陳蔡の厄BC489 part3
「ナ……ナヌゥゥゥゥゥゥ!?」
衣が引き裂かれ、大男の両肩があらわになる。
いや、男には、人間の肩にあたる部分がなかった。
破れた衣の隙間から
「コ……コケ……コケル! コケタラ……危険ガ危ナイ!」
ダブル斧アタックの衝撃でバランスを崩したのだろう。慌てふためいた声を上げた大男は、空中で忙しく身をよじらせてもがき、
「こ、孔先生! あいつの腕はいったい……⁉」
「ふつう腕を振り回せば、肩の筋肉が盛り上がったり縮んだりするものだ。しかし、アレにはそういう筋肉の動きが確認できず、大きな体でありながら奇妙なほどなで肩だった。というか、肩がなかった。衣で隠していても、それぐらいのことは観察していれば分かる。肩がないのならば、そこから生える腕もないということになる。
見なさい。腕を乱暴に振り回し続け、斧を投げつけられた衝撃によって、胴体と作り物の腕を繋ぐ鎖が緩みつつあるようだ。あともう一度、鎖に打撃を与えてやれば、あの怪物から自慢の腕を
「なるほどッス! 孔先生、さすがの観察眼ッス! 我々はぜんぜん気づかなかったッス!」
「まあ、私は人より眼がいいからね。……
孔丘がそう指示を出すと、仲由は「もー孔先生ったら、俺ひとりで大丈夫なのに手出ししないでくださいよぉー」とブツブツ言いながらも剣を地面に突き刺し、自分の足元に落下していた二丁の斧を左右に持った。
「ズ……図ニ乗ルナ……人間! ワ……我ハ神ナリ! ヒ……人ガ……我ヲ殺セル未来ナド……百ニ一ツシカ――」
「百に一つあるのなら、結構、結構。俺は、その百に一つの未来とやらをつかむことができるから」
「ナ……ナヌ……? ソ、ソレハ……ドウイウ意味ダ」
「どういう意味も何も、こういうことさ。…………奥義、
仲由はそう叫ぶや否や、斧を持つ左右の手を大きく振り上げた。その直後、がらっぱちの仲由の両眼が青い輝きを放ち、彼の脳内でバチッバチッと小さな稲妻が走った。
「あっべらべんべんぼぉぉぉーーーッ‼」
謎の奇声を発すると同時に両腕が振り下ろされ、二つの光刃が闇夜を切り裂きながら大男めがけて飛ぶ。
手から斧が離れた瞬間には、仲由は大地に突き刺していた剣を抜き、二丁の斧を追って疾走を始めていた。
「ソ……ソンナ攻撃……! フ……不意打チデナケレバ……弾キ返シテヤルッ!」
大男は
拳を前に突き出して防ごうとしたものの、その前に二丁の斧が猛烈な勢いで飛び来たり、胴体と左右の義手を繋ぐ鎖に直撃した。二度目の痛打を受けた鎖は、
「アア……ッ⁉」
大男が悲鳴に近い声を上げる。
その時まさに、飛鳥のごとく跳び上がった仲由の剣が、男の体のど真ん中を貫こうとしていた。
(二ツハ無理ダガ……腕一本ナラバッ!)
大男は、念力パワーを限界まで爆発させ、足元に転がる右手を腰の高さまで浮かせた。そして、仲由の
「ぬるい!」
仲由は、五十代とは思えぬ柔軟な体を曲芸じみた動きで鮮やかにひねり、ぎりぎりでロケットパンチを回避。突進の勢いをほとんど衰えさせぬまま、烈火の剣で大男の肉体を刺し貫いた。
猛攻は、それだけでは終わらない。仲由は、敵の体に突き立てた剣の柄を足がかりにして真上へ跳んだかと思うと、大男の頭を両脚でガシッと挟んだ。
「どっせぇぇぇぇぇぇい‼」
雄叫びとともに我が身をぐるりと旋回、大男の巨体を投げ飛ばした。これぞ、古代中国版のヘッドシザーズ・ホイップである。
地面に叩きつけられた男は、仮面の下から大量の血をごふっと吐き出した。
「わっはっはっはっ! どんなもンだい!」
得意気に哄笑しながら、仲由は男の体から剣を抜く。巨体の真ん中にできた穴からも血が噴き出し、仲由の
「ナゼ……ナゼ人間ゴトキニ……⁉ オ、オマエ……人ノ分際デ未来ヲ……我ニ負ケルハズダッタ運命ヲ……カ、改変シタナァァァ!?」
「ちょっと違うなぁ~。改変したわけじゃぁない。この世には、数え切れぬほどの可能性が――つまり何百通りもの未来がある。俺が化け物のお前に負けるたくさんの未来、相打ちで終わるいくつかの未来、そして奇跡的に勝利するたった一つの未来。俺は、そのたった一つの最良の未来を引き寄せたのさ。それが我が奥義、天祐だ」
「グ……グゾォォォ……‼ ソンナ……ソンナ馬鹿ナァァァ……‼」
大男は、怒りに満ちた唸り声を上げながら巨体を激しくくねらせ、苦しそうにしている。しかし、起き上がってくる気配はなかった。
深手を負っているのはもちろんのことだが、孔丘が言っていたように、この男には一度転んだら容易には起き上がれない事情があるようである。
「孔先生、見ましたか? 瞬殺してやりましたよ!」
笑顔の仲由が、歩み寄って来た師匠と仲間たちに白い歯を見せると、孔丘は「いや、だいぶ苦戦していたよねぇ?」と冷静なツッコミを入れた。
「しかし……たびたび忠告していることだが、天祐は極力使わないほうがいい。今回は規格外の怪物が相手だったゆえやむを得ぬが、いたずらに良き未来ばかりを引き寄せ続けていると、いつか必ず恐るべきしっぺ返しを喰らう。自重するのだよ。いいね」
「ハイハイ。分かってますよ、先生。……で、早速ですが、こいつの化けの皮を剥がしてやりましょうよ」
仲由は、剣を大男の肉体に三回ふり落とし、暴れる元気を奪うと、漆雕開の手を借りて、血まみれの仮面と黒衣を剥ぎ取った。
「こ、これは――」
「驚いたッス。道理で歩くのが下手なはずッス」
仲由と漆雕開は、困惑の声を上げた。他の弟子たちも、大いにざわついている。
黒衣の大男の正体は、なんと巨大な
「思った通りだったよ」
孔丘は、虫の息となっている大鯰を、やや哀れんだ目で見つめつつポツリと呟いた。
「もとは魚類だから、人間のような足なんてない。体の均衡を必死に保ちながら尾ひれで立ち、歩かねばならないため、やたらとその身をくねらせていたのだ。これが神格を得た鯰ならば、我が身を浮遊させて移動するぐらいのことはやってのけたであろう。神などと名乗っていたのは、ただのハッタリだったのだ」
弟子たちにそこまで説明すると、孔丘は片膝をつき、地面に転がっている鋼色の義手にそっと触れた。
(なんと。これは
その義手は、春秋時代の人々に「悪金」と呼ばれた鉄でできていた。この当時、鉄は鋳型に入れて製造する鋳鉄であったため案外もろく、用途はおもに農具とどまりで、武器はまだまだ「美金」と称される青銅が主流だった。孔丘よりもあとの戦国時代になると、叩いて鍛える鍛鉄が盛んに製造されるようになり、武器としての使い道が増えていく。
その脆いはずの悪金が、仲由の凄まじい剣の打ち込みに耐えることができたというのが、孔丘にも意外であった。
だが、今はそんなことなど、どうでもよい。孔丘は「愚かな精魅よ」と大鯰に語りかけた。
「六畜(牛・馬・羊・犬・鶏・豚)から亀、蛇、魚、草木……あらゆる生物は、年をとれば霊力を得て精魅となる。だが、殺してしまえば、それで
「ア……アル霊獣ガ……オマエ探シテタ……」
「霊獣だと?」
霊獣と聞き、孔丘は眉をわずかに曇らした。しかし、彼はその霊獣の名を問うことはせず、黙って大鯰の話に耳を傾けた。
「孔丘ハ……世ニ……永久ノ平和ヲモタラス……至聖ノ王ダト……アイツ言ッテタ。我、思ッタ……。ソンナ……聖人ノ命ヲ……喰ラエバ……カ、神ニ……ナレ……ル……ハ……ズ……」
大鯰の言葉が止まった。とうとう事切れたようである。
孔丘は、天を仰ぐとフーッと嘆息し、「我が天運も尽きたか」と珍しく弱音を吐いた。
「
「孔先生。それは違います。この大鯰の出現は、先生がいまだ天に望まれている証です」
そう言い、前に進み出たのは、頭髪が雪のように白い男だった。
一見すると老人に間違えそうだが、顔は若々しい。彼こそが、最も師匠を理解し、最も師匠に愛された、
師よりも三十歳年下で、三十四歳。頭髪は、二十九歳の頃にはすでに真っ白になっていたが、本人はあまり気にしていない。孔丘は、貧乏でもいつもニコニコ楽しそうに学問に励んでいるこの男に、我が志を継がせたいと考えていた。
「回や。それはどういう意味だね?」
「天は、この鯰を食べて飢えをしのぎ、生きぬけと我らに言っているのです。そうでなければ、
「ふむ……」
「そして、天に愛されし先生の道は、このうえなく大きい。あまりにも大きすぎる。先生を理解し、受け容れるだけの器を持った君主となかなか出会えぬのは、それが原因です」
「同じことを
「はい、その通りです。先生は妥協せず、どうか我が道を突き進んでください。道を修めることができぬのは己の恥ですが、道を修めた者を用いることができぬのは君主の恥……。先生が憂えるべきことではありません。むしろ、そんな器の小さな君主どもに受け容れられないことこそ、先生が偉大な君子である証明となるのです」
顔回が、言葉のひとつひとつに師への尊崇の念を込めながら熱っぽくそう語ると、孔丘はハッハッハッと嬉しそうに笑った。
「人知らずして
「ええ、それがよろしいかと。
などと孔丘と顔回が話し合っている内に、気の早い仲由は大鯰を切り刻み、複数の鍋にわけてぐつぐつと煮ていた。
「うわぁ~! すごく美味そうッス! さすがは雑な性格のくせに鍋の火加減や味付けだけはやたらとこだわる
「フフフ……。これぞ孔門四十八の生存戦略の一つ、ミスター〇っ子‼」
「うまいぞぉぉぉぉぉぉーーーッス‼」
「こらこら、由と開。若い者が聞いても分からぬネタではしゃぐのはよしなさい」
かくして、怪異をみごと退けた孔丘一行は、盛大な鯰鍋のパーティーを荒野で開くのであった……。
――第二部「神殺し編」開幕――
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