暴かれた正体

「し、司馬懿殿。どうして気色の悪い豚の血を私の子にかけるのです。幼い叡に何か怨みがあるのですか。や……やめなさい!」


「奥方様、これはれっきとした医療行為です。落ち着いてください」


 玉容がそう言い、興奮している水仙を曹叡から引き剥がす。


 異変は、司馬懿が壺の中の血を曹叡の頭に全て注ぎきった直後に起きた。


 幼子の体がビクビクと激しく痙攣けいれんしたかと思うと、すぐに止んで、その小さな口から黒い煙が朦々もうもうと湧き出し始めたのである。


「凄まじい瘴気しょうきだ。みんな、下がれ。たもとで鼻と口を覆い、あの煙を吸い込むな」


 曹丕が、ひたいの雷神の札を外しながら、鋭い声でそう警告した。


 華佗と玉容は、「叡! 叡!」と泣き叫んで我が子のもとへ駆け寄ろうとする水仙を二人がかりでおさえ、後ろに下がる。


 曹沖も、衰弱している曹丕が立ち上がるのを助け、兄とともに壁際まで逃げた。


 だが、司馬懿だけはなぜか、曹叡の枕元から離れようとしない。壺を足元に放り捨てると、霊剣泰山環たいざんかんを両手で握って、黒い煙を鷹のように鋭い目でじっと凝視みつめている。


「仲達、何をしている。お前も下がれ。その黒煙こそが悪鬼袁煕えんきだ。そんな所にいたら、真っ先に襲われるぞ」


 曹丕がそう呼びかけたが、司馬懿は無言のまま動かない。


 それこそ望むところだ、とこの男は考えていたのだ。


 司馬懿は、袁煕に大いに腹を立てている。さんざんに罵倒し、言ってやりたいことが山ほどあった。だから、悪鬼がその正体を現す瞬間を待っていたのである。


 やがて、寝台周辺に漂っていた煙が、眼窩がんかに瞳を持たぬ大蛇の頭に変化へんげした。漆黒色の逆鱗さかうろこに覆われた胴体も、次第に浮かび上がってくる。劉勲りゅうくんの娘に取り憑いていた黒蛇の何十倍も大きく、司馬懿が以前見かけた小さな緑蛇りょくだから想像を絶する変貌を遂げていた。


 いまは陽の気が満ちた朝の時間帯。凄まじい力を持った悪鬼といえど、祟っていた人間の体から追い出されてしまえば、あの悪鬼馬超のごとく弱体化するはずなのだが、ほとんど神に近い霊力を手に入れた袁煕は、巨大な黒蛇として実体化できたのである。


「ようやく姿を現したな、この臆病者め! さあ来い! お前のような大馬鹿野郎は俺が退治してやる!」


 司馬懿が泰山環の切っ先を突きつけながらそう怒鳴ると、巨大な悪蛇あくだは、人間を簡単に丸呑みできるほどの大口を開けて、



「我は名門袁氏の公子、袁煕なりぃぃぃ‼ 無礼な物言いをするな、このれ者がぁぁぁ‼」



 地獄の底から噴き出してくるような凄惨せいさんな蛮声を響かせた。


 気弱で心優しく、妻を愛しんでいた生前の袁煕の面影は完全に失われてしまっている。変わり果てた前夫の恐ろしい姿に衝撃を受けた水仙は、わなわなと唇を震わせて涙し、その場にくずおれた。


「フン! 本当のことを言って何が悪い! 痴れ者は貴様のほうだ、大阿呆め!」


「おのれぇぇぇ……。絶対に許さぁぁぁん‼」


「許せぬのなら、どうするというのだ! お前のような臆病者に、この司馬仲達を丸呑みにして胃袋でぐちゃぐちゃに溶かすような真似はできはしまい! 悔しかったら、やってみせろ!」


 挑発大好きな曹丕にならい、司馬懿は全力で煽る煽る。


 まんまと挑発に乗った大蛇は、グワァァァと大きな口を限界まで開き、襲いかかってきた。


 袁煕がそう来るだろうと読んでいた司馬懿は、泰山環を前方に突き出すように構え、大胆にも大蛇の咥内こうないに飛び込んだ。


「仲達! 何をするつもりだ!」


 日頃から司馬懿の度肝を抜いてばかりいる曹丕が、今回ばかりはこの突飛すぎる行動に逆に驚かされ、そう叫んでいた。


 大蛇は、司馬懿をくわえたままの状態で天井を突き破り、龍のごとく空へと舞い上がっていく。


賈詘かくつの血の臭いが充満している空間を嫌い、外へ逃げたか! 仲達の奴……いつもは悪鬼や精魅もののけにビビってばかりいるくせに、どうしてあんな命知らずなことを」


子桓しかん(曹丕のあざな)兄上のために決まっているじゃないですか。司馬懿殿は、兄上を救うためにずっと必死で戦っていました。とても良い友達を持って、兄上は果報者かほうものですよ」


 曹沖にそう教えられると、曹丕は「友……か」と呟く。


 そして、曹沖が念のために持って来て、壁に立て掛けていた二振りの短戟たんげき――曹丕の得意な武器である――を手に取り、「華爺さん。頼みがある」と言った。


「ほんの短時間でいい。衰弱した人間が活力を取り戻し、大暴れできる経穴があったら、いますぐ俺におして欲しい」


「子桓殿……。お前さん、その体で大蛇と戦うつもりなのか。下手をしたら死ぬぞ」


「構わん。勝手な行動を取ったあいつに懲罰を与えてやらねば、気が済まんのだ。そのためには、あの阿呆――仲達を死なせるわけにはいかん。あいつを助けることができるのなら、この体がバラバラになってもいい。……さあ早く! 急ぐんだ!」




            *   *   *




 大蛇は、華佗邸の屋根を破壊して外へ出ると、天空で苦しげに身悶みもだえを始めた。


 庭園にいた騎兵隊の数人が空を指差し、


夏侯淵かこうえん将軍! 空に黒龍が現れました!」


「いや、あれは蛇です! 巨大な黒蛇がいます!」


「へ……蛇神でしょうか⁉」


 と、口々に言った。


 邪神軍の最後の兵士を剣の連撃でほふったところだった夏侯淵は、上空に浮かぶ化け物を凝眺ぎょうちょうして「あの禍々まがまがしい姿……神なものか」と呟いた。



 ――その通り。袁煕は、神である余が手を貸してやったというのに、無様ぶざまにもしくじったのさ。蛇の神に成り損ねたのだ。王の気をたらふく喰らい、あともうちょっとで神格を得るところだったというのに……。こけおどしで期待外れだった父袁紹にそっくり、本当に馬鹿な男だよねぇぇぇ。



 残忍で陰湿な声が、夏侯淵の脳内に響く。


 この声は度朔君どさくくん――と思った次の瞬間、あたりに深い霧がたちこめだした。


 すぐ近くの仲間の顔すら識別できない濃霧に、夏侯淵隊の兵士たちが「て……敵方の妖術か⁉」と動揺する。


「者共、狼狽うろたえるでない!」


 夏侯淵は部下を叱り飛ばすと、素早く周囲を回視かいしして「費長房ひちょうぼうよ!」とそばにいる方士を呼ばわった。


「池のそばに、白く光る人影が見える! あれが度朔君だ! 奴めがけて突風を巻き起こしてやれ!」


「えっ? あ、ちょ、ちょっと待ってくださいね。…………そぉぉぉーーーいッ‼ 風よ、来いこーーーいッ‼」


 神兵から奪い返した衣服を着ようとしている最中だった費長房は、慌てて袴をはくと、例のコマネチポーズを取った。


 周囲の味方を吹き飛ばさないように威力をやや抑えめにしたが、費長房が起こした凄まじい風は、度朔君の口から吐き出されていた霧を瞬く間に消し去っていく。それと同時に、濃い霧のベールに隠されていた邪神の姿も露わになった。


 その姿はまさに異形――と言いたいところだが、意外なことに、それほど妖怪変化ようかいへんげじみてはいない。一見すると、儒衣をまとったただの学者のようである。ただ、よく見たら、異様に上半身が長く、下半身が短かった。背筋を伸ばせば身の丈九尺(約二一六センチ)はあるようだが、背中が曲がっているため、巨躯きょくであるという印象は感じられない。


 やや常人離れした不均衡な体ではあるが、邪神と呼ばれるにふさわしい醜怪しゅうかい極まる外見ではなかった。しかし、どこかに違和感がある。言い知れぬ不安を掻き立てさせる強い違和感が……。


 その違和感の正体は、夏侯淵には分からない。その理由は恐らく、度朔君が完全には外貌を見せていないからだ。邪神は、着物の袖で、己の顔を覆っていたのである。



「……フン。化けの皮を剥がされたくせに、この期に及んで顔を隠すとは。往生際の悪い邪神め。よほど他人に見せられぬ醜いつらなのか。さっさとその顔をさらせ」


「…………」


 度朔君は、ぼそぼそと肉声で何か呟いたようだ。「やれやれ、ここまでか」といった落胆の言葉だったようだが、声音は妙に楽しそうに聞こえた。



 ――ここにいる理由が無くなったから、もう帰るよ。久しぶりに美味しい食事ができると思っていたのに残念だ。神になりそこねた悪蛇なんかを食べても不味いだけだからねぇぇぇ。……また遊びに来るよ。曹操によろしく伝えておいてくれ。お前は天下万民の幸福のために必ず殺すとね。



 邪神は夏侯淵にテレパシーでそう伝えると、忽然こつぜんと姿を消したのであった。




            *   *   *




 一方、空の上の大蛇は、グオォォォォォォと荒れ狂うようにうなりながら苦悶し続けていた。


 苦痛の原因は、大量に浴びた賈詘の血だけではない。丸呑みしたとばかり思っていた司馬懿が、いまだに口の中にいて、袁煕の大馬鹿野郎だの臆病者だのと罵詈雑言ばりぞうごんを吐きまくっていたのである。


「ぐ、グギギギギ……。悪あがきせずに、さっさと呑み込まれてしまえ‼ 我が胃の中で溶けろぉぉぉ‼」


「そうはいくものか! こっちには霊剣泰山環があるのだ! 簡単に喰われてはやらんぞ!」


「くそぉぉぉ‼ くそぉぉぉ‼ 口の中が激しく痛むぞぉぉぉ‼ その剣を抜けぇぇぇ‼」


 司馬懿が大蛇の咥内に飛び込んだ刹那せつな、泰山環の剣身は一瞬で伸び、五尺三寸(約一二一センチ)の大剣に変化した。そして、霊剣の光り輝く刃は、蛇の上顎うわあごに深々と突き刺さったのだ。


 自らの意思を持ち、新しい持ち主を嫌って助けようとしないこの霊剣も、所有者の司馬懿が自分を握ったまま悪蛇に呑み込まれそうになったら、さすがにその真価を発揮するに違いない。なにせ、この剣はけがれたものが大っ嫌い。巨大な蛇となった悪鬼の胃の中に入るのは絶対に避けようとするはずだ――そう考えて、司馬懿はわざと大蛇の口中に飛び込んだのであった。


「き、貴様ぁぁぁ‼ 何の怨みがあって、我が復讐の邪魔をするぅぅぅ‼ 私は……私は臆病者でも大馬鹿野郎でもない‼ 曹丕に殺された我が子の仇を討つのだ‼ 曹丕と水仙との間に産まれた曹叡を呪殺じゅさつし、曹丕を絶望させたうえでゆっくりと殺してやるのだぁぁぁぁぁぁ‼」


「片腹痛いわ! 曹丕と真っ先に戦おうとせず、抵抗する力を持たぬ幼子の命を刈ろうとした貴様が、臆病者ではなかったらいったい何なのだ! それに第一、お前はとんでもない勘違いをしているぞ! 曹丕はお前の子供を殺してなどいない! むしろ救ったのだ!」


「救った……だと? 貴様は何を言っている? 度朔君は、曹丕が私と水仙の子を殺したと――」


「邪神などにあざむかれおって! だからお前は大馬鹿野郎だというのだ! いいか、袁煕よ。お前が命を奪おうとしたあの幼子が……曹叡こそが……お前の血を受け継ぐ息子なんだぞ!」


「ば……馬鹿なッ! たわけたことを申すな! そんなデタラメで私を惑わせようとしても無駄だ!」


「戯けたことでも、デタラメでもない! 曹叡は曹操の孫にあらず! 亡き袁紹の孫だ! 曹丕が守ってくれた袁家の血……それをお前は自らの手で絶やそうとしたのだ! これが大馬鹿と言わずして何と言う!」

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