歴史の闇
曹叡が自分の子であると告げられた大蛇――いや、
「嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁ‼ そんな馬鹿な話、あるはずがないぃぃぃ‼ 曹丕がなぜ敵将の子供を我が子として育てるというのだぁぁぁ‼ 信じられぬわぁぁぁ‼」
そう狂乱しながら、空中でその巨体を激しくくねらせる。耳障りなことばかりを言う無礼な男を口から吐き出し、落下死させようとしているのだ。
しかし、蛇の
「一番不審に思ったのは、あれだけ用意周到な曹丕が、自分や水仙が祟られた際の対策はしておきながら、曹叡が呪われるとは露ほども考えていなかったということだ。全くの無警戒だったと言っていい。悪鬼化したお前に曹叡が祟られたと知った時には、そうとう驚いていた。
そして、無防備であったのは、水仙も同じだ。彼女は『
……だが、大馬鹿野郎の貴様は
「うるさいうるさいうるさい‼ 信じぬ信じぬ‼ 私は信じぬぞぉぉぉ‼」
「ええい、見苦しい! 黙って俺の話を聞け! 真実から顔を背けるな!」
司馬懿はそう一喝し、剣の柄を握る手に
「そもそも……最初から妙な違和感があったのだ、あの家族には。曹叡は、俺と初めて会った時、自分のことを四歳だと言っていた。母親の水仙が珍しく厳しい声で三歳だと訂正させていたが……彼女が慌てるのも当然だ。曹叡が建安四年(二〇四)生まれの四歳だったら、計算が合わなくなってしまう。何の計算か、もちろん分かるな? 曹丕と水仙が出会って、子供を出産するまでの時間だよ」
「う……ぐぐぐ……」
司馬懿が何を言おうとしているのか察した大蛇は、苦しげな声で
「
賢いあの幼子は、ちゃんと自分の年齢が分かっていて、四歳だと言った。水仙はそれに強い危機感を抱き、あなたは三歳だと一生懸命に刷り込ませようとした……。
部外者である俺に我が子の出生の秘密を見抜かれたら困るだけでなく、何よりも恐れたのは、成長した曹叡が自分の出生年の矛盾に気づくことだ。父だと思っていた曹丕が本当の父の仇だと知れば、袁家復興や打倒曹家を考えるようになるかも知れない。そうすれば、あの子供は曹操によって排除される運命をたどることとなる……。どうだ、袁煕。これで納得したか」
「ふ、ふざけるな‼ その程度の根拠だけで貴様の言葉など信じられぬわ‼ わ……私を惑わせるために、そのような虚言を弄しているのであろう‼」
「根拠なら、まだまだある! 水仙を自分の妻にした曹丕は、そのあと二年もの間、彼女を
冷酷な曹操が敵将の子を生かしておくはずがない。捕らわれて間もない水仙の腹が大きく膨れていることを知れば、出産後すぐに赤ん坊を殺したはずだ。だから、曹丕は華佗先生に水仙をかくまってもらったのだ。あのご老人は、人命を最も大切にする天下一の神医……。それゆえ、華佗先生は幼い命を守るために、曹丕に協力したのだろう。
そして……年内に水仙が無事に出産し、曹叡が誕生した。母子はしばらくの間、華佗邸のあの隠し部屋でひっそりと暮らした。だが、曹丕が司空府に妻を招かないままだと、曹操や
病弱だという理由で曹叡がその後も華佗先生のもとに預けられたのは、成長するにつれて幼子の顔に祖父袁紹や実父袁煕の面影が色濃くあらわれ、周囲の疑惑を招く危険性があると曹丕が考えたからに違いない。
曹操は若い頃、袁紹とは仲のいい友人だったと聞く。また、曹軍の中には袁紹にかつて仕えていた者がたくさんいる。曹叡の顔があまりにも袁家の人間に似すぎてきたら、袁紹や袁煕の風貌をよく知る者たちは、その出生を怪しむはずだからな」
そこまで一気にまくしたてたところで、司馬懿は自分の視界がぐにゃりと歪むのを感じた。どうやら、あまりにも長く大蛇の口の中にいすぎたようだ。悪鬼袁煕の吐き出す
「そ……曹丕が、水仙と私の子をかくまっていただと……? ば、馬鹿々々しい。あの男は万事につけて軽薄で、たちの悪い人間だ。恐らく、折り合いが悪い両親に意地悪をするため、孫の顔をわざと見せまいとしたのであろう。きっとそうに違いない」
「チッ、まだ言うか……。曹叡に取り憑いている間、お前は曹丕と水仙の会話や、曹丕の独り言を全て聞いていたはずなのに、どこまで現実逃避するつもりだ。
お前にも分かるだろ。水仙は、現在の夫の曹丕を非常に恐れ、卑屈な態度を取っている。そして、心の底では全く信用していない。悪鬼化したお前に祟られ、瀕死に陥った曹叡を、曹丕が見捨てると誤解したほどだ。彼女は『貴方は、腐った根を断とうと考えているのではないか』と曹丕に
腐った根とはつまり、曹丕にとって曹叡は血の繋がらない子供――敵将の子ということだ。下手をしたら、袁家の血を引く曹叡は、曹丕を脅かす存在になりかねない。だから、水仙はいつか曹丕が我が子に手をかけるのではと怯え続けているのだ。
しかし、曹丕は……あの御方は……その危険性を熟知し、妻に信じてもらえずとも、曹叡を自分の息子として育て上げようとしている。袁煕よ、愛妻を奪われた悔しさは理解できるが、これ以上怨むな。あの御方は、お前の息子のこの世でたった一人の
「…………わ、分からん。なぜなのだ? こんな恐ろしい秘事が曹操に知られたら、間違いなく曹丕は立場が危うくなる。あいつがそこまでの危険を冒し、私の子供を助けようとする理由が全く分からぬ……」
「これは俺の推測だが――きっと、最初は単純に小さな命を奪えなかったのだろう。あの御方は、水仙を曹操に献上するように母親の卞夫人に命じられていた。しかし、父親の醜い愛欲を満たすために赤子を死に追いやることなどできなかったのだ。だから、卞夫人の命令にあえて背き、水仙を己の欲望に従って我が妻にしたと世間には見せかけ、母子を自らの庇護下においた。
そして、曹叡を息子として育てるようになった後は……この子を絶対に見捨てぬという強い覚悟を持つようになった。嫡男を戦場に捨てて、罪の無い息子に兄の死の責任を押しつける、曹操のような父親にはならぬと己に誓ったのだ。父の愛に恵まれなかったからこそ、自分は立派な父にならねばと己に言い聞かせた。曹丕様とは、そういう人なのだ。『父が欲した女を
ここで余談をはさむが――曹叡の出生に関する
陳寿は、魏書の明帝紀において、明帝(曹叡)は景始三年(二三九)に年三十六で
――景始三年に三十六歳で崩御したのなら、明帝の生年は建安四年ということになるではないか。
司馬懿も指摘した通り、曹丕と甄夫人が出会ったのは建安四年の八月。これでは色々と計算が合わない。無理に合わせれば、曹叡の父親は甄夫人の最初の夫の袁煕ということになってしまう。
裴松之は、「明帝は建安十年(二〇五)に生まれたはずだ」と、陳寿の記述に誤りがあると断じた。
だが、これが陳寿の
陳寿は、蜀の出身である。父親の
彼が『三国志』を執筆したのは、司馬氏の晋が中華を支配した時代。
司馬氏は魏皇帝からの
しかし、陳寿はあらゆる工夫をして、魏に滅ぼされた故国への愛情を『三国志』の中に忍ばせていたのである。その工夫のひとつが、蜀書の最後を飾る
という書物の全文だった。
この書は、蜀の官僚の楊戯が延熙四年(二四一)――蜀滅亡の二十二年前――に著したものである。劉備や諸葛亮、関羽、張飛をはじめとする蜀の人々の名を列挙し、称賛した。陳寿がこの楊戯の文を蜀書に収録してくれたおかげで、後世の我々は劉備が建てた国の本当の名前を知ることができる。
蜀の人々は、自分たちの国を、前漢と後漢の流れを受け継いだ新たな漢の王朝と認識していた。それゆえ、彼らは国の名を単に漢、もしくは末っ子の漢――
――我が故国のまことの名は季漢。漢王朝の正しき流れをくむ国だ。
陳寿は、口には出せぬ想いを、歴史書に隠した。後世の人々が楊戯伝を読み、彼の愛国心と季漢の正当性に気づいてくれることに期待して。
そう推測すると、陳寿という男は、巧妙な
そして、そんな歴史家が「明帝は景始三年に年三十六で崩御した」と、曹叡の出自を揺るがしかねない一文を記した。果たしてこれは、陳寿の単純な
――曹叡は曹丕の実子にあらず。
という事実を匂わせるために書いた恐るべき
ただひとつ言えることは、魏文帝曹丕は後漢献帝の禅譲を受け、中華王朝の正統を継いだ。しかし、明帝曹叡が袁紹の孫で、曹操や曹丕とは赤の他人であったとすれば、「魏王朝の正当性とは何ぞや」という問題が生じてしまうということだ。
余談が長くなってしまったが、曹丕が自らの崩御のぎりぎりまで曹叡の姿を臣下に見せたがらなかったことを考え合わせると、『三国志』には知られざる歴史の闇が潜んでいるように思えてならない。
<曹叡の実父に関する他の説について>
この小説は三国志の時代のあらゆる
しかし、曹叡の実父に関する説は他にもあるので、それもここに紹介しておきたいと思います。
・二〇四年に曹叡を生んだのは、甄氏とは違う女性(曹丕の愛人?)。曹丕は曹叡を甄氏に養育させた。
・曹叡を生んだ女性は、曹丕以外の男――曹操と通じていて、曹叡の実父は曹丕と曹操のどちらなのかはっきり分からなかった。
・曹操が曹植を愛しながらも曹丕を太子に定めたのは、息子の愛人に子を生ませたという負い目があったから。
というわけで、坂口氏は「
いずれにせよ、陳寿が記した「年三十六で崩御した」の一文が曹叡の出生に大きな謎を生じさせてしまったことは間違いありません。
(曹操実父説も面白そうだから、誰か書いて……(^ω^))
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