仕置きの時間

「曹丕が仁者だと? だったら……この私は何だというのだ。自分の息子を祟り殺しかけた愚者か? それとも、邪神にいいように利用された道化か?

 ……思い返せば、私は兄弟で最も影が薄く、父や家臣たちからも軽く見られがちであった。そして、死後にすらこのような恥をさらしてしまうとは……。フフ……フフフ……フハハハハ‼」


 己の過ちに気づいた大蛇は、突然、壊れたように哄笑こうしょうしはじめた。


 喉の奥から黒い霧が朦々もうもうと噴き出し、蛇の咥内こうないにいる司馬懿は、凄まじい瘴気しょうきをもろに浴びてしまう。


「ぐ……ぐおっ⁉ 体の力がどんどん抜けていく……。お、おい、袁煕えんき。俺の話を聞いていなかったのか。お前の復讐に正義は無い。愚かな真似はもうやめろ」


「愚か愚か愚かぁぁぁーーー‼ どいつもこいつも私を愚か者扱いしやがってぇぇぇーーー‼ 部下たちもそうだった‼ 敵の手に落ちた妻を取り戻せぬまま北方に落ち延びた私のことを、陰ではみんな馬鹿にしておった‼ ああ、そうさ‼ 私は負け犬で弱虫の愚か者さ‼ なにせ自分の息子と知らず、曹叡を呪殺じゅさつしようとしたのだからな‼ アハハハハハハハハ‼」


「げほっ、ごほっ……。曹叡の正体を教えてやれば、袁煕の心に宿る憎嫉ぞうしつの炎も消え、元の大人しい緑蛇りょくだに戻るかと思ったが……。いささか考えが甘かったようだ。真実を受け止めきれず、自暴自棄になりやがった。心の弱い奴め……」


 そう呟きつつ、司馬懿は、この苦境を打破する策は無いか必死に思考を巡らせ続ける。


 力尽きる前に、大蛇の体内にイチかバチか侵入し、泰山環たいざんかんで暴れ回ってみるか――一瞬そう考えたが、いまの体力ではすぐに限界が来そうである。


 それに、霊剣泰山環は、「怪異に痛撃つうげきを与えられるが、そのかわり完全に滅することはできない」という能力の縛りがある。たとえ暴れるだけの余力があったとしても、大蛇を滅しきれなければ、最終的には胃液でぐちゃぐちゃに溶かされてしまうのがオチだろう。


「もうどうでもいい……。私は息子を殺しかけてしまった。水仙にも愛想を尽かされたことであろう。この世でたった一つ確かであった妻の愛を失ったいま、人間袁煕は完全に死んだ。いまの私は悪道に走った怪物にすぎぬ……。怪物は怪物らしく、身の内から湧き起こる殺意の衝動に従うのみ。この城邑まちの全ての人間を喰らい尽くしてやるわぁぁぁーーーッ‼」


 グオオオォォォと龍のごとき咆哮ほうこうを上げ、大蛇は大量の黒い霧を吐き出す。生命力を奪う毒霧どくむぎょう城の全域に蔓延まんえんさせ、弱った人々を手当たり次第に喰らっていく魂胆だった。


「い、いかん。これ以上、こいつの邪悪な気を浴び続けたら、本当に死んでしまうぞ。ど……どうしたら……。

 ハッ! そ、そうだ! けがれが大嫌いなこの魔除けの剣なら、黒霧を綺麗さっぱり浄化してくれるに違いない!」


 そう思い到った司馬懿は、わずかに残っている力を振り絞り、大蛇の上顎うわあごに突き刺していた泰山環を引き抜いた。そして、えいやっと前方に刃を押し出した。すると、思惑通り、霊剣は黄金色の光を発し、


 ――穢れは絶対に私に近寄るな!


 とばかりに、強力な邪気バリアを張った。


 またたく間に、司馬懿を包み込んでいた邪悪な霧が跡形もなく消え去っていく。


「ホッ……」


 と司馬懿は安心した。だが、それが油断となった。


 大蛇が再び狂ったように吠え、空中で大暴れすると、司馬懿の足場――大蛇の舌である――がぐねぐねと動き、滑って転んでしまったのである。


「し、しまった!」と叫んだのとほぼ同時に、大蛇の口から吐き出され、真っ逆さまに落ちていった。


「うわぁぁぁ~~~⁉ た……泰山環! お前、宙を浮けただろ! このままだと墜落死してしまう! いますぐ飛んでくれ!」


 司馬懿は霊剣にそう訴えたが、持ち主が墜落死しようが知ったことじゃねぇと思っているのか、泰山環は飛ぼうとしない。


 もはやここまでか――とあきらめかけたその時、



「仲達! 俺の足を取れ!」



 曹丕の鋭い声が耳に響いた。


 まさか……と思って下を見ると、大穴が開いている華佗邸の屋根の上に曹丕が立っていた。両手には双戟そうげきを握っている。


「あ……足⁉ 手じゃなくって⁉」


「見ての通り、手は塞がっているのだ。……行くぞッ!」


 そう言うやいなや、曹丕は飛矢のごとき勢いで高々と跳躍。落下中の司馬懿めがけて一直線に飛びながら、右足を頭のてっぺんまで蹴り上げた。


 司馬懿は、精いっぱい手を伸ばして、曹丕の足首をはっしとつかむ。


 すると、曹丕は空中でピタリと止まり、すがりついている司馬懿の体ごと右足を後ろへブゥゥゥーーーン! と大きく振り上げた。


 手を放してしまいそうになった司馬懿が「のおぉぉぉぉーーーっ⁉ 何するんじゃぁぁぁーーー‼」と悲鳴を上げる。


「もういっぺん、袁煕のところへ行って来いッ!」


 強豪サッカー選手が稲妻シュートを決めるかのごとく、猛烈な勢いで右足を前へ再度蹴り上げる。


 足にしがみついていられなくなった司馬懿は、投石機カタパルトから射出された弾丸だんがんよろしく放り飛ばされた。


「助けてくれるんじゃなかったのかよぉぉぉーーー‼」


 そう叫びながら、上空で黒霧を吐き散らしている大蛇のもとへとぶっ飛んで行く。


「鼻だ! 奴の鼻の上に泰山環をぶっ刺してやれ!」そう怒鳴りつつ曹丕は落下し、屋根の上にひらりと着地する。


 そんな簡単に言うなよあほんだら! と心の中で罵りながらも、司馬懿は霊剣を紫電一閃しでんいっせん黒暗々こくあんあんと天を覆っていた霧を掻き消す。そして、大蛇の両眼と鼻の間あたりに光り輝く刃を突き立てた。



「アガァァァオオォォォーーーッ⁉」



 天空をつんざく怪物の叫喚きょうかん


 泰山環の退邪の力によって、刃が突き刺さった周辺の鱗が、粉々に砕けて消失していく。


 大蛇の鼻のまわりは、赤々とただれた皮膚が剥き出しになり、傷口からは黒々とした血が大量にあふれだした。


(なるほど、そういうことか。犬の化け物のりんを倒した時と同じように、体を守っている鱗を破壊したうえで肉を穿うがつ作戦だな)


 司馬懿は曹丕の意図をそう解釈し、さすがは策士だ、と感心した。


 しかし、その直後、憤激した大蛇が雷鳴のごとき怒声を上げ、


「曹丕ぃぃぃーーー‼ 私を馬鹿にするのもいい加減にしろぉぉぉーーー‼ 鱗を剥いだところで、そんなごときで私の肉体に傷ひとつつけることなどできぬわぁぁぁーーー‼」


 司馬懿を頭の上にのせたまま、曹丕めがけて急降下を始めた。


 巨大かつ長い胴体を激しくくねらせ、凄まじいはやさで大蛇は飛んでいるため、振動と風圧で司馬懿は吹き飛ばされそうになる。下半身が浮いた状態で、剣の柄を必死に握り、「こ、公子様ーーーッ! お助けぇーーーッ!」と泣き叫んだ。


「がんばって剣を放すな。あとで助けてやるから」


「無理無理無理! いますぐ助けてくれないと死んじゃう! もう体力の限界!」


 曹丕は、司馬懿の悲鳴を無視。双戟を持つ両手をだらりと下げ、屋根の上で大蛇を待ち受ける。


 前にも書いたが、戟は古代中国のポピュラーな武器の一つである。

 刃がト字型になっていて、刺突用の先端の刃を「」、敵を引っ掛けたりなどできる横に突き出た刃を「えん(または)」と呼ぶ。

 曹丕は、柄が短めの短戟を左右に持って、金城きんじょう鉄壁てっぺきの構えで戦うのが得意だった。その双戟の構えこそが――。



悪来あくらい典韋てんい直伝……坐鉄室ざてつしつッ‼」



 大蛇の巨大な口がグワァァァと開き、咥内こうないに折りたたんで隠されていた二つの鋭い牙があらわれて曹丕を噛み砕こうとした直前、彼は双戟を素早く頭上に掲げた。そして、「刺」の刃を×字に重ねる。


「そんなもろい刃、我が牙の前では子供の玩具のようなものだ‼ 曹丕よ、貴様は丸呑みにしてゆっくりと胃の中で溶かすなどという生易しい殺し方はしてやらん‼ 肉体を跡形無く破砕はさいしたあとに、水仙と曹叡にその無惨な遺骸を見せつけ、家族三人まとめて喰らってやる‼ さあ、覚悟しろぉぉぉーーーッ‼」


 司馬懿の霊剣には翻弄されたが、何の霊力も持たぬ一般の武器ごときでは、自分を傷つけることはできない。悪鬼袁煕にはその自信があった。あざけり笑いながら、曹丕の頭を戟の刃ごと噛み砕こうとする。


 だが――次の瞬間にわらっていたのは大蛇ではなく曹丕だった。


 大蛇の自慢の牙は、曹丕が頭上で構えていた双戟の「刺」の刃と激突した直後、粉々に砕け散ったのである。


 驚愕きょうがくした大蛇は「な……なぜだぁぁぁーーーッ⁉」と悲痛な声を上げた。


「馬鹿め。この俺を誰だと思っている。鬼物奇怪きぶつきっかいの事に精通する曹子桓だぞ。何の策も無く貴様のような怪物に勝負を挑むものか」


「あ、あ、あ……。わ、私の牙が……ごときに……」


「さてと――ここからは仕置きの時間だな。覚悟しろよ、袁煕。お前の運命はすでに我が掌中にある」


 そう告げると、曹丕は冷艶れいえんなる微笑を浮かべた。


 司馬懿は、その妖艶な笑顔を何度も見てきている。


 彼のその微笑みは、怪異たちにとって死刑宣告に等しいものだった……。

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