河東郡の善神

 易京えきけい城を発った曹操の軍が、ぎょう城めざして行軍していた頃。


 曹丕と司馬懿しばいを苦しめた、あの邪神度朔君どさくくんは、自分を祀るびょうがある河東かとう郡(現在の山西省南部)に戻って来ていた。




「やあ、さん。お母上のご容態はどうだね」


「それが……あまり良くないのです。今から度朔君様の廟にまいり、病気平癒の祈祷をしてもらおうかと思いまして」


「それはいい。数日どこかに出かけていらっしゃったようだが、ちょうど昨夜お戻りになられたみたいだ。お優しい神様だから、きっと治してくださるよ。この間、おいらのじいちゃんも背中の腫物を治してもらったばかりなんだ。何でも、蛇の精魅もののけが取り憑いていたらしい」


「へえぇぇ……そんなことが。教えてくださり、ありがとうございます。行ってみます」


 若い書生の蘇は、ぐうぜん行き合った顔見知りの里人に一礼すると、度朔君の廟へと続く草深い道をやや重い足取りで歩いていった。孝行息子の彼は、母親を連日連夜寝ずに看病しているため、疲労困憊ひろうこんぱいしているのでる。


 しばらく行くと、どこからともなく、キューン、キューンという可愛らしい声が聞こえてきた。


「この声は――」


 うつむいて歩いていた蘇が顔を上げると、草むらから一頭の子鹿が飛び出して来た。


「キュ~ン! キュ~ン!」


 子鹿は、よほど人懐っこいのか、何の警戒もせず蘇に近寄って来て、甘えるように足にまとわりつく。


「アハハハ。私の元気がないから心配してくれているのかい? ありがとうな。お前は本当にいい子だねぇ」


 蘇は、顔をほころばせ、この愛らしい生き物の頭を撫でてやった。


 よく見るとすぐに分かることではあるが、その動物は体格が子鹿に似てはいるものの、実際には子鹿ではない。鹿にしては足が大きく、蹄の形は馬のようである。といっても、馬というわけでもない。体毛は雪のように純白で、触れると柔らかくすべすべしている。


 不思議な外見の獣だが、度朔君が常にそばに置いていつくしんでいるので、土地の者たちは「うちらの神様の愛玩動物だろう」と思い、特に不気味がらず皆で可愛がってやっていた。これが凶暴な獣であったなら話は別だったろうが、愛くるしい鳴き声をあげて里人にじゃれついてくるのである。邪険にあつかう気持ちなど起きなかった。


 名前は不明で、里人たちは「白坊しろぼう」とか「雪ちゃん」などと、おのおのが好きなように呼んでいる。


「雪ちゃん。私は度朔君様に祈祷してもらいたいことがあるんだ。廟まで案内してくれるかい?」


「キューーーン‼」


 子鹿もどきの白い獣は、牛に似た尻尾を嬉しそうにふりふり、蘇を誘導して走りだす。それについて行くと、数分もしないうちに度朔君の廟が見えてきた。素朴で質素な造りの建物だが、地元の民たちが銭を出し合い、協力して建てたやしろである。度朔君も満足し、喜んでくれていた。


「度朔君様。失礼いたしま――」


「おい。中に入るな」


 足にじゃれつく獣を撫でながら、片手で廟の扉を開けようとすると、陰気な声が不意に蘇の背中を叩いた。


 ドキリとして振り返ると、きのこを積んだ籠を小脇に抱えた痩身の男がこちらを睨んでいる。


(うわっ、廟守びょうもりの大福だ。この人、不愛想で不親切だから苦手なんだよなぁ~)


 蘇は「あ、どうも……」とあいさつしつつも、内心はそう毒づいていた。


 方士大福は、常日頃から居丈高いたけだかな態度で近在の住民たちに接しているため、「なんであんなのが神様に仕えているんだろう」と皆に嫌われていた。


「えっと……どうして中に入ってはいけないのですか?」


「貴様ごとき書生に、いちいち理由を言う必要はあるまい。許可があるまで誰も通すなと言われている。用があるのならば、大人しくここで待っておれ」


 大福は高圧的な口調でそう言った。


 度朔君に「誰も通すな」と命令されているのなら、この男は廟から片時も離れず、扉に近づく者がいないように見張っているべきであろう。それなのに、勝手気ままに茸採りをしていたらしい。蘇が現れたらすぐに駆けつけたということは、近場にはいたのだろうが、真面目に神に仕える態度とは言い難い。尊大なこの男は、度朔君を信仰する地元の民だけでなく、あるじである度朔君すら疎かに思っているふしがあった。


(本当に嫌な奴……)


 蘇は心の中でそう呟く。しかし、今日の大福はいつも以上に機嫌が悪そう――曹洪率いるチンピラ食客軍団にはずかしめを受け、誇りをいちじるしく傷つけられたからだが――なので、大人しく従うことにした。


 半ば開けてしまった扉をそぉーっと閉じる。その時、のぞくつもりはなかったのだが、中の光景がほんの一瞬だけ蘇の目に映った。


 薄暗い廟内の奥――垂れ下がったすだれの向こうで、燭台の火影ほかげに照らされた巨人の影が、ゆらゆらと揺れている。河東郡の民が善神として崇め奉る度朔君である。その度朔君の傍らに、何者かが座していた。


(魚の頭の形に似た、やたらと背の高い冠を被っていたような。どうやら普通の人間ではないようだ。度朔君様のお知り合いの神様だろうか……?)




            *   *   *




「曹一族とまたやりあったそうじゃないか。悪いことは言わん、危ういことはよせよせ。いまの曹操は、天下を呑み込まんばかりの勢威じゃ。おぬしのような天界の者でも、手に負えぬ相手やも知れんぞ」


「…………」


「第一、おぬしの霊力はすっかり衰えておるではないか。天帝がおぬしを地上に遣わして、かれこれ六百年か七百年……。あれから一度も天界に帰っておらぬのだから、衰えてしまうのも無理はない。いったい何に執着しておるのかは知らぬが、思い切って帰天してみたらどうだ。その程度の霊力では、仮にあの奸雄かんゆうを滅ぼすことができたとしても、おぬしまで力尽きて消滅するのがオチだぞ」


「…………」


 先刻からその来訪者――魚の頭の形に似た冠を被った人物は、度朔君にしきりに話しかけている。だが、度朔君は瞑目したまま、一言もいらえようとしない。来訪者が説教臭く言い募るのを煩わしがっている様子だった。


 来訪者は、しかし、そんな度朔君の態度などいっこうに気にしていない。「天帝は近頃、御心が弱っていらっしゃると風の噂で聞いた。お気に入りの南海龍王なんかいりゅうおうを斬首し、人の子として地上に転生させたゆえな」となおも続けた。


「あれは四十数年前のことだ。漢王朝の悪政を戒めるため、天帝が空の雨雲を消して渇水かっすい地獄を地上にお与えになった。だが、旱魃かんばつに苦しむのは、力弱き民たちばかり。彼らを哀れんだ南海龍王は、『政治を乱した為政者どもの罪を民衆にあがなわせようとする天帝のお考えは間違っている』と言い、無断で雨を降らせてしまった。それに怒った天帝は、有無も言わせず南海龍王の首をねたわけじゃが……。

 些細ささいなことで情に厚い南海龍王の魂をけがれた地上に落とされたことを、いまでは激しく後悔なさっている。心寂しく思われ、人の身となった南海龍王が一日も早くその生涯を全うして帰天するか、それとも昔かわいがっていたおぬしが天界に戻って来てくれることを願っておられるのだよ。冥府に問い合わせたところ、南海龍王の人としての命はまだしばらく尽きぬそうじゃ。このままでは天帝がお可哀想ゆえ、そろそろ帰天してさしあげたらどうだ」


「チッ……」


 度朔君は、静かに舌打ちすると、手でシッシッと追い払う仕草をしてみせた。


 数年前、その南海龍王の生まれ変わりの男に手痛い目に遭わされたため、かの龍王の話題をしつこく喋り続ける来訪者に苛立いらだったのである。


「やれやれ。嫌われてしまったものだなぁ。仕方ない、今日のところは帰らせてもらうよ。だが――何度も言うようだが、おぬしの限界は近い。天に帰るかいなか、なるべく早く決断すべきだと思うぞ」


 来訪者はそう言いながら立ち上がり、フーッと嘆息した。


「なあ、覚えているか? むかし廬山ろざんの絶景を眺めながら白いすももを一緒に食べたことを。あの頃は、地上の人間たちも幸せそうで、もっとゆったりと生きていたものだ。ついこの間のように思っていたが、あれから三千年の歳月が流れているとはとても信じられん。月日が過ぎ去るのは一瞬だと、ここ最近しみじみと思うよ。あんなゆったりとした平和な時間は、この地上には二度と訪れないものなのかねぇ」


 来訪者は言いたいことを全て言い終えると、頭からずり落ちそうになっていた背の高い冠をなおし、溶けるかのごとくその姿を消した。


(フン。上仙や費長房ひちょうぼう左慈さじあたりの練達の方士に護符ひとつで使役されてしまう鬼神のくせに、何を偉そうな。我が霊力は、衰えたといえども、低級な神どもとは比較にならぬほど強大なのだぞ。余の遠大なる志も知らず、言いたい放題ぬかしおって……)


 度朔君は、心の中でそう毒を吐いた。だが、すぐに不機嫌そうな表情を打ち消し、居住まいを正した。扉の外で待つ信者の気配に気づいていたからである。



 ――そこにいるのは蘇だね。もういいから入っておいで。



 この神は、唇を動かすのが面倒なのか、肉声を発することが滅多にない。この時も、心の声を蘇の頭へ直接おくった。いわゆるテレパシーというやつである。


 河東郡の信者たちは、度朔君の意思疎通のやり方にすっかり慣れている。だから、蘇は別に驚きもせず、「はい」と答えて扉を開けた。


 すると、さっきまで蘇にじゃれついていた子鹿もどきの獣が、キューーーンと嬉しそうに鳴き、建物の奥へと駆け込んだ。度朔君が簾を少しだけ上げてやると、小さき獣はその中に入り、度朔君の顔をめて甘え始めた。この神も、子鹿もどきが可愛いのであろう、優しい手つきで背中を撫でてやっている。


 大福が、簾から少し離れた場所にむしろの敷物を乱暴に起き、あごをしゃくると、蘇はすこぶる機嫌が悪い方士にビクビクしながらもそこに座った。そして、度朔君へ丁寧な拝礼をした。



 ――蘇や、待たせて悪かったねぇ。さっきここにいたのは、南海君なんかいくんという神だ。南方の海を支配する南海龍王が不在の間、その代理を天帝に命じられて、最近ちょっと調子に乗っているウザい奴さ。……で、今日は何の用だい? また余と『礼記らいき』について論じたいのかい?



 儒衣をまとった河東郡の善神は、温もりのある声を、青年の脳に送った。鄴城において袁煕えんきの魂を惑わせ、暗黒面に陥れた時のような、怪しげで粘質のある声音とは全く違う。父性さえ感じる優しく頼もしい声が、疲弊している蘇の心をじわりと和ませた。


「いいえ。度朔君様と経書について談じ合うのは楽しいのですが、それはまた後日にしてくだいませ。実は……母が十日ほど前から病気なのです。ひどく苦しんでいて、何とか治してやりたいのですが、医者に診せてもちっとも病名が分かりません。度朔君様に病気平癒の祈祷をしていただきたく、こうして参上した次第でして。なにとぞ我が母をお救いくださいませ」


 蘇が平身低頭して懇願すると、度朔君は首を縦に振った。



 ――君の一家はもともと兗州えんしゅうにいたそうじゃないか。余の徳を慕い、遠い地からわざわざ引っ越してきてくれたのだ。もちろん力になるよ。……で、そこでちょっと質問なんだが。君の家の東には、古い橋がなかったかい?



 橋が病気と何の関係があるのだろう。蘇は疑問に思いつつ、「はい、ありました。でも、壊れたまま、ずっと放置されています」と答えた。



 ――やっぱり、そうだったか。君のお母上が病気になったのは、その壊れた橋が原因に違いない。あの道筋は、前々から瘟神おんしん(疫病を司る神)の通り道になっていたんだ。橋が壊れて通行ができなくなったゆえ、きっとその瘟神が君の家にとどまり続け、お母上を苦しめているのであろう。たとえ病気平癒の祈祷で瘟神をお母上から引き剥がしても、次は君か他の家族が罹患りかんしてしまうだけだ。ここはひとつ、近所の者たちに協力してもらい、橋を修復してみなさい。そうすれば瘟神も去り、お母上の病も癒えるはずだ。



「お……おお、なるほど。瘟神が我が家に……。分かりました、そうしてみます。しかし、橋を修復しても、瘟神が立ち去ってくれなかった場合は――」



 ――あまりこの土地に長居されると、他の里人にも病が広まる恐れがある。それは由々しき事態ゆえ、その場合は余みずから瘟神を退治してしんぜよう。とにかく、いまは橋を元通りにすることを急ぎなさい。



「承知しました。度朔君様、ありがとうございます。早速、とりかかります」


 蘇は度朔君に心から感謝し、一礼すると、席を立とうとした。


 外が急に騒がしくなり、悲鳴のような声とともに複数の荒々しい足音が聞こえてきたのは、ちょうどその時であった。


「度朔君様ぁ~~~!」


「た、大変ですだぁ~~~!」


「見知らぬ女人にょにんが、川の近くで倒れていただぁ~~~!」


 めいめいにわめきながら廟内に駆け込んで来たのは、近在の農夫たち七、八人だった。その中でいちばん屈強そうな若者が、上等な衣服を着た中年女性を背中にかついでいる。


 見たところぐったりとしていて、すでに死んでいるように見えたが、度朔君にはその女人が何者なのか心当たりがあった。


(あれは――曹操の旧知の武将、劉勲りゅうくんの妻ではないか。たしか王宋おうそうといったか)


 劉勲とは、悪鬼に祟られた娘をこのあいだ華佗に救ってもらった、あのタヌキ顔の将軍のことである。


 その劉勲の妻が、なぜかいま、度朔君のもとに運び込まれてきたのであった。

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