郭嘉病む

 孔子一行が大鯰おおなまずの化け物と遭遇してから六九六年後――建安十二年(二〇七)晩秋。


 遠征からの帰還途中だった曹操軍は、幽州ゆうしゅう冀州きしゅうの境にある易京えきけい城で行軍を停止し、この城にとどまり続けていた。軍師祭酒ぐんしさいしゅ郭嘉かくかが突然喀血かっけつし、一時危篤状態に陥ったからである。


 狼狽ろうばいした曹操は、許褚きょちょに名医華佗かだを連れて来るように命じた。しかし、待てど暮らせどなかなか帰って来ない。思わぬ妨害があったからだ。その妨害の首謀者が悪びれもなく語るには、


「私はどうせ近いうちに死にます。いくら神医でも、天命尽きようとしている者を救うことはできませんらからね。私の占いによると、ぎょう城で華佗先生の診察を必要としている者がいる。未来なき命のために神医の時間を奪うか、それとも未来ある命を救うか……。答えは自ずと出るでしょう?」


 ということだった。


 首謀者というのは、もちろん郭嘉本人である。


 碁盤ごばんをはさんで対座している曹操が苦々しい表情をすると、彼はクスッと笑い、大杯の酒をあおった。前日の夕方まで意識が混濁していた人間とは思えない呑みっぷりである。


「まさか倒れる直前に張郃ちょうこうを呼び、許褚を妨害するように命じておったとは……」


「フフッ。さすがは曹軍随一の名軍師だ、と褒めてくださってもいいのですよ?」


「褒めるか、たわけ。第一、そなたの占いというのは棋易きえきであろう。碁盤の上に並べられた白と黒の石で、そんな詳しく未来が視えるものか。適当なことを言うでない」


「これはしたり。関羽に惚れこんでいる主公とのとは思えぬお言葉ですな。彼も我が陣営にいる時、よく棋易をやっていたではありませんか。賢者は古来より、碁盤を宇宙、碁石を星々にみたて、吉凶を占っていたものですよ。

 ほら、ご覧なさい。この石の並びは、天風姤てんぷうこうの卦です。主公はちかぢか女でえらい目に遭うでしょう。……あっ、女で失敗するのはいつものことだったか。にゃはははははは」


「何が『にゃはははははは』だ、酔っ払いめ。いい加減、杯を置け。昨日まで人事不省に陥っていた病人が、浴びるほど酒を呑むでない。しばらく酒を慎み、安静にしておれ」


「それは無理な相談ですなぁ。真面目ちゃんの陳羣ちんぐん殿が『郭嘉の素行不良は度を越しています』とたびたび主公に訴えても、いっさい意に介さなかったこの私が、酒をやめろと言われて『ハイ、そうですか』と素直に従うと思いますか?」


 郭嘉は、無精髭を生やしたあごを撫でながら、臆面もなくそんなことを言った。自分の体のことなのに、ほとんど他人事みたいな口吻こうふんである。先の先まで見通す眼を持つこの軍師は、もはや自分の死は避けられぬと諦観ていかんでもしているのであろうか。


 取り付く島もない郭嘉の態度に辟易へきえきした曹操は、ハァ……とため息をつき、首を振った。白粉を施した生白い顔には、深い憂慮の色がにじんでいる。優秀な人材を何よりも愛するこの男は、郭嘉という不世出の才を失いたくないのである。それなのに、この若き軍師は「自分は呑めば呑むほど頭が回るのです」などとぬかし、己の体をいたわろうとしない。おかげで持病の頭痛が再発しそうだった。


「そんな顔をしないでください。まあ、主公が南方遠征に出られる頃まで奇跡的に生きていたら、私も従軍して色々と献策させていただきますよ。とりあえず、荊州けいしゅう平定を先に仕上げましょう。江東こうとう孫権そんけんに降伏を迫るのは、その後がよろしいかと。ただ……南方は疫病が流行っているとの情報がありますからな。どれだけ長生きできても、私の命はそこで尽きるでしょうよ」


「そなたをけっして死なせはせぬ。郭奉孝ほうこうがおらねば、われの天下統一の事業はおぼつかぬわ」


 死相を帯びてきた郭嘉の痩顔そうがんを直視するのが辛くなってきたのか、曹操は怒ったようにそう吐き捨てると、荒々しく席を立った。


「どちらへ?」


虎痴こち(許褚の渾名あだな)などに使者の役目を与えたのが間違いであった。そなたの吐血に取り乱してしまい、うっかり人選を誤った。今度は張遼ちょうりょうに、華佗を連れて来るよう命じる」


「それは張遼の無駄使いというやつです。私も小康を得たのですし、こんなところでぐだぐだ休んでいないで、さっさと鄴に帰りましょう。鄴に戻りさえすれば、いくらでも華佗先生の診察を受けられるのですから」


「だがな。病身での行軍はそなたの体に負担が――」


 そこまで言いかけた時、伝令が郭嘉の寝所に入って来て、二通のふみを曹操に手渡した。


「む……? 妙才みょうさい夏侯淵かこうえんあざな)と子廉しれん曹洪そうこうあざな)からではないか。ふたり同時に文を寄越して来るとは……鄴城で何かあったのか?」


 伝令を下がらせると、曹操は燭台を引き寄せ、両将軍からの報告に目を通した。


 よほど驚くべきことが書かれていたのだろう。乱世の奸雄の両眼が見る見るうちに大きく開かれていき、「度朔君どさくくんだとッ⁉」と癇声かんごえがあがった。


「ほう、度朔君。主公と因縁がある怪しき神の名ですな。その神がどうかしたのですか?」


「……どうやら、そなたの占いは当たっていたらしい。妙才の報告によると、度朔君が鄴に出現し、我が孫のえいを祟ろうとしたそうだ。が何とか退けたものの、叡はそうとう衰弱していて、華佗がつきっきりで診ているとのことだ。あの邪神めぇぇぇ……。よくも幼き命を奪おうとしたな! 絶対に許さぬぞ!」


「それで、曹洪将軍の手紙にはなんと?」


「字がよれよれで何も読めんッ‼ 酔っ払いながら報告書を書くなとあれほど言っているのに‼」


 ヒステリックにそう叫び、曹操は曹洪の報告書を床に叩きつけた。


 郭嘉は、その書簡をひろい、「ふぅ~む。辛うじて『俺様大活躍』『沖』『度朔君』の三か所だけは読めますな。たぶん、曹洪将軍も度朔君の襲来を報せているのでしょう。あと、倉舒そうじょ曹沖そうちゅうの字)様も、その騒動で何らかの働きをしたのかと」と推測した。


「それにしても、へたっぴな字ですなぁ~。これだから酔っ払いは」


「お前が言うな」


「しかし、これで鄴城に急いで帰らねばならなくなりましたな。度朔君は仇敵である主公を憎むだけでなく、主公のご家族にまで牙をむいた。もう放ってはおけませぬ。南方遠征に取り掛かる前に、袁紹でさえ手を焼いたあの邪神を何とかせねば。私のことは心配なさらず、早急なるご出立を」


「分かっている。分かっているが……ひとつだけ約束してくれ。鄴に戻ったら、ちゃんと真面目に療養するのだ。必ず華佗にも診てもらえ。いいな?」


「ええ、ええ。了解しました。主公が心配のあまり泣いちゃうといけないから、酒量も半分に減らしますよ。だから帰りましょう。私も、鄴に帰って会いたい人間がいますし」


「そういうことならば、数日ほどそなたの体調をみて、出立することとする。それまでの間、寝床から絶対に出るなよ。近在の妓楼ぎろうに行くことも禁止する」


「分かりました。行ったらダメなら、妓女ぎじょたちをこの部屋へ呼びます」


「それもダメだッ‼」


 曹操は怒鳴ると、痛みだした頭を片手でおさえつつ、部屋から出て行った。


 独りになった郭嘉は、「フフッ。主公ったら、私のこと好きすぎじゃん」などとおどけた口調で呟き、しょう(ベッド兼ソファーの家具)にゴロンと横になる。


「だが――主公には申し訳ないが、我が命、南方遠征が始まる時期までもつまい。私は、主公が天下を取る姿を見ることができぬまま逝くのだ。…………なあ、そうだろう?」


 郭嘉は、先ほどまで自分と曹操が囲んでいた碁盤のほうに眼差しを向け、冷めた微笑を浮かべた。


 そこには、誰もいない。外から漏れてくる月光が、透かし彫りが施された花窓を通過して、牡丹の陰影を碁盤とあたりの床に生じさせているだけである。


 しかし、死病に取り憑かれたこの男には、見えていたのだった。先刻からそこにいた、常人には視認できぬ存在を――。


「無論だよ。ちょっと時間をくれと貴方が言うから、特別に待ってあげているだけなのだから」


 碁盤の傍らに座している美貌の青年が、眼下にある四角い小宇宙と白黒の星々を眺めながら、見た目の若さに似合わぬ威厳と落ち着きをそなえた声音でそう答えた。


 少し風変わりないでたちで、役人ふうの衣装の上に、紫の被風マントまとっている。


「でもさ。ずっとそうやって見張られていると、気が休まらないんだよね。私がそろそろ死んでもいいかなぁと思ったら、手を三回叩くからさ。その時までよそに行っていて欲しいんだけど」


「永遠に叩かないだろうから、それは無理だな。……しかし、私も暇ではない。これから十数日ほど、仕事が忙しくなる予定だ。ひと段落したら、また様子を見に来ることとしよう」


 美貌の青年は、手に持っていた巻物を半分ほど広げた。そして、そこに記されている幾人かの人名をブツブツと小声で呟くと、おもむろに立ち上がった。


 次の瞬間、青年の姿は、風に吹かれた煙のようにフッ……と消えていた。


 今度こそ本当に独りっきりになった郭嘉は、「子桓しかん(曹丕の字)様の言っていたこと、マジだったなぁ。覚えておいてよかったよ」とクスクス笑った。


「死ぬのちょっとタンマって頑張って言ったら、わりと融通利くものなんだ」

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