賈詘の血

 夏侯淵かこうえん隊によって庭園内の神兵が殲滅せんめつされると、度朔君どさくくん華佗かだ邸の外に残存していた軍勢を一斉に突入させた。


 正門や裏門からは人型神兵たちが、空からは鷹などの鳥型神兵が、雲霞うんかの如く押し寄せて来る。


「邪神め。なりふり構っていられぬほど焦っているようだ。倉舒そうじょや華佗殿をよほど屋内に入れたくなかったと見える。華佗殿は子桓しかんの息子が病だと言っていたが……度朔君と何か関係があるのやも知れぬな。そういうことなら、なおさらこやつらを屋敷に近づけるわけにはいかん」


 夏侯淵はそう呟くと、「者共ものども! 疾風の如く駆け回り、敵を排除せよ! 屋敷の中に入れてはならぬ!」と下知した。


 夏侯淵隊の勇士たちは、牛のむくろを焼き焦がしている炎を利用して素早く火矢を作り、縦横無尽に駛走しそうしながら神兵を次々と焼き殺していく。矢が尽きた者は、馬上で剣を舞わせて奮戦した。中にはせん(刃から柄までが鉄でてきた、短めの投槍なげやり。形はほこに似ている)を飛ばして鳥型神兵を撃墜する猛者もいた。


 度朔君が仕掛けた総攻撃は、夏侯淵隊の前に何の功も奏さず、いたずらに邪神軍の数を減らす結果となったのである。




 一方、華佗邸の正房せいぼう(表座敷)に突入した司馬懿たちは、曹丕と曹叡がいる部屋を目指す途中で、すでに屋内に侵入していた神兵十数人と遭遇していた。草の兵士たちは、玉容と水仙を取り囲み、二人に白刃を向けている。


「ぎ……玉容!」


 妻が手傷を負っていることに気づき、華佗が狼狽うろたえた声を上げる。カッとなった老医者は、ふところから手術用の刀子ナイフを取り出して神兵らに挑みかかろうとした。


「華佗先生、お下がりください! この夏侯覇かこうはにお任せを!」


 夏侯覇はそう言って華佗を制止すると、素早く前に躍り出て、自慢の矛を遮二無二しゃにむに繰り出す。瞬く間に神兵四、五人を怪力で吹っ飛ばし、壁に叩きつけた。


 短戟たんげきを得物にしている彼の部下五人も勇戦し、その隙に司馬懿らは玉容と水仙を救出することができた。


 しかし、簡単には死なないのが度朔君の神兵たちである。すぐに手足を再生させて立ち上がり、音も無く一斉に襲いかかってきた。


 草花のない場所で回復能力を使ったため、その代償で体が一回り小さくなってはいるが、身のこなしはその分だけ俊敏になっている。夏侯覇麾下きかの戟兵二人が逆襲にあい、武器を取り落としてたおれた。


小癪こしゃくな化け物どもめ!」


 怒った夏侯覇は、矛を横に払って雷光一閃、殺到してきた神兵たちの刃をまとめて弾き返した。そして、敵がひるんだ一瞬を逃さず、生き残っている部下三人とともに突撃し、神兵らを広い部屋から隣の狭い部屋へと押しやった。戦いの場所を窮屈な空間に移すことで、神兵がすばしっこく動け回れなくしたのである。


 まだまだ粗削りな若武者だが、さすがは夏侯淵の息子。一軍を率いる将軍となる才と武を十分に有しているようだ。彼の勇姿を見た司馬懿はそう感心した。



仲権ちゅうけん(夏侯覇のあざな)。私たちは先を急ぎます。貴方は、邪神の兵士がこれ以上屋敷の奥深くへ侵入しないように、ここで防いでください」


「倉舒様の仰せのままに! しばらくの間、化け物どもの遊び相手になってやります!」


 夏侯覇は快活に笑い、曹沖にそう豪語した。狭い部屋では長兵器はふり回しにくいので、矛を捨てて環頭大刀かんとうたちで力戦している。


「では、行こう。華佗先生、部屋へ案内してください」


 曹沖は、戦死した兵士たちが持っていた二振りの短戟を拾って、抱きかかえるように持つと、華佗にそううながした。


「うむ! こっちじゃ!」


 わずか十数秒の間に玉容の腕の傷を応急手当し終えていた華佗は、秘密の扉につながる廊下へと曹沖をいざなう。玉容も夫に従い、息子のことが心配でたまらない水仙もその後に続いた。


 豚の賈詘かくつ兄弟は「見ろ、弟よ! 色気むんむんの美女が二人もいるぞブヒィィィ!」「むほぉぉぉ~! 美少女もいいが、大人の女も大好物だブゥゥゥ!」と目をハートマークにしながら水仙と玉容の尻を追いかけて行く。賈詘兄は弟とは違ってロリには興味を示さなかったが、セクシー美女のことはペロペロしたいらしい。



でんたちはここに残れ。あの夏侯覇という若者を助けるのだ」


「えっ⁉ 坊ちゃま、マジですか⁉ 我々がいてもあんまり役に立たないと思うんですがぁ~……」


 孝敬里こうけいりのおっさんズは思い切り嫌そうな顔をしたが、司馬懿は「いいから残れ! さすがに四人だけでは多勢に無勢だ!」と叱り飛ばした。


 ここから先は、曹丕の秘密の領域だ。彼は、我が子曹叡の姿を誰にも見せたがらない。秘密の共有者以外があの部屋に入ることを曹丕はけっして望まぬはずである。曹沖もそれを分かっているので、夏侯覇にここにとどまるように命じたのに違いない。だから、おっさんズもここに置いていかねば、と司馬懿は考えたのであった。


「私も残ろう。利き腕が負傷していても、左手だけで何とか戦ってみせる。司馬懿よ、お前は早く行くがいい」


 左手に剣を持つ曹真がそう言い、田さん・楽さん・趙さんの尻を蹴って乱戦の中に放り込んだ。


 司馬懿は、「曹真殿。お前……」と呟き、彼を凝視みつめる。


「皆に知られたら困る子桓様の秘密が、あの向こうにはあるのだろ。分かっているさ、己の誠実さが足りないせいで子桓様に信用してもらえていないことぐらい。俺は、あの御方が望まぬことは、絶対にせぬ。子桓様が真実を話してくださる時が来るまで、いつまでだって待つつもりだ。……認めたくはないが、お前はあの御方に誰よりも信頼されている。だから、お前が子桓様をお救いしてくれ。後は頼んだぞ」


 曹真は司馬懿に耳打ちし、少し寂しそうに微笑むと、神兵たちとの戦闘に加わるべく突撃していった。


(……あい分かった。お前の真心は、けっして無駄にはせぬぞ)


 司馬懿は心の中でそう誓い、曹沖たちの後を追うのだった。




            *   *   *




 秘密の扉を通過した曹沖、華佗、司馬懿、水仙、玉容、そして賈詘は、とうとう隠し部屋にたどり着いた。


 室内に足を踏み入れ、曹丕の姿を見た司馬懿は「こ……公子様!」と思わず驚愕きょうがくの声を上げてしまった。


 雷神の札で上半分が隠れている彼の顔面は蒼白である。一晩中、寝台に横たわる曹叡の傍らに座し、精神感応せいしんかんのうの術を行っていたせいだろう。


 驚いたのは、顔色の悪さだけではない。曹丕は、右手に短剣を握り、その刃は鮮血に染まっていたのだ。両腕や左右のももなど、いたるところから血が流れて出ている。


 心の気とやらを消耗しすぎて錯乱さくらんしたのか、と司馬懿は一瞬焦った。


 しかし、背後の気配に気づいて「おう、仲達か」と言った曹丕の声音は、だいぶ弱々しかったもののいつものように落ち着いていて、発狂した人間のそれではなかった。


「案ずるな。狂って自分の体を切り刻んだわけではない。不覚にも意識を何度か失ってしまってな。その間に、叡の心の気をずいぶんと袁煕えんきに喰われてしまったのだ。これ以上食べられたら危険だと思ったゆえ、気絶しないように痛みで己の意識を保っていたのさ」


「公子様……。そこまでして……」


 司馬懿は顔を歪ませ、曹丕に歩み寄ろうとした。


 だが、後ろにいた水仙が司馬懿を押しのけたため、よろめいてしまった。


 彼女は夫を素通りし、寝台の曹叡にすがりつく。


「叡! 叡! 私の坊や! お願いだから、しっかりしてちょうだい! 嗚呼ああ……どうしてこんな……。顕奕けんえき(袁煕の字)様がこんなことをするはずがないのに……なぜ……」


 水仙の肩越しに見ると、曹叡の顔色は曹丕よりも酷い。ほとんど死人のようである。曹丕が気絶している隙に、悪鬼袁煕はそうとうな量のエネルギーを幼子から奪ったようだ。


 子供が心配な気持ちは分かるが夫の身も少しは案じたらどうなのです、と司馬懿はひとこと文句を言ってやりたかったが、そんな内輪揉めをしている余裕はどう見ても無い。これ以上身代わりになり続けたら曹丕が廃人になりかねず、彼が身代わりになることを止めれば曹叡の幼い命はすぐにでも燃え尽きる。そこまで事態は緊迫していた。


「子桓兄上。賈詘殿を連れて来ました。この豚さんの血で、叡くんの頭から悪鬼を追い出しましょう」


「賈詘……千年の古木の精か。なるほどな。煮て食すれば犬の肉と同じ味がするという賈詘が流した血ならば、ほんの少量でも強力な駆鬼除災くきじょさいの力を持っているに相違ない。そこに気づくとは、さすがは沖だ」


 曹丕は、札の下からのぞく形のいい唇に微笑を浮かばせ、異母弟を褒める。

 ひとに弱みを見せたがらない性質たちのため、余裕があるように振る舞っているが、その呼吸はいまにも消え入りそうなほどか細かった。


「仲達もよくやってくれたな」


「話は後です。即刻、この豚から血をとりましょう。華佗先生、よろしくお願いします」


 司馬懿は双頭の豚を持ち上げ、華佗の前に置くと、老医者はウムとうなずきながら刀子をおもむろに振り上げた。そのままズバッと賈詘の体を切り刻むつもりである。


「あっ。華佗先生、ちょっと待ってください。その必要はありません」


 命を取らないという約束を賈詘としていた曹沖が、やや慌てた声で止める。


 刃を振り下ろすぎりぎりで止まった華佗が「必要が無いとは?」と問うた。


「見てください。賈詘兄弟のどちらの鼻からも血がドバドバとあふれ出ています。その血を小さな壺にでも入れて、叡くんの頭にかけてやればいいのです」


「……うげっ、本当じゃ。いまにも昇天しそうな恍惚こうこつとした顔で鼻血を垂らしておるではないか。何なのじゃ、この化け物は。気っ色わるぅ……」


 華佗は嫌悪感に満ちた声でそう呟く。


 このHENTAI豚、美少女の小燕を見て大喜びしていた。そうとうな女好きのようである。きっと水仙と玉容の大人の色気に兄弟そろって興奮し、鼻血ブーしたに違いない。司馬懿はそう察したが、自分の嫁に発情していると知ったら激怒した華佗が暴れ出しそうなので、黙っておくことにした。


「……とにかく、これならわしがわざわざ手を下すまでもないな。仲達殿、そこにある壺を取ってくれ」


「はい」


 司馬懿は、小ぶりな壺に賈詘兄弟の鼻血をたっぷりと入れると、寝台に近づいて曹叡の頭にその真紅の血をゆっくりと注いでいった。


 これで上手くいけば、悪鬼袁煕が賈詘の血の力で苦しみ、曹叡の頭から逃げ出すはずだが――。

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