河東郡の善神
曹丕と
「やあ、
「それが……あまり良くないのです。今から度朔君様の廟にまいり、病気平癒の祈祷をしてもらおうかと思いまして」
「それはいい。数日どこかに出かけていらっしゃったようだが、ちょうど昨夜お戻りになられたみたいだ。お優しい神様だから、きっと治してくださるよ。この間、おいらのじいちゃんも背中の腫物を治してもらったばかりなんだ。何でも、蛇の
「へえぇぇ……そんなことが。教えてくださり、ありがとうございます。行ってみます」
若い書生の蘇は、ぐうぜん行き合った顔見知りの里人に一礼すると、度朔君の廟へと続く草深い道をやや重い足取りで歩いていった。孝行息子の彼は、母親を連日連夜寝ずに看病しているため、
しばらく行くと、どこからともなく、キューン、キューンという可愛らしい声が聞こえてきた。
「この声は――」
うつむいて歩いていた蘇が顔を上げると、草むらから一頭の子鹿が飛び出して来た。
「キュ~ン! キュ~ン!」
子鹿は、よほど人懐っこいのか、何の警戒もせず蘇に近寄って来て、甘えるように足にまとわりつく。
「アハハハ。私の元気がないから心配してくれているのかい? ありがとうな。お前は本当にいい子だねぇ」
蘇は、顔をほころばせ、この愛らしい生き物の頭を撫でてやった。
よく見るとすぐに分かることではあるが、その動物は体格が子鹿に似てはいるものの、実際には子鹿ではない。鹿にしては足が大きく、蹄の形は馬のようである。といっても、馬というわけでもない。体毛は雪のように純白で、触れると柔らかくすべすべしている。
不思議な外見の獣だが、度朔君が常にそばに置いて
名前は不明で、里人たちは「
「雪ちゃん。私は度朔君様に祈祷してもらいたいことがあるんだ。廟まで案内してくれるかい?」
「キューーーン‼」
子鹿もどきの白い獣は、牛に似た尻尾を嬉しそうにふりふり、蘇を誘導して走りだす。それについて行くと、数分もしないうちに度朔君の廟が見えてきた。素朴で質素な造りの建物だが、地元の民たちが銭を出し合い、協力して建てたやしろである。度朔君も満足し、喜んでくれていた。
「度朔君様。失礼いたしま――」
「おい。中に入るな」
足にじゃれつく獣を撫でながら、片手で廟の扉を開けようとすると、陰気な声が不意に蘇の背中を叩いた。
ドキリとして振り返ると、
(うわっ、
蘇は「あ、どうも……」とあいさつしつつも、内心はそう毒づいていた。
方士大福は、常日頃から
「えっと……どうして中に入ってはいけないのですか?」
「貴様ごとき書生に、いちいち理由を言う必要はあるまい。許可があるまで誰も通すなと言われている。用があるのならば、大人しくここで待っておれ」
大福は高圧的な口調でそう言った。
度朔君に「誰も通すな」と命令されているのなら、この男は廟から片時も離れず、扉に近づく者がいないように見張っているべきであろう。それなのに、勝手気ままに茸採りをしていたらしい。蘇が現れたらすぐに駆けつけたということは、近場にはいたのだろうが、真面目に神に仕える態度とは言い難い。尊大なこの男は、度朔君を信仰する地元の民だけでなく、あるじである度朔君すら疎かに思っているふしがあった。
(本当に嫌な奴……)
蘇は心の中でそう呟く。しかし、今日の大福はいつも以上に機嫌が悪そう――曹洪率いるチンピラ食客軍団に
半ば開けてしまった扉をそぉーっと閉じる。その時、のぞくつもりはなかったのだが、中の光景がほんの一瞬だけ蘇の目に映った。
薄暗い廟内の奥――垂れ下がった
(魚の頭の形に似た、やたらと背の高い冠を被っていたような。どうやら普通の人間ではないようだ。度朔君様のお知り合いの神様だろうか……?)
* * *
「曹一族とまたやりあったそうじゃないか。悪いことは言わん、危ういことはよせよせ。いまの曹操は、天下を呑み込まんばかりの勢威じゃ。おぬしのような天界の者でも、手に負えぬ相手やも知れんぞ」
「…………」
「第一、おぬしの霊力はすっかり衰えておるではないか。天帝がおぬしを地上に遣わして、かれこれ六百年か七百年……。あれから一度も天界に帰っておらぬのだから、衰えてしまうのも無理はない。いったい何に執着しておるのかは知らぬが、思い切って帰天してみたらどうだ。その程度の霊力では、仮にあの
「…………」
先刻からその来訪者――魚の頭の形に似た冠を被った人物は、度朔君にしきりに話しかけている。だが、度朔君は瞑目したまま、一言も
来訪者は、しかし、そんな度朔君の態度などいっこうに気にしていない。「天帝は近頃、御心が弱っていらっしゃると風の噂で聞いた。お気に入りの
「あれは四十数年前のことだ。漢王朝の悪政を戒めるため、天帝が空の雨雲を消して
「チッ……」
度朔君は、静かに舌打ちすると、手でシッシッと追い払う仕草をしてみせた。
数年前、その南海龍王の生まれ変わりの男に手痛い目に遭わされたため、かの龍王の話題をしつこく喋り続ける来訪者に
「やれやれ。嫌われてしまったものだなぁ。仕方ない、今日のところは帰らせてもらうよ。だが――何度も言うようだが、おぬしの限界は近い。天に帰るかいなか、なるべく早く決断すべきだと思うぞ」
来訪者はそう言いながら立ち上がり、フーッと嘆息した。
「なあ、覚えているか? むかし
来訪者は言いたいことを全て言い終えると、頭からずり落ちそうになっていた背の高い冠をなおし、溶けるかのごとくその姿を消した。
(フン。上仙や
度朔君は、心の中でそう毒を吐いた。だが、すぐに不機嫌そうな表情を打ち消し、居住まいを正した。扉の外で待つ信者の気配に気づいていたからである。
――そこにいるのは蘇だね。もういいから入っておいで。
この神は、唇を動かすのが面倒なのか、肉声を発することが滅多にない。この時も、心の声を蘇の頭へ直接おくった。いわゆるテレパシーというやつである。
河東郡の信者たちは、度朔君の意思疎通のやり方にすっかり慣れている。だから、蘇は別に驚きもせず、「はい」と答えて扉を開けた。
すると、さっきまで蘇にじゃれついていた子鹿もどきの獣が、キューーーンと嬉しそうに鳴き、建物の奥へと駆け込んだ。度朔君が簾を少しだけ上げてやると、小さき獣はその中に入り、度朔君の顔を
大福が、簾から少し離れた場所にむしろの敷物を乱暴に起き、
――蘇や、待たせて悪かったねぇ。さっきここにいたのは、
儒衣を
「いいえ。度朔君様と経書について談じ合うのは楽しいのですが、それはまた後日にしてくだいませ。実は……母が十日ほど前から病気なのです。ひどく苦しんでいて、何とか治してやりたいのですが、医者に診せてもちっとも病名が分かりません。度朔君様に病気平癒の祈祷をしていただきたく、こうして参上した次第でして。なにとぞ我が母をお救いくださいませ」
蘇が平身低頭して懇願すると、度朔君は首を縦に振った。
――君の一家はもともと
橋が病気と何の関係があるのだろう。蘇は疑問に思いつつ、「はい、ありました。でも、壊れたまま、ずっと放置されています」と答えた。
――やっぱり、そうだったか。君のお母上が病気になったのは、その壊れた橋が原因に違いない。あの道筋は、前々から
「お……おお、なるほど。瘟神が我が家に……。分かりました、そうしてみます。しかし、橋を修復しても、瘟神が立ち去ってくれなかった場合は――」
――あまりこの土地に長居されると、他の里人にも病が広まる恐れがある。それは由々しき事態ゆえ、その場合は余みずから瘟神を退治してしんぜよう。とにかく、いまは橋を元通りにすることを急ぎなさい。
「承知しました。度朔君様、ありがとうございます。早速、とりかかります」
蘇は度朔君に心から感謝し、一礼すると、席を立とうとした。
外が急に騒がしくなり、悲鳴のような声とともに複数の荒々しい足音が聞こえてきたのは、ちょうどその時であった。
「度朔君様ぁ~~~!」
「た、大変ですだぁ~~~!」
「見知らぬ
めいめいに
見たところぐったりとしていて、すでに死んでいるように見えたが、度朔君にはその女人が何者なのか心当たりがあった。
(あれは――曹操の旧知の武将、
劉勲とは、悪鬼に祟られた娘をこのあいだ華佗に救ってもらった、あのタヌキ顔の将軍のことである。
その劉勲の妻が、なぜかいま、度朔君のもとに運び込まれてきたのであった。
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