破滅の愛

 ずしゃっ


 小さな生き物が地面に叩きつけられる音が、荒れ果てた庭園に響く。


 夏侯淵かこうえん隊の騎兵の一人が、「あれが……大蛇の正体か」と呟いた。


 斬り落とされた大蛇の首は、墜落のさなかに元の小さな緑蛇りょくだに戻っていた。巨大な蛇の首を庭に叩き落とせば夏侯淵隊の将兵が危険だと曹丕は思い、司馬懿を使って避難を呼びかけておいたのだが、いらぬ心配だったようである。ちなみに、大蛇の胴体は、首を失った直後にあっ気なくかすみのように消え去っていた。


「公子様! よくぞご無事で!」


 上空での戦いを終えた曹丕がふわりと着地すると、司馬懿がそう叫びながら駆け寄って来た。


 曹丕は、相棒に視線を向けず、足元に転がっている虫の息の緑蛇を睨んでいる。


 司馬懿も、近くに落ちていた泰山環たいざんかんを拾うと、緑蛇をまじまじと凝視みつめた。


 不思議なことに、元の緑蛇に戻った途端、胴体と鱗が復活している。残り少ない霊力で再生したようだ。


「これが……さっきまで狂暴な力をふるっていた悪鬼袁煕えんきですか」


「いや、もう悪鬼ではない。この愚か者は、あと一歩で神に成り得るほどの霊力を有していたくせに、無駄に暴れ回って力を使い果たしおった。もはや、何の悪さもできまいよ」


「悪さはできぬと言っても、このまま捨て置くのは危険でしょう。人の幽鬼とは違って、蛇の姿になったこいつは昼間でも現世で普通に行動できるみたいですし」


「お前に言われなくても分かっているさ。蛇の姿は嫉妬や執念深さのあらわれ。元妻にいつまでもつきまといたいという強い未練が、この幽鬼に陽の気が満ちた時間帯でも動き回れる特殊な能力を与えたのだろう。こいつは、費長房ひちょうぼうに命じて、どこか人知れぬ洞窟にでも封印させるつもりだ。そうすれば、袁煕の魂は冥界にいくこともできず、永遠の闇の中で苦しみ続けることになるだろう」


「そういうことなら、早速手を打ちましょう。おい、費長房――」


 司馬懿は、庭園のどこかにいるはずの費長房を呼ぼうとした。しかし、その前に、



顕奕けんえき様!」



 と、袁煕のあざなを呼ぶ女の悲痛な声が庭内に鳴り響いた。


 その声を聞いた曹丕は、ほんの一瞬、厳しい渋面を作った。彼は小さくため息をつくと、すぐに苦々しげな表情を打ち消し、ほぼ感情が読み取れぬ石化したような顔色でゆっくりと振り向いた。


 司馬懿も――見なくても誰か分かっていたが――正房せいぼう(表座敷)から飛び出して来た女人にょにん凝視みつめる。


 案の定、水仙であった。


 髪の毛を振り乱している彼女は、何度もつまずいて倒れそうになりながらも、なりふり構わぬ必死な形相で駆けて来る。


 止めようとして振り切られたのだろう、後からは曹沖と華佗かだ、玉容が追いかけて来ていた。


 邸内に侵入した度朔君の神兵を全滅させたところだった夏侯覇かこうはは、何事かと思って外に出かけたが、曹真に引きとめられていた。


「……邪神の手勢がまだ近くに潜んでおるやも知れぬ。者共ものども、周辺を見回りに行くぞ」


 曹沖に目配せされて機敏に察した夏侯淵は、部下たちにそう命じると、素早い行軍で屋敷の外へと出て行った。誰も気づかなかったが、ついでに費長房も戦力として連れて行かれたようである。




「し……子桓しかん(曹丕の字)様。ど、どうか……どうかお待ちください。一生のお願いです」


 水仙は、覆い被さるように蛇を抱きしめると、涙ながらに哀願した。


 この期に及んで、かつて夫であった化け物をかばおうというのか。これでは現在の夫である曹丕の立つ瀬がない。


「……どくのだ、水仙。こやつは叡に手を出した。さすがに許せぬ」


 曹丕は妻に命じた。鉄の仮面のように無表情のままだが、ほんのわずかだけ声が震えている。燃え立つ心火しんかを懸命に鎮めようとしているのが司馬懿には分かった。


 だが、水仙は夫の気持ちを察することができないのか、それとも曹丕の逆鱗げきりんに触れる覚悟ができているのか、ハラハラと涙を流して緑蛇から離れようとしない。


 やがて彼女が口を開き、驚くべき懇願をしたことで、後者であったことが分かった。


「重々承知しています……。化け物に成り果てた顕奕様を生前の優しかったあの人と同じだと信じた私が間違っていました。私は、子桓様に隠れてこの蛇と密会し、叡を窮地に陥れた己を許すことができません。ですので……この蛇を始末するのならば、どうか私ごと。私も一緒に処断してください。貴方様のその手で」



 処断してくれだと? そんな馬鹿な。いつもおびえた小動物のような目をしているくせに、なんて大胆なことを言うのだ――と司馬懿は心の中で呟いた。


 曹叡はまだ幼く、その出生の事情は複雑である。いつ袁紹の孫だと周囲に気づかれ、命が危うくなるかも知れない。そんな息子の厳しい境遇を思えば、母親がここで死ぬべきではないことぐらい水仙も分かるだろう。


 前夫の亡霊が血の繋がった息子を殺めかけたという悲劇に、精神が錯乱してしまうほどの衝撃を受け、そんな血迷ったことを口走っているのだろうか?


 それとも、袁煕を二度も殺すつもりなら私も殺せ、と曹丕を脅しているのか……。


 耳を疑うような水仙の発言に司馬懿は戸惑い、この麗人の真意をはかりかねた。



 一方、妻に対してなるべく紳士的――というよりは、ほとんど他人行儀だが――であろうと常から努力している曹丕も、さすがに苛立ちを隠せないようである。彼の顔を覆っていた鉄の仮面はもろくもひび割れ、その表情は見る見るうちに険しくなっていった。この若者がポーカーフェイスを他人の言動によって崩されるのは、非常に珍しい。


「……それが叡のためになるとでも? あの子にしてみれば、父が母を殺すことになるのだぞ? 貴女あなたは……本気でそんな戯言たわごとを申しているのか」


 冷たく光る眼光まなざしを妻に向け、曹丕は問う。


 水仙は、しばし黙り込んでいたが、やがて夫から視線を反らして「はい……」とか細く答えた。その吐息のような返事には、妙な色気がある。


(この女、全く怯えていないぞ。死への恐怖は無いのか?)


 司馬懿の困惑は、ますます深まっていく。


 なぜか彼女のかんばせは、たとえる言葉が見つからぬほど艶美えんびになっていき、頬はかすかに朱に染まってさえいたのだ。


 ああいう紅潮した女の顔を見た記憶は、ねやを共にしている時の春華や、鍾繇しょうようを夜這いに来た女幽鬼の馮貴人ふうきじんしか、司馬懿には無い。贖罪しょくざいのために死を望む人間の顔には見えなかった。言葉と表情に矛盾があり、どうにも不自然だ。


 それとも、絶世の美女というものは、死にに行く時ですらあんな妖艶な表情になってしまうものなのだろうか? 司馬懿はいぶかしがり、水仙という女人がだんだん分からなくなってきた。


 いまの彼女は不可解というよりは、少し不気味ですらある。いくら前夫袁煕への執着があったとしても、あれだけ愛していた息子をこの世に残して、軽々しく死を選択する浅慮な母親ではなかったはずだが……。


「お待ちくだされ、奥方様。こたびの事件は、曹叡様を祟った袁煕ひとりの罪。貴女様には何のとがもありません。気が立っている公子様に、『殺して欲しい』などと乱暴なことを仰ってはなりませぬ。幼い曹叡様には、母親である貴女様が必要でしょうに」


 もしかしたら、本当に気が動転して、血迷ったことを口走ってしまっているだけなのかも知れない。無理矢理そう思い直した司馬懿は、水仙をやや強い語調でいさめた。


 しかし、水仙はかぶりを振って、「私は、我が子を危うく死に追いやりかけました。それが我が咎。母親失格です。あの子のそばにいる資格なんてありません」と答えた。


 悲壮感に満ちた言葉ではあるが、なぜか司馬懿の心には深く響かない。


 ほんのりと赤かった水仙の頬は、だんだんと気持ちがたかぶってきているのか、いまでは爛酔らんすいしたかのように上気している。一種の興奮状態のように見える彼女には、普段の慎重さや思慮深さが全く感じられない。本当に曹叡のことを思って物を言っているのかすら、司馬懿には疑わしく思えてきた。


「されど……貴女様が死ねば、曹叡様はどなたが育てるのです」


 もう一度息子の名を出して揺さぶってみたが、水仙は「子桓様がいらっしゃいます。自身を犠牲にしてまで叡を救ってくださった子桓様にならば、あの子の将来を託せると信じています」と即答した。


 そして、緑蛇を胸に抱き寄せると、毒々しいほど艶めかしい視線を曹丕に向けて再度懇願した。


「……どうかお願いです、子桓様。貴方様を裏切った不義の妻を袁顕奕ともども処断してくださいませ」


「ふざけるなッ‼」


 曹丕は秀眉しゅうびを逆立て、ずっと抑え込んでいた感情をとうとう爆発させた。


 右手のげきをぐわっと振り上げ、足元にひざまずく妻を燃ゆる双眼で睨む。


(まさか、この場で妻を叩き斬る気か⁉)


 一時いっときの怒りで、そんな非道を曹丕にさせられない。


 焦った司馬懿は、曹丕と水仙の間に割って入ろうとした。


 だが、駆けつけた曹沖が司馬懿の腕をつかみ、制止した。


「司馬懿殿。兄上を信じて見守るんだ」


「さ、されど……!」


 司馬懿がそう喚いた次の瞬間、曹丕は、右手の戟をあさっての方向へと乱暴に放り投げていた。


 左手の戟も、先端の「」の刃を地面に突き刺す。そして、「俺に……叡を託すだと⁉ 俺のことを全く……全く信用していないくせに! 口から出まかせを言うのは……やめろッ!」とあえぐような息遣いで怒鳴った。


 かつて見たことがない曹丕の激情の嵐を目の当たりにして、司馬懿は呆然としてしまった。二人の間に割って入ることも忘れ、ただ立ち尽くすことしかできない。


「どうせ死にたいだけなのだろう⁉ 貴女は、俺のそばにいながら、北に逃げた袁煕と再会して滅びの運命を共にしたいとずっと願っていた! 貞女だからそんなことを考えていたのではない! 男と女が手に手を取って滅びゆくことこそが何物にも代えがたい愛の悦楽だと貴女が思っているからだ! それゆえ、可愛い子供よりも、男との破滅の愛を選ぼうとした! どうだ、違うか⁉ 図星のはずだ!」


「し……子桓様……。それは……」


「怪異の闇を見極める我が目は、人の心の闇をも見通す! 誤魔化すことはできんぞ! 子供を残して死ぬような勝手はけっしてさせぬ!」


 水仙の涙に濡れた瞳が激しく揺らぐ。唇がわなわなと震え、さっきまで紅潮していた顔は、たちどころに死人のように青ざめていった。


 破滅の愛……なるほど……と水仙は愕然がくぜんたる思いで心中呟いた。


 自分がいなくなるほうが曹叡のためだなどともっともらしいことを口走っていたが――本当は滅びゆく前夫に殉じることで、美しき男女の情愛を結実させ、そのよろこびで心を満たしながら死んでいきたいと願っていたのだ。


 恋うる男と一緒に地獄の底まで追い詰められ、心中しんじゅうするかたちで逝くことによって、最高の恍惚エクスタシーを水仙は感じることができるのである。その恍惚エクスタシーを得るために、自らの首を差し出そうとしていた。そのことに、水仙自身、たったいま曹丕に指摘されるまで気がつかなかった。


 自分の中に激しい情念の炎――自分を愛してくれる男と一緒に身を滅ぼしたいという破滅願望――があることを、水仙は思春期を迎えた少女時代ごろから薄っすらと気がついてはいた。だが、彼女は教養のある大人しい女性だ。そんな自分の願望が恐ろしくもあった。


 曹軍に捕らわれたことで最愛の夫と滅びの運命を共にしそこなった後は、自らの心に棲む破滅願望のことなど忘れ、袁煕の血を継いだ愛児をこの手で立派な武将に育て上げることだけに専念した。敵将の妻になる屈辱にも必死に耐えてきた。我が子を守り抜くことをただ一つの我が使命だと思っていた。そのはずだった。


 しかし、蛇の怪異となった袁煕が自分の前に現れると、破滅の愛に殉じる機会がふいに巡ってきた。「前夫の亡霊と密会するとは、俺に対する裏切りだ」と曹丕の怒りを買って、緑蛇ともども手討ちにされる可能性を無意識に期待しながら――まさか息子に害が及ぶとは思わず――蛇をそばに近づけてしまったのである。


 そして、たったいま、目の前で袁煕が二度目の死を迎えようとしている光景を目撃して、


 ――私もここで共に討たれれば、顕奕様と抱き合いながら永久の闇に堕ちていける。あの人と一緒に滅びたい。あとのことなんて、どうなってもいい。


 と、危険な愛の情熱が刹那せつな的に燃え上がってしまったのである。


 だが、子供を残して死ぬのは勝手すぎると曹丕に責められ、水仙は(確かにその通りだ。私には命よりも大事な叡がいるというのに、なんて馬鹿なことを考えていたのだろう……)とぎりぎりのところで正気を取り戻すことができたのであった。元の思慮深い彼女に戻ると、死の道へ突き進もうとした自らの行動がいまさらながら急に恐ろしくなり、ぶるぶると華奢きゃしゃな体を震わせ始めた。


「叡を見捨てて死ぬなど……そのような勝手……許さん。絶対に許さんぞ。貴女は、この世で唯一、叡に純一無雑じゅんいつむざつの愛をそそげる人なのだ。貴女が死ねば、あの子が可哀想だろう。俺のような冷酷な人でなしに……戦場で兄を見捨てて逃げたような男に……可愛い息子の将来を託してはならん。養い親として守ってやることはできても、俺は愛など知らぬ人間……良い子にはしてやれん」


 曹丕の息遣いがだんだんと荒くなってきている。顔色も良くない。ひたいには大粒の汗を浮かべていた。神医華佗の手で指圧してもらった、一時的に気力が回復する経穴の効果が切れてしまったのだ。


 暴露された水仙の意外な魔性に司馬懿は困惑していたが、曹丕の様子がおかしいことにいち早く気づき、


「こ、公子様! 大丈夫ですか⁉」


 そう叫びながら、倒れそうになった曹丕の体を慌てて支えた。


 曹丕は、ハァ……と艶めかしい吐息をつき、「大事ない」と力無く答える。


「仲達よ」


「は……はい」


「あの緑蛇をどこかに捨てて来い」


「え? 封印しなくていいのですか? 回復したら、奥方様の周辺をまたうろつきだしますよ? 度朔君どさくくんにそそのかされて、再び悪鬼になったりしたら……」


「どうせ奴は意志薄弱。悪鬼にまたなったところで己の力を使いこなす胆力や知恵は無い。再び俺の前に現れたら、同じように退治するまでだ。それに……あの緑蛇が水仙のまわりをうろつくことを俺が許せば、彼女も思いつめたことを考えぬであろう。叡のためだ、仕方がない」


「は、はあ……」


 納得しかねたが、緑蛇(袁煕)を始末すれば、水仙が後を追いかねないことは確かである。


 司馬懿は曹丕の命令に従い、ぎょう城邑まちのとある橋の下に蛇を捨てた。


 かくして、袁煕の祟りをめぐる怪異事件は、一抹の不穏を残したまま結末を迎えたのであった。

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