絶体絶命

 一方、その頃、華佗かだは、許褚きょちょから奪った馬を全速力で走らせ、ぎょう城への帰還を急いでいた。


「もう朝か。曹叡そうえい坊ちゃんはまだ生きているであろうか。頼む、間に合ってくれ」


 夜の闇を払いつつある朝日を睨み、華佗はそう呟く。


 人命を救うことこそ、我が生涯の仕事。何としてでも曹叡を死なせるわけにはいかない。あの幼子の秘密を曹丕と共有し続けることで、災いが自分に降りかかる運命が待っていたとしても……。



「ややっ。あれは騎馬隊か」


 前方より馬煙うまけむりが漠々と立ちのぼるのが見え、華佗はわずかに顔をしかめた。


「……まさか、阿瞞あまん(曹操の幼名)の奴、アホの許褚にわしを迎えにやらせたことを後になって不安に思い、別の武将を差し向けおったか?」


 もしもそうなら、厄介だ。ここで見つかれば、また捕まって曹操の陣営に連行されてしまう。急いで逃げねば――と華佗は馬首をめぐらそうとした。しかし、


「華佗殿! 華佗殿ではないか! こんな朝早く、どこへ診察に行かれる⁉」


 華佗の姿を目敏めざとく発見した騎馬隊の大将に大声で話しかけられると、逃走をピタリと止めた。


 この耳に心地よいイケボ……話しかけられただけで濡れる曹軍武将ランキング十年連続一位(漢王室の宮女たち調べ)のあの将軍ではないか、と気づいたからである。


 目を凝らしてよく見ると、やはりそうだった。

 一度でいいから抱かれたい曹軍武将ランキング十五年連続一位(曹操の側室たち調べ)、お父さんはこの人が良かったランキング五年連続一位(曹操の娘の曹憲そうけん曹節そうせつ曹華そうか三姉妹調べ)、うちの主君チビでかっこよくないからこの将軍の直属兵に配置換えされたいランキング十七年連続一位(曹操の親衛隊調べ)のあの将軍である。


典軍校尉てんぐんこうい! 助けてくれ!」


 義理人情をわきまえているこの将軍なら、事情を深く聞かなくても助けてくれるはずだ。そう思った華佗は、騎馬隊を率いるその勇将に駆け寄った。


「曹叡坊ちゃんを治療するために、大急ぎで鄴城に戻らねばならぬ。じゃが、儂が乗っている馬はそろそろ限界じゃ。貴殿の部隊の駿馬しゅんめを一頭貸して欲しいのだ」


「ならば、共に参ろうぞ。実はこの俺も、鄴城に急行する途中なのだ。『邪神度朔君どさくくんが現れたから助けて欲しい』と、倉舒そうじょ(曹沖のあざな)からの救援要請があってな」


「度朔君じゃと⁉ まさか……悪鬼袁煕えんきと何か関わりがあるのだろうか」


「袁煕? 袁紹の息子がどうかしたのか?」


「い、いや、何でもない。儂にもどうなっているのか分からぬ。とにかく、いまは急ごうぞ。話は後じゃ」


「うむ、そうだな。……おい! 誰か、華佗殿に新しい馬を与えよ!」




            *   *   *




 華佗邸の屋根瓦に、まぶしい朝日が降り注いでいる。完全に太陽がのぼりきってしまった。


 陽の気が強まり、陰の気が衰えていく。半透明になりながらも奮戦を続けていた張繍ちょうしゅうの幽体も、とうとう消える時が来た。


「ぬっ。これ以上は、幽鬼の身で現世に干渉できぬか。……おい、費長房ひちょうぼう! 悪いが、後は任せたぞ!」


「は……はぁぁぁ⁉ こんなわちゃわちゃいる大軍勢をワタクシ一人で防げと⁉ ムリムリムリ! もうちょっといてくださいよ!」


「案ずるな。近くで司馬懿の気配を感じる。どうやら、ぎりぎり間に合ったようだ。すぐに応援が来るゆえ、わずかな時間だけがんばれ」


「わずかな時間ってどれだけ⁉ ねえ、どれだけ⁉」


「それは――あっ、駄目だ。もう消える」


「ちょ……張繍将軍~~~ッ‼」


 幽鬼張繍は、朝の到来とともに、消滅してしまった。


 張繍カムバァァックと費長房が泣き叫んでも、次に彼が姿を現すことができるのは日没後である。


「ほ、ほええ! ほええ! どうすりゃいいんだコレ⁉ 敵さんがうじゃうじゃいすぎて笑いが限界突破しちゃいそう! にょへへへへへ!!!!」


 弱メンタルの費長房は、ついに壊れてしまい、「これ無理だ♪ もう無理だ♪」と阿波踊りに似た謎ダンスを踊りだした。


 日本のお正月の光景――神社へ初詣に来た参拝客の群れを想像してもらいたい。「人がゴミのようだ!」と発狂したくなる、あのひどい混雑ぶりを。ちょうどあんな感じで度朔君の神兵たちは華佗邸に押し寄せ、庭園内はしっちゃかめっちゃかにひしめき合っているのだ。費長房がヤケクソになるのも無理はなかった。



 しかし、戦闘の真っ最中に思考停止するのは、命取りである。


 張繍が消えた途端、神兵十数人が早くも屋敷内に入り込んでしまっていたことに、謎ダンスを踊っていた費長房は気づけなかった。


 彼が隙を突かれて頭を殴られ、バタンキューしてしまった頃には、邸内に侵入した神兵らは玉容ぎょくよう水仙すいせんを襲っていた。



「くっ……! ついにこのような事態に……」


 華佗夫人の玉容は、武術の心得が多少あったため、短剣で辛うじて応戦した。


 しかし、間の悪いことにちょうどその時、眠り薬の効果が切れた水仙が目を覚ましてしまったのである。彼女は、恐ろしい邪神の兵士たちの姿を見ると、曹叡の名を叫びながら隠し部屋に行こうとした。


 それに気づいた玉容は、慌てて水仙の腕をつかみ、「行ってはいけません!」と制止した。


 水仙が秘密の扉を開けて曹叡の元へ走れば、そのすぐ後を神兵たちが追いかけて来て、曹丕と曹叡が戦闘に巻き込まれてしまうことになる。普段の曹丕ならば、こんな化け物の兵士十数人ごとき簡単に一蹴できるだろうが、曹叡の命を救うために危険な術を使っている今はひどく衰弱しているはずである。とてもではないが、彼に戦える余裕は無いだろう。


「費長房殿! 屋敷が大変なのです! 何とかしてください!」


 水仙を引きとめつつ草の怪異たちと戦うなど、武人でも何でもない玉容には荷が重すぎる。すぐに持ちこたえられなくなると思った彼女は、窓辺からそう叫んだ。


 が、費長房は神兵たちに集団リンチされていて、すでに半殺し状態。救援になど来てくれそうにもない。


 絶体絶命。もはやこれまでか――玉容がそう絶望しかけた時。予想外の奇跡が起きた。



「モォォォォォォーーーーーーッ!!!!」



 燃え盛る松明たいまつを頭のつの尻尾しっぽにつけた牛十頭が、華佗邸の敷地内に猛然と駆け込んで来たのである。

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