陳蔡の厄BC489 part2

 ここは、楚軍が駐屯中の要塞、城父じょうほ


 将兵の多くは、すでに眠りに落ちている。


 そんな中、楚軍に迫る異変に気づいたのは、角楼かくろう(見張り台)で寝ずの番をしていた兵士の一人である。


 彼は、ふわぁ~とあくびをしながら夜空をふと見上げた直後、眠気も吹っ飛ぶような信じられぬ光景を目撃した。


「お、お、お……王様ぁぁぁ‼ 空から何かが降って来ますぅぅぅーーーッ‼」


 兵士の絶叫に驚き、寝所から飛び出した昭王しょうおうと家来たちは「あれはなんだ⁉」と天を仰ぎながら困惑の声を上げた。



「鳥だ!」


「空飛ぶいかだだ!」


「いや、孔丘こうきゅうさんちのお弟子さんだ!」



 最後にそう言ったのは、孔丘一門と交流がある楚の重臣の一人である。


 謎の大男に放り飛ばされた端木賜たんぼくしが、しばしの空中旅行を終え、いままさに楚の要塞に落下しようとしていたのだ。



「孔門四十八の生存戦略の一つ……内村〇平ッ‼」



 端木賜は、空中でクルクルッと体を素早く回転させ、着地ポイントを王や側近がいそうな建物の前に微修正。地面に両足がつく刹那せつな、内功術で内なるパワーをフル活動させ、華麗なる着地を決めた。もちろん、両手を広げてYの字の着地ポーズをとることも忘れていない。


 あまりにも美しい着地のフォームに感動した昭王は手を叩き、「おおッ! 素晴らしい! 文句なしの満点、世界新記録だ!」と空から舞い降りた儒者を褒めたたえた。


 しかし、この程度、孔丘門下の傑人たる端木賜にとっては、たいしたことではないのである。時代は乱世。戦場にいなくても、舌戦で言い負かした論敵に逆切れされ、高い所から突き落とされるなんてことは有り得ぬ話ではない。使者として他国に赴くことが多いこの男には、高所から華麗に着地する術は必須の技能であった。


「楚王! 我が師、孔丘がちん軍とさい軍に包囲されています! どうかお助けくださいませ!」


 端木賜はひざまずき、昭王にそう懇願した。神を名乗るヤバイ怪物が孔丘と仲間たちを襲っている最中だということはあえて伏せている。神や怪異などというわけのわからない存在を恐れるのが一般人の人情というもの。余計なことを言って、楚の兵士たちがビビることを危惧したのだ。


「な……なんじゃと⁉ 陳のアホどもめぇ~! せっかく呉軍の侵攻から助けてやろうとしているのに、わしが客に招いた孔丘を襲うとは何事かぁ~! 者共、いますぐ出陣するぞ! 孔丘を救うのじゃ! 」


 楚に誘われた旅の途上で孔丘が陳と蔡の軍に殺されれば、昭王の名誉に関わる。昭王は慌ててそう命令を下し、軍を動かすのであった。




            *   *   *



 場面を孔丘一行がいる陳・蔡の国境付近に戻す。


 端木賜をブン投げた黒衣の大男は、「我、神ナリィィィィィィ‼」ともう一度吠えると、二、三十歩先の孔丘に歩み寄ろうとした。


 だが、この巨人、歩行に問題があるようである。足が隠れるほどだぼだぼの黒衣を引きずり、非常に歩きにくそうなのだ。しかも、ふな〇しー並みの激しさで上下左右に体をくねらせている。その謎の行為に意味があるのかは不明だが、無駄な動きすぎて、ちっとも前に進まない。あくびが出るほどのろかった。


 人間ひとりを空のかなたへと放り投げるほどの怪力の持ち主なので、さぞかし身のこなしも俊敏であろうと身構えていた孔門師弟は、ちょっと拍子抜けしてしまった。


「別の場所で遭遇していれば、ガン無視で走って逃げて、簡単に振り切ることができたんだろうがねぇ……」


 孔丘がそう呟くと、刺客の姿を松明で照らしている弟子たちの一人が「しかし、間の悪いことに、我らはいま陳と蔡の軍勢に包囲されています」と言った。


 そうなのである。このいささか挙動がおかしい刺客を避けるため、下手にこの場所から移動すれば、不審な動きを察知した陳と蔡の軍勢が「逃がしてなるものか」とばかりに孔丘たちに殺到する恐れがあるのだ。


「戦うしかないようですな。……孔先生。あいつ、自分のことを神だとかぬかしていやがりますが、マジっすかね? 俺の剣で斬れますか?」


 激闘の予感に、がらっぱちの仲由は気持ちを昂らせている。左頬をピクピク痙攣けいれんさせて凄絶に笑いながら、孔丘にそう問うた。


「アレが神なのか、精魅もののけなのか、それともただのHENTAIなのかは、倒して化けの皮を剥がしてみねば分からぬ。しかし――たとえアレの言葉が偽りでなかったとしても、我らが絶体絶命ということにはならぬ。ゆえな。

 以前どこかで語ったと思うが、遥か昔、(夏王朝の始祖)が天下の諸神を会稽山かいけいざんに呼び寄せた際、防風氏ぼうふうしという巨神が遅刻した。怒った禹は、この神を殺害して、しかばねをさらしたという。

 神にも強さの階級のようなものがあり、我ら人の身では手に負えぬ神々は当然たくさんいる。だが、けっして無敵というわけでも、弱点が皆無というわけでもない。私が見たところ、アレは仮面と長衣とで自身の正体を隠している。何かしらの弱みがあるはずだ。その弱みさえ看破すれば、きっと勝てるであろう」


 宇宙の深淵を思わせる黒い瞳で刺客を凝視みつめつつ、孔丘は淀みない口調で答えた。怪異について語るその言葉は確信に満ちている。それは、この聖人がこれまでに数多あまたの怪異現象と相対してきた経験から来る自信であった。


「孔先生がそうおっしゃるのなら、間違いねぇ。さぁ~て、いっちょやってやりますか。みんな、余計な手出しは無用だぜ。あいつは俺ひとりで片づけてやる。…………ぱっぷるぷるぺぇぇぇーーーん‼」


 謎の奇声(気合を入れたつもりらしい)を発した直後、仲由は抜剣。足もとの大地を踏み割る勢いで駆け出した。


 一瞬にして大男に肉薄し、猛然一突き、鋭く光る流星を敵の心臓めがけて叩きこんだ。


 恐るべき捷速しょうそくの剣である。相手が誰であっても、これを避けるすべはない。そう思われたのだが――。


「ヌルイ!」


 大男はそう吠えると、予想外の機敏さを発揮した。丸太のごとく太い左の巨腕きょわんさっと前へ突き出したのだ。


 ガチンッ! という金属音が響き渡る。剣と巨腕の間に、火花が散った。仲由の剣は弾き返されていた。


(我が入魂の一撃を素手で防いだだと⁉ 信じられん! あの裾の長い着物の下に武器でも隠し持っていやがるのか⁉)


 仲由は驚愕きょうがくした。その一瞬の戸惑いが、彼に不覚をもたらした。


 大男は、仲由が思考停止しているわずかな隙をつき、頭上にかかげていた右の拳を力いっぱい振り落としたのである。仲由の頭を叩き割るつもりだ。


「由! よけろ!」


 孔丘の鋭い声。


 ハッと我に返った仲由は、野生じみた運動神経で弾かれたように左へ横っ飛びし、大男の攻撃を回避。着地すると同時に風のごとく疾走して、敵の背後に回り込んだ。そして、大男が後ろを振り向く暇を与えず、必殺の剣光を噴き上げさせた。


 しかし、仲由が放った斬撃はむなしく空を切ったのである。


 大男の姿は、眼前から忽然こつぜんと消えていた。


「前方デモ……! 後方デモ……! 我ニ……不覚ナシ……!」


 天地を揺さぶる怒号。


 信じられぬことだが、男の巨体は仲由の頭上にあった。思い切り身をよじらせたかと思うと、高々と空へ跳躍したのである。


 仲由は「ば、馬鹿な! あの図体であれだけ飛ぶのかよ⁉ 歩くのは遅いくせに、水面から飛び出た魚みたいに跳ねやがって……!」と叫びつつ、剣を天にかざして、上空の敵の反撃に備えた。


 黒衣の大男は、空中でぐにゃりと身をひねらせて向きを変えると、仲由めがけて落下してきた。左右の巨腕を猛烈な勢いで三六〇度フルスイングさせ、「アハッ! アハハハ! 死ネヨヤーーーッ‼」と哄笑している。今度こそ仲由の肉体を粉砕するつもりのようだ。


「チッ! あんなの受け止めてやらぁ!」


「よせ、由! 暴虎馮河ぼうこひょうがの勇は慎めといつも言っているであろう!」


 黒衣の大男は、人間を遥か遠くへ放り投げる馬鹿力を有している。しかも、両腕は、剣を弾き返すほど頑丈ときている。そんな化け物が、上空から凄まじい勢いで落下しつつ、自慢の巨腕を叩きつけようとしているのだ。いくら武勇の誉れ高い仲由でも、待っ正面から攻撃を受け止めてしまえば、剣などポキリと折れてバラバラ死体になるのがおちである。


 だが、負けん気が強すぎる仲由は、師匠の制止も聞かず、真っ向から立ち向かう気満々。素手で虎を殴ったり、歩いて黄河を渡ったりするかのごとき蛮勇をふるうのは、この男のいつもの悪い癖である。


「いかん……。かいよ、由を援護するのじゃ」


 孔丘は、若い弟子が震えながら握っていた斧をひったくると、そばにいた漆雕開しっちょうかいという古参の弟子にそう命じた。


「ハハッ!」


 漆雕開は野太い声で応じると、自分も斧を手に取った。


 この漆雕開、孔子教団の初期メンバーの一人で、師匠より十一歳年下。弟子の中では二番目の年長者である。仲由と同じように元は武侠の徒であったが、孔丘が仕官をすすめても「自分、まだまだ未熟ッス。もっと勉強したいッス」と断るほど向学心の強い人物で、師匠大好きな体育会系だった。


「私はアレの左肩を狙う! 君は右肩に投げつけろ!」


「かしこまッス!」


 師弟同時に、斧をブン投げた。


 孔丘は二一六センチの超巨人、漆雕開は筋肉ムキムキの武人である。どちらの膂力りょりょくも人並み外れている。二人が力いっぱい投げた斧は、烈しく旋回しながら飛び、空中の大男の両肩に見事命中した。

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