火牛の計

 火牛かぎゅうの計。


 古代中国の戦国時代、せいの名将田単でんたんが千余頭の牛のつの刀刃とうじんをつけ、尻尾にはあしたばを結び付けて燃やし、えん軍に突撃させたことで知られる奇策である。


 日本では、木曽義仲が、角に松明たいまつをつけた牛の群れを平家の陣営に放ち、倶利伽羅峠くりからとうげの戦で大勝したと言い伝えられている。


 この牛さんに優しくない奇抜な戦法、古今東西の武将たちは――史実か創作かという問題は置いておいて――ちょくちょく思いついて実行した。承久の乱では北条朝時が後鳥羽上皇軍を相手に行い、戦国初期には北条早雲が小田原城を奪取する際に火牛を用いたという伝説がある。


 ちなみに、あのカルタゴの名将ハンニバルも、カリクラ峠という場所で火牛の策をローマ軍に使っている(倶利伽羅峠と名前が微妙に似ているのは、たぶんただの偶然)。



 そして、我らが司馬懿も、


 ――草の怪異は火が弱点。ならば、火牛を突っ込ませてやれば、度朔君どさくくんの神兵どもを蹴散らしながら華佗邸に駆け込めるのではないか。


 と、ひらめいたのだった。


 司馬懿邸には、父の司馬防が土産みやげとして連れて来た牛が一頭いる。また、隣近所の屋敷でも、車をひかせるための牛が、一、二頭は飼われているはずである。司馬懿たちは近隣の家々を手分けして訪ね回り、


「朝早くからすまない。おたくの家に、化け物の兵士が現れただろ。あれを退治するためには牛が必要だ。死なせてしまったらちゃんと弁償するゆえ、おたくの牛を貸してくれ」


 そう頼み込んで、牛を十頭調達した。


 多くの屋敷では、家主が従軍中で不在だったが、その家の奥方が(意味不明の要求に困惑しながらも)貸してくれた。曹丕の腹心の曹真や、曹操の愛息を連れている司馬懿に、いなとは言えなかったようである。



「田単は尻尾だけに火をつけたが、今回は角にも松明をつけるぞ」


 司馬懿がそう言い、でんさん・がくさん・ちょうさんの孝敬里こうけいりおっさんズに早急に準備するよう命じると、曹真が眉をひそめて「そんな火力マシマシにして大丈夫なのか」とたずねた。


「燃えるぞ、牛が。邪神の兵を焼き尽くす前に、ほっかほかの牛の丸焼きが十頭分できあがってしまう。やはり、尻尾だけにしたらどうなのだ」


「それでは威力が足りぬ。華佗邸を包囲している数百の敵勢を蹴散らし、一刻も早く公子様をお助けするためには、火力マシマシでいくしかない」


「しかしだな……」


「もう夜は明けた。幽鬼の張繍ちょうしゅう将軍が消える時間だ。ぐずぐず悩んでいる暇は無い。ここから目的地まではわずかな距離……。十頭のうち二、三頭でもいい。華佗先生の屋敷まで走りきってくれれば、後は何とかなるはずだ」


 曹真はなおも何か言いたそうな顔をしていたが、曹沖が「私もその意見に賛成するよ。ここはひとつ、司馬懿殿の奇策に勝負を賭けてみよう。もしかしたら、度朔君の意表を突けるかも知れない」と言ったため、それ以上は反論しなかった。



「坊ちゃま! 松明を牛につけましたぜ! 後は点火するだけです!」


 田さんがそう報告すると、司馬懿はウムとうなずき、「一頭ずつ走らせる。田と楽、趙は、三人一斉に、角と尻尾に火をつけるのだ。点火したらすぐに離れろよ。興奮した牛は危険だからな」とおっさんズに指示した。


よ。わしは家を守るためにここに残るが、田たちは連れて行け。多少は戦力になるはずじゃ」


「はい、父上。春華のこと、よろしくお願いします」


 老父に一礼した司馬懿は、華佗邸の方角を鷹のように鋭い目で睨み、泰山環たいざんかんの刃を天にかざした。そして、精いっぱい威厳のある声を作って「いざ出撃ッ」と叫んだ。


 その生涯で数多あまたの戦を指揮することになる司馬懿だが――出陣の号令を初めて下したのは、まさにこの日の朝であった。敵は、邪神が操る草の兵士数百。味方は、曹沖と曹真、農夫のおっさん三人、ついでに牛十頭と双頭の豚である。



「点火しやす!」孝敬里のおっさんズが松明に火をつけていく。


 牛たちは、自分の頭上と尻尾が燃え始めたことで興奮し、モォォォォォォーーーーーー‼ と朝の静寂を破る鳴き声を上げながら猛然と駆けだした。


 司馬懿は「華佗先生の屋敷まで、そのまま真っ直ぐ行けッ!」と怒鳴りつつ、牛たちを追いかける。曹沖、曹真、賈詘かくつ、孝敬里のおっさんズもその後に続いた。


 怒れる火牛たちの驀進ばくしんは、暴れ川の激流のごとき勢いである。華佗邸への道を封鎖している邪神の軍勢にあっという間に接近し、その背後を襲った。



 ――何か面白そうなことを始めていると思ったら、まさか火牛の計とはねぇ。司馬懿よ、お前はそうとうイカれた奴だなぁぁぁ。



 褒めているのか馬鹿にしているのか。度朔君はテレパシーで司馬懿に話しかけてきた。それと同時に、邪神はしもべの兵士たちをくるりと方向転換させ、たくさんの矢を火牛に射かけさせた。


 が、たかぶる牛たちはアドレナリンドバドバである。矢の脅し程度では、止まるはずがない。ついに、先頭をゆく司馬懿家の牛が、神兵四、五人に猛烈なるファイアー・タックルをお見舞いした。


 草の兵士たちは全身炎上しつつ遠くへ吹っ飛び、華佗邸の正門の少し前に落下。その近辺にいた仲間数人にも火が移り、またたく間に燃え尽きて灰となった。


 間髪を入れず、残りの九頭の火牛たちも突撃。ふところに飛び込まれてしまった度朔君の神兵たちは為す術もなく、次々と火だるまになって空を舞った。そして、落下地点にいた他の兵士たちを巻き込んで燃え果てていった。


 邪神の軍勢によって塞がれていた華佗邸への道は、モーセが海を真っ二つに割ったかのようにさぁーっと開かれていき、司馬懿たちは楽々と進むことができた。



「どうだ、曹真殿! これが発想の勝利というやつだ!」


「しかし……思っていた以上に凄まじい勢いで草の化け物たちが燃えているぞ。少しまずいのではないか? もしも運悪く強風が吹き、火の粉が飛べば、華佗殿の家はたちまち火事になってしまう。周辺の屋敷にまで飛び火したら……」


「あれこれと心配して、見かけによらず神経の細かい奴だなぁ。一か八かの奇策を用いているのだ、多少の危険が伴うのは仕方が無かろう。最悪の事態になれば、費長房ひちょうぼうの雨を降らせる方術で鎮火させればよいではないか」


「あいつが死んでいたらどうするのだ」


「その時はもう、仕様がない。俺とお前が『ちょっと焚き火をしていたら、みんなの家を燃やしちゃいました。ごめんなさい』って卞夫人べんふじんと曹洪将軍に謝るだけだ!」


「首ねられるわ馬鹿!」


「誰が馬鹿だ、馬鹿! やり始めた作戦は止まらんわ! 今は迷わずに突き進め!」


 こんな時でも、司馬懿と曹真は口喧嘩をしている。曹沖は微笑み、「二人は仲がいいねぇ」とからかった。



 いまのところ、奇跡的に一頭も焼肉になっていない。火牛の群れは、正門の付近にかたまっていた槍兵たちを焼殺しょうさつすると、とうとう華佗邸の敷地内に突入した。


 かくして、司馬懿たちは一度も剣をふるうことなく、目的地にたどり着いたのである。


「いっけぇぇぇーーーッ‼ 邪神など恐れるに足りずだぁぁぁーーーッ‼」

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