第二部 神殺し編

一章 女神襲来

陳蔡の厄BC489 part1

 ワンス・アポン・ア・タイム――後に儒教の始祖として崇められることとなる孔丘こうきゅうは、五十六歳の時、国の改革に失敗。失脚するかたちで故国を出て、弟子たちとともに各地を彷徨さまよった。るろうに剣〇ならぬるろうに聖人である。


 十四年にわたる長い放浪期、孔丘一行は大きなピンチに三回遭遇している。そのうちの一つのイベント、


 陳蔡ちんさいやく


 が発生したのは、紀元前四八九年、孔丘六十四歳の時だった。




「死ぬるぅ~! 死ぬるぅ~! 腹が減りすぎて死ぬるぅ~!」


 弟子の中で最年長の仲由ちゅうゆうあざな子路しろが、野っぱらに倒れ込んで盛大に駄々をこねている。空腹で力が出ない云々とさっきからブーブー言いまくっているが、その吠えっぷりは虎のごとく猛烈で、他の弟子たちはうるさそうに仲由を睨んでいた。


 彼らも同様に腹ペコなのだ。みんなが我慢している。それなのに、仲由が大声で騒ぐので、この五十五歳の大きな赤ん坊に対するイライラは最高潮に達しつつあった。


(えらいことになったなぁ……)


 孔丘は、さっきから心の中でそうぼやき続けている。一行はこの数日、陳と蔡の国境付近で身動きが取れずにいるのだ。


 そもそも、このような事態に陥ったきっかけは、南方の大国のに孔丘がスカウトされたことだった。楚の昭王しょうおうは、呉の襲来から陳を助けるべく、国境の要塞城父じょうほまで兵を進めていたが、そこで孔丘が陳と蔡の間にいることを知り、かの有名な賢人を招聘しょうへいするべく使者を送ったのである。


 理想の政治を追い求め、自らの活躍の場を探している孔丘は、さっそく弟子たちを引き連れて楚へ赴いた。


 しかし、その途中で、陳と蔡の大夫たちの邪魔が入ったのである。


「孔丘はたぐいまれな賢者だ。あやつは、いつも鋭い観察眼で、天下の諸侯の弱点を言い当てていた。そういうところが逆に恐くて、あやつが我らの国にいても、重く用いてこなかったのだが……。もしも孔丘が楚に登用されたら、大国の楚が今よりももっと強くなって、将来的に我らがヤベーことになるやも知れぬ。よし! 孔丘の就職を邪魔したろ!」


 などと悪心を起こした彼らは、共同で軍隊を派遣し、孔丘一行を何も無い野原で包囲したのだ。


 これでは、進むことも退くこともできない。無人の荒野なので、もちろん食料も調達できない。一行は餓死の危機に陥った。弟子たちは続々と倒れ、立ち上がる気力すら失せつつあった。


(このままではまずい。何とかして、皆を励まさねば。……そうだ! 歌って演奏しよう!)


 これはいい考えだ。そう思った孔丘は、情感たっぷりに詩を朗詠し、さらには超絶技巧の琴の音を奏でて、弟子たちを鼓舞した。


 子曰く、詩におこり、礼に立ち、がくに成る(孔先生は言った。人っていうのは、まず詩を学んで奮い立ち、次に礼節を学んで身を立て、最後に音楽を学んで完成するものさ)――孔丘はそう断言するほど詩や音楽が大好きである。詩を歌ったり、素晴らしい演奏を聴いたりしたらテンションが上がる。みんなも元気を出してくれるはずだ、と期待したのだ。しかし、元気になったのは自分だけだった。


 ――うちの師匠、こんな時に何やってるんだろ。


 ――お腹空き過ぎておかしくなったのかな……。


 弟子の多くが戸惑いの目で孔丘を見つめた。師匠の呑気な行動にぷちイラついている者もいたが、基本的に孔先生ラブな連中たちばかりなので、表立って「何やってるんっすか、先生」とツッコむ弟子はいなかった。


 そんな中でただひとりブチ切れたのが、古参の弟子である仲由だった。彼は、孔丘の唐突な野外リサイタルを「自分まだまだ元気っすよ? なにせ君子なんで」という余裕アピールだと解釈したのだ。


(こんな時に余裕ぶっかましている場合かよ。こっちはハラヘリヘリハラなんだよ)


 そう思った仲由は、当てつけがましくギャンギャンわめき出し、この厄難やくなんを逃れる策を早くひねり出してくれと孔丘に訴えたのである。


 孔丘門下において、師匠にこんな態度が取れるのは、仲由だけだ。何しろ、弟子たちの多くが孔丘と親子か、祖父と孫ほど年が離れている中で、彼は孔丘とたった九歳差なのである。




 仲由は若い頃、己の武勇を頼むがらっぱちで、お勉強大好きな孔丘のことを「がり勉の軟弱学者め」と侮っていた。


 ある日、彼は孔家に勝手に上がり込み、


「よーよー! 仲尼ちゅうじ(孔丘の字)さんよぉー! あんた、カビが生えた古典の書物や儀礼が役立つと本気で思ってンのかよぉー! 大昔の君子たちだって剣で我が身を守ったに決まってらぁー!」


 などとつばを飛ばして挑発した。さらには「あべろべろばびべべぇぇぇーーー!」と謎の奇声を発しながらデタラメな剣舞で孔丘を脅した。


 このがらっぱち、日頃から雄鶏の羽で作った冠を頭に頂き、牝豚の皮を剣の装飾にしている。ひと目でヤベー奴だと分かる出で立ちだ。しかも、何の脈略もなく刃物を振り回すクレイジーっぷりである。常人ならば、こんな不良にからまれたら目を反らすだろう。


 しかし、孔丘は、唾でびしょびしょになった顔を袖で拭きつつ、「それは違うねぇ。君子は古来、剣を必要としない。悪人がいれば忠をもって善道へと導き、侵略や暴力からは仁をもって我が身を守ったものさ」と穏やかな声音で諭したのである。



 これは余談だが――乱世において剣は不要だというのは孔丘の本心ではない。


 仲由との邂逅かいこうからずっと後年のこと。

 魯の定公ていこうが何の武器も持たぬまま斉の景公けいこうとの会談に赴こうとした際、大司冠だいしこう(裁判と警察を司る長官)の職にあった孔丘は「文事ある者は必ず武備あり、武事ある者は必ず文備あり。文武の両官を連れて行くべきです」といさめている。


 孔丘が危惧きぐした通り、斉側はその会談において魯をビビらせてやろうと企んでいた。武装した異民族を宴の席に突如乱入させ、威嚇的いかくてきな舞を舞わせたのである。


 孔丘はそれ見たことかとばかりに飛び出し、異民族を怒鳴り散らして退けた。それでも懲りない斉側が今度は小人こびとの芸人たちを呼び寄せ、ふざけた芸を披露させると、孔丘は役人に命じて小人たちを容赦なく処断、手足をバラバラに斬った。結果的に景公のほうがビビってしまい、非礼を詫びるかわりに魯から奪った三つの領土を返却するはめに陥ったのである。



 このエピソードからも分かるように、文と武はどちらも必要で、剣なんていらねーなどと孔丘は毛頭考えていない。それでも「君子は古来、剣を必要としない」と語ったのは、仲由が暴力至上主義的なかたよった考えにとらわれていたからだ。


 中庸ちゅうよう――偏った道を進まず、バランスのとれた中正の道を歩む――を守ることこそが至高な生き方であると孔丘は信じ、弟子たちへの教育方針にしていた。だから、偏りすぎた考えを持つ弟子には、自分の本心とは多少違っていても、弟子の偏りを上手く軌道修正できるような訓戒を与えることがあったのである。


 なので、弟子Aと弟子Bが同じ質問をしても、孔丘はぜんぜん違う答えを返すケースがたまに出てくるのだ。これが、記録に残る孔子の言葉に矛盾が散見している原因の一つである。



 ……などと孔丘の教育方法をかいつまんで紹介してみたが、出会ったばかりの仲由は無学であったため、孔丘が語った言葉の半分も理解できていない様子だった。


「は? 忠? 仁? 何それ、美味しいの?」


「食べ物ではない。忠とは、まごころ。仁とは……簡単に言えば、人間を愛する心のことかな。人がいちばん大切にすべきものさ」


「い……イミフすぎて頭が痛くなってきたぞ。ええい! そんなことを学んで何が楽しいんだ!」


「楽しいねぇ。知ることは楽しい。子路殿もともに学ぼうではないか」


 孔丘は、宇宙の深淵のように黒々とした瞳で、がらっぱちの仲由を真っ直ぐ見つめながらそう言った。


(まさかこの俺を誘っているのか、こいつ? う……嘘だろ?)


 不良になって以来、里の隣人どころか親兄弟ですら自分を直視してくれなくなって久しい。仲由は、孔丘の勧誘に、大きな衝撃を受けた。


(そんな温かな目で俺を見てくれたのは……拒絶しなかったのはこの人が初めてだ。ほ、本当にこんな俺を受け入れてくれるのか? やだ、惚れちゃいそう)


 動揺のあまり足元がふらつき、その拍子に雄鶏の冠をぽとりと落とした。彼は、がらにもなく泣きそうな顔になって、「お、俺、ものすっごく物覚え悪いんだけど。それでもいいの?」とたずねた。


 孔丘は、雄鶏の冠を拾ってやり、仲由に渡しながら微笑んだ。


「まず一つ教えよう。君子は死んでも冠を脱がないものだ。……とりあえず、ちゃんとした冠を用意するところから始めようか」




 それ以来の付き合いなのである。こんな粗野な男だが、仲由なりに師匠を厚く尊敬し、孔丘の身辺を守ることに長年いのちを賭けてきた。「ゆうを得て以来、私は自分の悪口を耳にしなくなった」と孔丘が語るほどだった(たぶん、悪口を囁く者は仲由に鉄拳制裁されている)。


 しかし、たった九歳差の師弟のため、どうしても友達感覚が抜けないようである。短気な仲由は、腹が立つことがあると、平気で孔丘に噛みつく悪癖があった。


「孔先生ッ! さっきから俺が腹減ったって言っているのに、なんで無視するンすっかッ! こんな非常事態に歌ったり演奏したりするのが先生の礼法とでも言いたいンすっか!?」


 駄々をこねても師匠が構ってくれないので、たまりかねて仲由は憤然と立ち上がってそう吠えた。


 孔丘はそれでもなお琴を弾き続けたが、曲が終わるとフーッと吐息をつき、「由よ。君は我が弟子の中で最年長、加齢臭が気になりだす五十代のおっさんなのだ。若い弟子たちもこの困窮の中、じっと耐えている。年長者の君が取り乱してはいけないよ」と諭した。


「お言葉ですがね。俺は加齢臭なんてしていません。それに……世のなか変ですよ。おかしいです。我々みたいに身を修めた君子が困窮することってあるンすか? もっとちやほやされたっていいはずなのに」


「君子だって困窮するさ、人間だもの。君子と小人しょうじんの違いは、窮した際にやけっぱちになるか否かだ」


「ぬぬぬっ……」


 君の取り乱しようは君子ではない、と師匠に言われてしまえば、仲由も黙らざるを得ない。突っかかるのをやめ、大人しくその場に座り込んだ。


 単純な性格をした弟子の何人かは「さすがは孔先生。乱暴な子路さんをたった一言で黙らせるなんて。やっぱり、あの御方は天下一の賢人だ」と囁き合っている。その天下一の賢人が空気を読まない野外リサイタルを唐突に始めたことはすっかり忘れてしまっているようだ。



 これは、孔丘一門でたまに見られるお約束のパターンだったりする。


 孔丘も人間なので、たまには弟子たちの反感を買うようなヤラカシ行為を無自覚でやってしまう。しかし、その直後に、がらっぱちの仲由がそれを遥かに凌駕するドン引き行為をやらかし、全てのヘイトが仲由に集まるのである。


 他の弟子たちが仲由のヤラカシに眉をひそめていると、すかさず孔丘が含蓄がんちくあるカッコイイ名言で諌め、仲由を大人しくさせる。その名言に感銘を受けた弟子たちは、師匠のヤラカシを忘却し、孔丘への尊敬ゲージを自然と高めるのである。ボディーガード役である仲由は、無自覚ながらも、師匠の人望までも守っていたのだった。自らの人望を犠牲にして……。



 とはいえ、さすがに今回は、不服そうな顔で師匠を見つめている弟子らがまだたくさんいるようだった。全員の命がやばたにえんな状況に陥っているのだから、当然と言えば当然である。


 ここはひとつディスカッションをして、落ち込んでいるみんなの士気を高揚させてみようか――そう考えた孔丘は、憤然とした表情で黙している弟子たち数人に話しかけ、君子の道とはなんぞや云々と討論を仕掛けてみた。


 孔丘の弟子たちは、みんなディスカッションが大好きである。悪しき世に悲憤慷慨ひふんこうがいする心を持つ彼らは、こういう危機的状況において君子の道を問われれば、「この程度の逆境がなんだ! 俺たち君子は絶対に負けない! 孔先生のもと、必ずこの世を正してみせるぞ!」というガッツが自然と湧いて出てくるのだ。


 師匠に議論を吹っ掛けられ、熱弁をふるううちに、不平を抱いていた弟子たちもすっかり活力を取り戻し、


「しょぼくれていても仕方がない。みんなで話し合って、ここを脱出する策を考えようではないか」


 誰かがそう言いだしたことをきっかけに、作戦会議が始まるのであった




            *   *   *




「孔先生。このわたくしめにお任せください」


 作戦会議が盛り上がり始めたところで、溌剌はつらつとそう名乗り出る者があった。孔丘より三十一歳下の端木賜たんぼくし、字は子貢しこうである。


 この端木賜、あるいは師匠を超えているかも知れないと囁かれるほどの絢爛けんらんたる才覚者であり、彼が使者として立てば数か国の興亡に激甚げきじんなる変動をもたらすほどの弁舌を有していた。後年、魯を救うために斉・呉・越・晋の四か国に遊説し、呉王夫差ふさが越王勾践こうせんに攻め滅ぼされる原因を作ったのもこの男である。


「今はちょうど月なき暗夜。わたくしが夜陰に乗じて陳軍と蔡軍の重囲をくぐり抜け、楚軍に助けを求めて来ます。先生を見捨てれば、楚が天下の信望を失うのは必定ひつじょう。一も二も無く援兵を差し向けてくれることでしょう」


が行ってくれるのならば安心だね。ただ、くれぐれも気をつけて」


「ハハッ!」


 端木賜は、師匠に恭しく一礼すると、出立しようとした。


 正体不明の刺客が孔丘たちの前に現れたのは、まさにその時であった。


 深い闇の中から、身の丈九尺(約二〇二センチ。春秋時代は一尺が二二・五センチ)あまりの大男の姿がぬっと浮き出てきたのだ。


「何奴ッ!」


 いち早く曲者の接近に気づいた仲由が、素早く身を起こして孔丘の前に立つ。


 少し遅れて他の弟子たちも孔丘のまわりに集まり、師匠を守ろうとした。


「……君は陳軍の武将かな? それとも蔡軍だろうか」


 男にそう問いかける孔丘の声は落ち着いている。自分が九尺六寸(約二一六センチ)の大巨漢で「長人」という渾名あだなまでついているため、我が身に迫る謎の刺客が大男でもビビったりはしないのである。


「ワ……ワレ……神……。神……ナリ……。孔丘ヨ……ワレノ……ワレノ……軍門ニ降レ……」


 大男は語彙力ごいりょくがあまりないのだろうか。言葉を頻繁に途切れさせながら、非常に聞きとりづらい鼻詰まりのような声でそう言った。


 数人の弟子が松明たいまつをかざし、その面貌を確認しようとしたが、男は仮面で顔を隠していた。憤怒の形相をした、黄金の面である。


 身にまとっているのは、地べたを引きずるほど裾の長い漆黒の衣。頭には高い冠をのせている。


 地位の高い人間のように見えるが、どうも様子がおかしい。先ほどから巨体をくねくねと忙しなく揺すり、ハァハァ……フゥフゥ……と怪しく唸っている。もしかしたらHENTAIなのかも知れない。


「何者ですか、貴方は」


 そう言いながら、端木賜は大男に歩み寄った。


 どうせ陳軍か蔡軍が放った暗殺者であろうと踏んだこの才覚人は、人を闇討ちすることの卑劣さを得意の弁舌で大いに説き、男を引き下がらせてやろうと考えたのである。


「いいですか、そもそも暗殺という行為は小人しょうじんが選びがちな愚行であって……」


「あっ、賜。そいつに不用意に近づいてはダメだ」


 孔丘がそう呼びかけ、端木賜を止めようとした。


 しかし、少し遅かったようだ。黒衣の大男はぐわっと長い両腕を伸ばし、端木賜の腰をがっちりホールドすると、軽々と持ち上げたのである。


「えっ、ちょ、わたくしの話を――」


「ワレェェェェェェ神ナリィィィィィィーーーーーーッ‼」


 天地を震動せしむる雄叫び。大男は端木賜を凄まじい怪力で放り投げた。


 端木賜は「あああああああ~~~⁉」と叫びながら天高くぶっ飛び、南方の夜空へと姿を消した。


「あーあ。遅かった……。この種の変人は話を聞かないからやめておけと言おうと思ったのに……」








※「いきなり孔子かよ⁉」「三国志どこ行った!?」と驚かれたかも知れませんが、あと2話だけ孔子さんと愉快なお弟子たちにお付き合いください!!!

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