血路を開け!

「あともう少しで華佗かだ先生の屋敷だ! 急ごう!」


「待て、司馬懿。あれを見ろ。妙な奴らが道を塞いでいるぞ」


 払暁の時が目前に迫る中、司馬懿はぎょう城の高級住宅街を猛然と駆け、自邸の前を通り過ぎようとしていた。しかし、曹真が肩をつかんで制止したため、つんのめりそうになりながら立ち止まった。


「時間が無いのだ。なぜ止める。……って、うわ⁉ なんだ、あいつら‼」


 薄闇にじっと目を凝らすと、軽装の鎧を身にまとった兵士たちが数十歩先にいた。


 彼らは、鎧の擦れる音どころか、足音ひとつ立てていない。不気味なほど静かに行進し、気配というものが一切無かった。夜目が利く曹真に教えられなければ、至近距離ぎりぎりまで存在に気づけなかっただろう。


「華佗邸の方角へ向かっているようだね。張郃ちょうこう将軍が苦戦したという度朔君どさくくんの神兵だろうか」


 曹沖がそう言うと、曹真は「どうやら、そのようです」と言いながら剣を抜き、後ろを振り向いた。


 ほぼ同時に司馬懿も抜剣し、(首を一八〇度回転させて)後方を見る。


 どこから湧いて出たのだろうか。司馬懿たちの背後に、不気味な兵士たち十数人が立っていた。


「か、顔が緑色だと⁉ こいつら、普通の人間ではないぞ!」


「……首を真後ろに曲げられるお前も、普通の人間ではないがな」


 司馬懿と曹真は、そんなやり取りをしつつも、緊張した面持ちで剣を構えた。


 霊剣泰山環たいざんかんは相変わらず無反応だが――光らない理由は、司馬懿にまだ怒っているのか。それとも、邪悪でもいちおうは神の兵士たちなので「穢れていない」という認識なのか――身を守るぐらいの役には立つはずである。


 虚ろな表情の神兵たちは、粛々と前進し、こちらに近づいて来る。恐ろしいほど静かな行軍のくせに、その速度は歴戦の精鋭兵並みである。



 ――曹沖と司馬懿よ。悪いけど、あと数刻ほど邪魔をしないでくれないかなぁ。もう少しで余の食事の準備が整いそうなのだ。お前たちの命は奪わないし、曹丕も殺すつもりはない。我がにえとなるのは、曹叡という子供と、意気地いくじなしの袁煕えんきだけなのだからさぁぁぁ。



 心の奥底にねっとりとした不快感がこびりつくような、いやらしい声が、曹沖と司馬懿の脳内に響いた。これが度朔君の声か、と二人はすぐに察した。


「邪神の言葉に耳を傾けるほど俺は愚かではないわッ!」


 司馬懿はそう怒鳴りつつ、度朔君の神兵が放った剣の一閃を泰山環で受け止める。


 敵の刃をはね返して逆襲するほどの力量は無いため、兵士と睨み合いになったまま動けずにいると、横合いから曹真が助けに入ってくれ、神兵の両腕を斬り落とした。


 どばっと、大量の血を欠損箇所から噴き出し、神兵はよろめき倒れる。


「やった!」


「お前がやったわけではない。調子に乗るな。……ぬっ? 司馬懿、見ろ! 兵士の腕が!」


 曹真が驚愕きょうがくの声を上げ、倒れ伏している神兵を指差す。


 司馬懿が「えっ?」と言いながら見ると、その時にはすでに神兵の腕は再生した後だった。


 兵士――微妙に背丈が小さくなったように見える――は、何事もなかったかのように立ち上がる。どこから出したのか、手には新しい武器のげきを握っていた。


 そんなまさか。たしかに曹真が両腕を斬り落としたのに……。

 そう困惑した司馬懿は、そこらへんに転がっているはずの両腕を探す。


 だが、足元に落ちていたのは、ひとかたまりの枯れ草。


 しかも、自分の顔にかかった返り血が妙に草臭いと思い、拭き取って手のひらを見たところ、それは緑色をしていた。


「み……緑の血⁉ 何なのだ、こいつらは!」


 司馬懿が動揺した声を上げると、双頭の豚の賈詘兄弟も「兄者ぁ~! こいつら気色悪いブゥゥゥ! 逃げようぜブゥゥゥ!」「ま、待て、弟よ。こいつらと似たような気配をあちこちで感じるブヒィィィ。下手に逃げ回っても危険だブヒィィィ」とパニックに陥った。曹沖は、賈詘が逃げ出さないように、尻尾を両手でおさえている。


「こんな化け物ごとき、私ひとりで……!」


 曹真は、若いながらさすがに肝が据わっている。猛勢一挙飛びかかり、神兵たちと烈しく斬り結んだ。


 しかし、どれだけ強烈な一撃を見舞っても、神兵は瞬時に腕や脚を再生し、若干小さくなった体ですぐに反撃してくる。


 この兵士たちの弱点は、戦の熟練者である張繍ちょうしゅうが見破ったように、草地以外の戦闘では再生能力に限界があることである。

 だから、張繍のごとく猛捷もうしょうなる剣さばきで何度も微塵みじん斬りにしてやれば、神兵の回復力はやがて尽きる。


 だが、あまりにも唐突に襲われたせいで、敏慧びんけいな頭脳を持つ曹沖少年ですら、今のところその弱点を看破できずにいた。戦の経験をまだ積んでいないため、無理もないことである。


 一方、曹真の知力は曹沖の足元に及ばず、剣の腕は張繍のような極みの境地にいまだ達していない。不気味な兵士たちの攻略法など思いつけるはずがなく、その再生能力を凌駕りょうがする連撃も繰り出せなかった。大いに苦戦を強いられ、


(くそっ。子桓しかん様を助けに行かねばならないのに……。これではらちが明かんぞ)


 と、彼の焦りは募るばかりだった。


 曹真の劣勢を見た司馬懿は、(あいつ一人では、すぐに押し切られるな。狼狽うろたえている場合ではない。俺も戦わねば)と思い、


「曹真殿! か……加勢するぞ!」


 心の動揺を何とか鎮めつつ、曹真に駆け寄ろうとした。


 だが、曹真は「下がっていろ! 馬鹿!」と怒鳴った。


「なんで馬鹿だよ!」


「お前に加勢されても邪魔になるだけ――ぬわっ⁉」


 ほんの一瞬、司馬懿に気を取られたことが、曹真の隙となった。


 神兵が繰り出してきた槍を避け損ね、鋭い一突きを右腕に受けたのである。曹真は激痛に顔を歪ませ、不覚にも剣を取り落としてしまった。


 さらに、間髪を入れず、別の神兵二人が大剣を振り上げながら肉薄してくる。


「しまった……」とうめき声を上げ、曹真は死を覚悟した。


 だが、次の瞬間、



「それ! 放て、放て!」



 頭上から、威風凛々たる鋭声とごえ


 夜明け前の薄闇に、三本の火矢が流星のようにひらき、曹真を取り囲んでいた三人の神兵に命中した。


 火矢を浴びた神兵たちの体は、驚くほど勢いよく燃え、またたく間に全身が炎に包まれる。司馬懿たちが呆然としている間に、三人の神兵は人体のかたちを保っていられなくなり、あっ気なく消滅した。後に残ったのは、煙と灰だけである。



「まさか、この声は――」と呟きながら司馬懿が自邸の塀の上を見ると、そこには、トム・クルーズ似のイケオジと、弓矢を構えている中年の男三人がいた。父の司馬防しばぼうが、でんさん・がくさん・ちょうさんら孝敬里こうけいりのおっさんズを指揮し、加勢してくれたのだ。


「ち、父上!」


よ。こやつらは草の化け物、弱点は火じゃ。火計で応戦せよ。……そぉれ、もう一発お見舞いしてやれッ!」


 司馬防が号令すると、孝敬里のおっさんズは「あいあいさー!」と叫びながら火矢を再び放ち、次々と草の兵士たちをたおしていく。


 十数人の神兵は、ものの数分で全滅したのであった。




            *   *   *




「父上、お陰で助かりました」


「巻き込まれ体質のお前のことだ。どうせまた、この怪異騒動もお前が関わっているのだろうと思っていたが、大当たりだったのぉ。しかも、頭が二つある豚の化け物まで連れておるとは……」


 司馬防は、薄気味悪そうな表情で賈詘をじろじろと凝視みつめている。ビビりの楽さんは、主人の司馬防の背中に隠れながらガタガタと震え、失禁していた。


「それにしても、度朔君め……。まさか草を兵士にするとは。父上は、奴らの正体と弱点がよく分かりましたね」


わしの手柄ではない。早起きして朝食の準備をしていた春華しゅんかがな、屋敷の中に迷い込んできた不審な兵士と台所で遭遇して、ちょうど火をおこしたところだったかまどの中にその兵士の頭を突っ込ませたのじゃ。そうしたら、兵士の体は先ほどのようにあっという間に燃え尽き、後に残ったのは焼け草の灰だった……というわけじゃ。

 で、後でそのことを春華から報告されて、黄巾の乱が起きた年に各地で現れた草の怪異のことを思い出したのよ。若い奴らは知らんだろうが、当時は大騒ぎだったのじゃ」


「なるほど、そうでしたか。しかし、それにしても……。いくら不審人物が入って来たからって、いきなり竈の火で燃やすとはなんて乱暴な。うちの嫁、やっぱりヤバイのでは?」


「うむ……まあの。一緒にいた下女もドン引きしておったわ」



 司馬防がさらに語った話によれば――不審な兵士を焼き殺した後、春華はまだ仲間がいるはずだと思い、剣を片手に庭へ飛び出した。すると、彼女は、庭内の草花がにょきにょきと気色の悪い動きで凝り集まり、見る見るうちに兵士に化けていく瞬間を目撃したという。


 わけのわからない曲者くせものの出現に激怒した春華は、草の兵士たちとチャンチャンバラバラ。斬っても肉体がすぐ再生することに気づくと、一人ずつ台所へ巧みに誘い込んで竈の中に放り込み、焼殺しょうさつしていった。二十人ほどいた草の兵士のうち半分の十人は、春華によって燃やされ、残りは逃げたとのことである。



「春華ちゃん……。妊婦なのに無茶しすぎやろ……」


「若奥様が次々と化け物の兵士を焼き殺す光景を見た下女が、恐怖のあまり大泣きしての。その声で儂は起きたのじゃ。それで、春華に寝室で安静にしているように命じた後、呑気にまだ寝ておった田たちを叩き起こして、隣近所の様子を見て来るように命じたのだ」


 田さん、楽さん、趙さんが走り回って探ったところ、近辺の多くの屋敷で草の兵士が出没、その全てが華佗邸めざして行進していることが分かった。



「草があるかぎり肉体が再生する兵士か……」


 司馬父子の会話を聞いていた曹沖がそう呟きながら、険しい顔をする。


「張郃将軍は二年前に度朔君の手勢と草原地帯で戦ったが……その軍勢は数万に及んだらしい。自然の少ない城邑まちの中でそこまでの大軍は作れないにしても、こいつはなかなか厄介な敵のようだね。草が無い場所だったら、その再生能力にも限りがあるはずだろうけど」


「とにかく、どの道筋を行けば、草の兵士との会敵かいてきが少なく済むか調べねば。私が周辺の様子を見てみます」


 曹真は曹沖にそう言うと、軽功術(身を軽くする気功術)でふわりと跳び、司馬懿邸の屋根の上に着地、四望を見渡した。


「どうです、子丹したん(曹真のあざな)殿。華佗邸の周辺は、度朔君の神兵であふれていますか?」


「……はい。四方を完全に包囲されています。これでは、ありの這い出る隙もありません。しかも、周囲の家々から生まれたらしき草の兵士どもが、いまもなお華佗邸に続々と集結して、包囲網はさらに強化されつつあります」


「他に何か分かることは?」


「そうですね……。見たところ、主人が留守中の家の門から、たくさんの兵士どもが出て来ているようです。恐らく、家主が主公との(曹操)の遠征に従軍している屋敷を中心に、草の兵士を調達しているのかと。逆に言えば、司空府や曹洪将軍の屋敷、遠征に従軍していない武将の邸宅周辺には、草の兵士の姿がまったくありません」


「ふーむ……なるほど。度朔君は、噂以上に怜悧れいり狡猾こうかつな邪神のようだね」


 曹沖は、腕組みしながら、厳しい表情でそう呟いた。


 曹操の屋敷兼政庁や、留守居役の曹洪邸で草の兵士が騒ぎを起こせば、卞夫人べんふじんと曹洪が城兵を総動員して城内の怪異を鎮圧しようとするだろう。また、屋敷に家主――曹軍の優秀な武将たち――がいる庭で、草の兵士を生みだしても、家主である武将が迅速に対応してその場で退治しかねない。だから、女子供や使用人しかいない家を狙ったのだ。


 自分が有利になるように狡賢く立ち回り、陰湿な策を巡らせる度朔君は、想像以上に奸智に長けている。これは、怪異退治の専門家である曹丕でも、手に負いかねる敵かも知れない……。



「問題は、いかにして草の兵士たちの重囲を突破し、華佗邸に駆け込むかだ。火が弱点だということが分かったのはいいが、敵勢は数百人もいる。鄴城の武器庫まで行って大量の火矢を準備する時間の余裕なんてないし、射手いての人数も足りない。何か良い方法は無いだろうか」


 曹沖がそう言いながら考えを巡らせていると、屋根から着地したところだった曹真が「私にお任せください」と言った。


「綺麗に整備されている鄴城の大路や小路は、草がほとんど生えていません。草地以外では神兵どもの肉体の再生に限界があるのなら……きっとやりようがあるはず。私がひたすら斬り刻み、血路を開いてみせます」


「無茶を言うな、曹真殿。お前、利き腕を負傷しているではないか。それでは全力で剣をふるえまい」


「無茶ではない。平気だ。さっき、屋根を飛んだりおりたりするのを見ただろ。必ずや華佗邸への道を切り開いてみせる」


「平気だと言っておきながら、ひたいに汗がにじんでおるではないか。屋根から飛びおりた時、どうせ右腕が痛んだのだろう。公子様をお救いしたいと焦る気持ちは分かるが、無謀な策で自滅の道を突き進むのは匹夫ひっぷの勇だぞ」


「何? 私が匹夫だと……? 自分は何の策も無いくせに、偉そうな口を利きおって! そこへ直れ、司馬懿! この場で叩き斬ってやる!」


 激昂した曹真は、剣の柄に手を伸ばしかけた。


 しかし、神兵に傷つけられた右腕がズキリと痛み、「うっ……」と苦悶の表情を浮かべながらその手を途中で止めた。


「ほら、見ろ。言わんこっちゃない」


「ぐ……ぐぬぬぅぅぅ……」


「だが、お前の言う通り、何の策も出さずに偉そうな口を利くのは無責任極まりないな。それで……だ。ちょっと思いついたことがあるのだが、俺の秘策に賭けてみる気はあるか?」


「お前の秘策……だと?」


 こんなアホが秘策など考えつくのか、と疑わしげに曹真は司馬懿を睨む。


 一方、曹沖は目を光らせ、「面白いね。ぜひ聞かせてくれ。どんな策だい?」と訊いた。


「まず、牛を何頭か調達せねばなりません。昔、斉の名将田単でんたんが用いた奇策を真似するのです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る