疾風の夏侯淵

 ――あははははははは。惜しかったねぇ、司馬懿。あともうちょっとで曹丕の所にたどり着けたのに。



 度朔君どさくくんの嘲り笑う声が、司馬懿の脳内に響く。


 火牛の大攻勢は、華佗邸の中庭で止まってしまった。十頭の牛は、神兵十数人を巻き添えにしたうえで焼死した。


 庭内には、なおもおびただしい数の邪神軍がいる。人型の神兵だけでなく、体が草色をした虎や蛇までもが、虎視眈々と司馬懿らに飛びかかる隙をうかがっていた。



 ――安心するがいいよ。さっきも言ったように、曹丕を殺すつもりはないから。曹叡には死んでもらうことになるけど……そのほうが逆に都合がいいはずだよね? あの幼児の存在は、曹丕にとって足枷あしかせにしかならないのだからさぁぁぁ。



 頭に直接伝わる度朔君の不気味な囁きは、毒性の粘液が魂を侵食してくるような強い不快感がある。吐き気を催した司馬懿は、顔を激しく歪めたが、邪神の嘲戯ちょうぎを無視した。


 敵の挑発にいちいち反応している余裕など、いまは無い。中庭の神兵たちは機敏に動いて包囲陣を築き、司馬懿と曹沖たちは退路を断たれてしまっているのだ。



 ――屋敷内に侵入した我が兵が、そろそろ曹丕から雷神の札を奪うはずだ。袁煕えんきが曹叡の心の気を喰らい尽くして蛇神になれば……クックックッ。さあ、神兵たちよ! 余の計画が完遂されるまでの間、人間どもをもてなしてやれ! 雑魚ざこは討ち取ってもいいが、「候補者」の曹沖と司馬懿は殺すでないぞ!



 度朔君がそう号令を下すと、神兵たちは一斉に襲いかかって来た。


 曹真は利き腕を負傷。費長房ひちょうぼうは集団リンチされてダウン中。賈詘かくつは戦闘力皆無の豚。曹沖は賢くても十二歳の子供に過ぎない。

 事ここに至れば、俺が孝敬里こうけいりのおっさんズを率いて戦い、この危機を乗り越えるしか道はあるまい――そう覚悟した司馬懿は、泰山環たいざんかんを振りかざしながら「でん! がく! ちょう! 火矢の準備をしろ!」と叫んだ。


「曹沖様は下がっていてください! 俺が血路を開きます!」


「無理だよ、司馬懿殿。やめるんだ」


「だだだだ大丈夫です! けけけけ剣の腕は平凡でも、かかかか体は人一倍頑丈なので!」


「いや……声が震えてるじゃん。君が連れて来た農夫たちも、すごいへっぴり腰だし」


 戦に出た経験が何度かある趙さんは何とか火矢で応戦できているが、温和な性格の田さんは化け物の大軍に包囲された動揺から矢を外しまくっていた。ビビりの楽さんにいたっては、完全に腰を抜かしてしまい、本日二度目の失禁をしていた。ぜんぜんダメダメだった。


「あ……あっちょんぶりけ……」


「ええい! やはりお前には任せておけん! 私が戦う!」


 曹真はそう言い、迫り来る草の怪異たちと戦い始めた。


 だが、武芸の素人である司馬懿の目から見ても、その剣さばきは精彩を欠いている。


 神兵たちが繰り出す剣や槍に翻弄され、曹真がたおれるのは時間の問題だった。


「く、くそっ。いったいどうしたら……」


「落ち着くんだ、司馬懿殿。絶望するのはまだ早い。そろそろ平旦の刻(午前六時頃)だ。私が呼んだもう一人の援軍――典軍校尉てんぐんこういぎょうに到着し、間も無くここに駆けつけてくれるはずだ」


 動揺する司馬懿に、曹沖が冷静な声でそう励ます。聡明なる美少年の眼差しは、華佗邸の正門に注がれていた。


 援軍といっても……と司馬懿は眉をひそめる。


 火牛たちが一度は突破した南の正門は、神兵たちによって再び封鎖されてしまっているのだ。他の出入り口も、もちろん神兵が塞いでいる。いますぐに援軍が現れたとしても、華佗邸周辺を徘徊はいかいする草の怪異らを撃退し、さらに門を突破してここに駆けつけるまでに、そうとうな時間を要するはずである。


(とてもではないが、それまで俺たちはもちこたえられないだろう)


 司馬懿は悲観的だった。


 しかし、その時、足元にいた賈詘がにわかにブヒブヒと騒ぎ出したのである。


「兄者! たくさんの馬のひづめの音が聞こえるブゥゥゥ! 軍勢が物凄い速さでこっちに迫っているブゥゥゥ!」


「おお! 弟よ! どうやら命拾いしたようだぞブヒィィィ! 援軍が来たんだブヒィィィ!」


「な、なんだって⁉ お前ら、それは本当か――」


 そう言いながら正門を凝視みつめた次の瞬間、とんでもない光景が目に飛び込んできて、司馬懿は絶句した。


 屋敷の外にいた草の兵士たちが、「何か」に吹っ飛ばされて、一陣の烈風に巻き上げられた塵芥ちりあくたのごとく南の空を舞っていたのである。


 天高くまで飛んだ兵士らは、やがてきりもみしながら、正門の内側の前庭に続々と落下していく。墜落した衝撃で、兵士たちの四肢は、バラバラになった。


(いったい何事だ? 父上が、新たな火牛を連れて、応援に駆けつけてくれたのか?)


 司馬懿は一瞬そう考えたが、すぐに違うと分かった。


 正門を守っていた神兵をことごとくはね飛ばし、颯爽と華佗邸内に突入してきたのは、



夏侯かこう



 と、大書した軍旗を掲げる騎馬隊だった。



「か、夏侯だと? まさか――」


「典軍校尉夏侯淵かこうえん、見参ッ!」


 騎馬隊を率いている偉丈夫いじょうぶの将軍は高々にそう名乗るやいなや、強弓を素早く引き絞り、曹真を斬り殺そうとしていた神兵めがけて矢を放った。


 勢い激烈なる一矢いっしは、神兵に命中すると、その草の肉体を再生が不可能なまでに木っ端微塵に粉砕。その後も威力は衰えず、さらに他の人型神兵三、四人の体を粉々にして、わずかにかすっただけの虎型神兵の後ろ足を吹き飛ばした後、庭木に突き刺さった。その衝撃で木がぐらぐらと大きく揺れ、紅く色づいた葉が大量に地面に落ちる。


 司馬懿は呆然として、「あれが……夏侯惇かこうとんと並び称される曹操の宿将、夏侯淵か」と呟いた。


(その武名はよく耳にしていたが、まさかあの馬超に匹敵するほどのビックリ超人だったとは。先ほどの矢は間違いなく、発石車から発射された石弾並みの威力だったぞ……。しかも、部下の兵たちの練度も、恐ろしく高そうだ。無駄のない動きを見ただけで、すぐに分かる)


 夏侯淵に従う兵たちは、防御力の高い筒袖鎧とうしゅがい(筒状の袖がついた鉄の鎧)を着ている。また、彼らが乗る駿馬しゅんめも、薄い鉄の板で作った馬甲ばこう(馬の鎧)をまとっていた。完全武装の重騎兵である。


 大将である夏侯淵は、最新式の鎧、明光鎧めいこうがいで身をかためている。胸部と背中を護心鏡あてがね(金属製のプレート)で守護しているその鎧は、名前の通り、朝日を反射して燦々さんさんと光り輝いていた。


「敵は邪神度朔君だと倉舒そうじょ(曹沖のあざな)の手紙にはあったゆえ、念のため突撃前に鎧を馬に着させておいて正解だったようだな。……者共ものども! 速やかに敵勢を蹴散らし、倉舒たちを救え!」


 夏侯淵が手に持った弓をブンと振って下知するや、騎馬兵は重武装とは思えぬほどの神速で突撃を開始した。


 この曹軍きっての名将は、敵の虚を突く急襲作戦を得意とし、その神がかった進軍の速さは、


 ――典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で千里。


 と、軍中で賛称さんしょうされるほどだった。


 その評判に違わず、夏侯淵麾下きかの勇兵たちは疾風迅雷、度朔君が手勢に守りをかためさせるほんのわずかな時間すら与えない。彼らは鎧馬がいばを巧みに乗りこなし、度朔君の神兵たちを猛然とはね飛ばしていった。


 司馬懿らを包囲していた邪神軍の陣形は、瞬く間にズタズタに突き崩されていたのである。

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