴れ者どもめがッ! 廟内にむくろを入れるとは何事だ! どこかに捨てて来い!」


 方士大福が、里人たちを叱り飛ばした。


 度朔君どさくくんの神聖なやしろをけがされたことに対して怒っているのではない。廟守びょうもりであるこの男は、ここで寝泊まりしている。だから、自分が起居する建物に死体を運び込まれたことが不愉快だったのだ。


「……いや、ちょっと待ってください。この人、死んではいないようですよ。薄っすらと息をしています」


 皆が周章狼狽しゅうしょうろうばいしている中、女人にょにんの鼻先に手をかざし、そう言ったのはだった。この書生、若いながら意外と肝が据わっているようである。


「ほ、本当け⁉ そいつは良かっただぁ~!」


 ここまで女人を運んで来た屈強な農夫がホッと胸を撫で下ろす。倒れている彼女を最初に発見した老人も、「はぁ~、ビックリした。壊れた橋の近くで、顔を真っ青にして倒れていたから、てっきり死んでいると思っただよぉ~……」と呟き、ひたいの汗をぬぐった。


「しかし、見たところ、どこにも外傷がありませんね。怪我をして動けなくなったわけではないようです。何かの病でしょうか。……あっ! ま、まさか、私の母を苦しめている瘟神おんしんがこの女人にも――」


 自分の家の近所で倒れていたと聞かされ、蘇は疫病の神の仕業を疑った。だが、この場にいる全員の頭に響き渡った度朔君の言葉が、それを否定した。



 ――違うねぇ。その女人の体内からは、毒の気配を感じる。彼女は服毒自殺を図ったようだ。発見現場を調べれば、毒が入っていた小壺が転がっているはずだよ。



「ええ⁉ ど、毒ですって⁉ 身分の高そうな人なのに、何を思い迷ってそんな……」



 ――蘇や、そんなに驚くことはないさ。漢の皇帝ですら、奸雄曹操の魔手にとらわれ、辛酸をなめる日々を過ごしているんだから。どれだけ尊き身分でも、それぞれの立場に応じた苦しみを背負っているものさ。ましてや、この女人はたかだか武官の妻だ。そりゃあ何かしらの憂苦を抱えているだろうよ。



「武官の妻……? 度朔君様は、この女人がどなたなのかご存知なのですか?」



 ――うん、まあね。この者は王宋おうそう。曹操と親しい劉勲りゅうくんという武将の妻だよ。



 度朔君がテレパシーで蘇や里人たちにそう教えると、一同はざわざわと騒ぎ始めた。全員、顔色が悪い。理由は不明だが、この国の最高権力者の配下の妻が自分たちの里で倒れていたのだ。しかも、服毒自殺を図ったという。このまま死んでしまえば、とんでもなく面倒臭いことになりかねない……。


「こ、困る。うちの里で曹公ゆかりの御方に死なれたら、すっごく困る」


「どうしましょう、度朔君様⁉」


 農夫たちは半泣き状態である。自分たちのような弱者の命は、権力者の逆鱗に触れたら、たちまち塵芥ちりあくたのごとく吹き飛ぶ。そのことを彼らはよく知っているからこそ、恐怖しているのである。徐州じょしゅう無辜むこの民を大虐殺し、降伏した袁紹えんしょう軍の兵士八万人を生き埋めにした曹操のことだ。小さな里の一つや二つ、何の躊躇ためらいもなく滅ぼしかねなかった。



 ――まあ、落ち着きなさい。王宋がいま死ぬ運命にあるかどうか、冥府の役人に確認してあげるから。



 度朔君は、テレパシーで一同にそう告げると、忽然こつぜんと姿を消した。


「え? 神様はどちらへ?」と皆は驚いたが、わずか数秒後、儒衣をまとった巨人の影は、彼らの前に再び現れた。ほんの一瞬で現世と冥界を往来したらしい。


(だが、冥府の役人とやらは、いったいどこにいるのであろう。すだれの向こう側に見える人影は、最前と変わらず度朔君様ただお一人に見えるのだが……)


 そんなふうに蘇たちがいぶかしんでいると、



 ガタッ



 簾の内側で物音がした。風もないのに、ひとりでに燭台が倒れたのだ。


「わっ、わわわ……。やっちゃった、やっちゃった。すみません、すみません」


 細々と、あえかなる女の声が、度朔君のすぐ傍らから聞こえてくる。その時はじめて、蘇たち里人は、簾の向こうにもう一人だれかいることに気づいた。目には見えないが、正体不明の何者かが、たしかにそこに存在している。



 ――やれやれ。生前は曹操を惑わすほどの絶世の美女だっというのに、ドジな冥吏さんだねぇ。大福、灯りをともしてあげて。



 あるじに命令された大福は、気怠そうに簾の中に入り、倒れた燭台を立たせると、手早く灯りをつけた。


 火影ほかげがふたたび、簾内れんないに座す神の姿を浮かび上がらせる。


 度朔君はスッと右手を上げ、意識不明の王宋を指差した。そして、自分の真横――度朔君いがいには見えないが、紫の被風マントを纏った冥府の女役人がそこに座っている――を見つめた。あの女性はいますぐ死ぬのか、とその寿命を問うているのである。


 だが、冥府の女役人は、


「えっとぉ~……。あの人は王宋さんですよね。でも、私、王姓の人は担当外なので……」


 などと、頼りない声で答えるのだった。


 冥府には、色々とルールがある。たとえば、死者のお迎え役の冥吏は極力、あの世へ行く予定のない生者には自分の存在を気取られてはならない。だから、彼らは自らの姿を不可視化して、現世で行動しているのである。


 しかし、そんなルールがあるにも関わらず、古代中国の志怪しかい小説には、ちょくちょく冥吏の目撃談が載っている。それはなぜなのかといえば、この女役人のようなおマヌケさんがたまにいるからである。


 冥界から来たこの女は、せっかく自分の姿を紫の被風で隠しているというのに、河東郡の民たちの前で、うっかり肉声を発してしまっていた。ここ最近、お迎えの仕事が忙しすぎて、頭がボーっとしてしまい、テレパシーで会話することを忘れていたのである。会話相手の度朔君がテレパシーを使っていたにも関わらず……。


 おかげで、蘇たちは(死神って、人の姓で担当とか決めてたのか。まるでお役所みたいだなぁ……)などと、絶対に流出しちゃいけない冥府の情報を知ってしまっていた。



 ――いや、君の担当でしょ? ちょっと前に、担当の変更があったって聞いたよ?



「ほえ? …………あっ、そうか。そうでした。半年前から王姓の人も私の担当になったんでした。やっばぁ~、どうしましょう。私、うっかりしてて、王姓の人の魂を一人も冥府にお迎えしてません」



 ――それはちょっとまずいんじゃないのかねぇぇ。死者の霊をあんまり現世に放置していると、悪鬼化する者も出て来ちゃうんだからさぁ。ちゃんとお仕事してくれなきゃ。……そういえば、いま思い出したけど、君はたしか張姓も担当だったんじゃない? 先日、ぎょうに行った時、幽鬼になった君の義理の甥と遭遇したよ? 迎えに行ってあげないの?



しゅうくんのことですか? 迎えに行ってあげたいのはやまやまなのですがぁ……。お迎えできていない張姓の方が三百人ぐらいいるので、ほんの少し待ってもらおうと思いまして」



 ――あっ、そう……。まあ、いいや。魂の回収が遅れて泰山府君に怒られるのは君なんだし。余には関係のないことだ。で、あそこで眠っている王宋は、君のお迎え対象なのかい? それだけ教えておくれ。



 度朔君に問われると、女の冥吏は「えっと~……。ちょっと待ってくださいね」と言い、ふところから巻物を取り出した。これこそが、死人の名と死亡年月日が記された帳簿、鬼籍きせきである。


「王宋……王宋……。違いますね。お迎えはしません」



 ――皆の衆、聞こえたかい? そこにいる女人は、今のところ死ぬ予定はないってさ。たぶん、たいして強くない毒薬だったんだろうねぇ。



 度朔君がテレパシーで一同にそう告げると、蘇たちは安堵のため息をついた。ちなみに、彼ら里人は気づいていないが、女冥吏は冥府へさっさと帰っている。よほど仕事が忙しいらしい。


「だったら、このまま起きるまで放っておけばいいんだべか?」


「いんや、毒の後遺症で体が不自由になったら可哀想だ。解毒の薬を飲ませてやるべ」


「解毒といったら――」


「お た ま じゃ く し だな!!!!!!」


 農夫たちは声をそろえて叫ぶやいなや、廟を飛び出して行き、近所の川や沼、池などからおたまじゃくしを大量に回収してきた。


 科斗かと――おたまじゃくしは、中国では古来より皮膚病の薬や解毒の薬として重宝されてきた。この民間療法は、かなり後の時代まで伝承されており、明代に成立した『本草綱目ほんぞうこうもく』にも、「三月三日には、おたまじゃくしを取って、水でこれを呑む」という田舎の風習が記されている。


 蛙のなかにはツチガエルみたいに、幼生のまま越冬する種類もある。なので、河東郡の民たちが自然いっぱいの秋の野でおたまじゃくしを見つけるのは、あんがい簡単であった。


 すぐに度朔君の廟に戻って来た彼らは、王宋の口をこじ開け、二十匹前後のおたまじゃくしを放り込んだ。


 さすがにこれは苦しい。意識が朦朧としながらも王宋は「う……うう……」とうめき、おたまじゃくしを吐き出そうとした。


「ああ~! 吐いちゃダメだっぺよぉ~!」


「水を持って来い‼ 無理にでも呑ますんじゃ‼」


「そーれ、いっき! いっき! いっき!」


 農夫たちは、抵抗する王宋の体を押さえつけ、水でおたまじゃくしを流し込む。


 度朔君と大福、そして書生の蘇は、(喉を詰まらせて、死なせてしまわないだろうな……)と思いながら見守っていたが、王宋は何とか全てのおたまじゃくしを呑みきった。


「おえぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーッ!!!!!! 私に何を呑ませたのですか、あなたたちぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーッ!!!!!!」


「やった! 目を覚ましたぞ! 人命救助は大成功だべ!」


 王宋がクワッと両眼を開き、憤怒の形相で立ち上がると、人の良い河東郡の民たちは大喜びするのであった……。








※おたまじゃくしが皮膚病の薬や解毒の薬として利用されていたという話は、伊藤清司氏著『中国の神獣・悪鬼たち 山海経の世界【増補改訂版】』(東方書店)を参考にしました。なお、本当に効能があるかどうかは、私に医学の知識がないので分かりません。真似しないでね……‼

 ちなみに、ざっと調べたところ、今でも中国では四川の郷土料理でおたまじゃくしを食べる文化があり、一部の農村では免疫力アップのために生きたおたまじゃくしを子供に食べさせているようです。

 なので、作中において王宋は物凄い拒絶反応を見せていますが、実際にはそこまでは嫌がらない可能性も……???

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