度朔君の神兵

 少しだけ時間をさかのぼる。


 司馬懿が曹沖との邂逅かいこうを果たしていた頃、華佗かだ邸では異変が起きようとしていた。



「公子様。今のところ、屋敷の周辺は静かなようです」


 華佗の妻、玉容ぎょくようが部屋に入って来てそう報告すると、曹丕は寝台に横たわる息子から視線を外さぬまま、「そろそろ度朔君どさくくんが何か仕掛けて来るはずだ。費長房ひちょうぼうに油断をするなと伝えよ」と言った。


 曹叡は、脳内に侵入した悪鬼袁煕えんきに心のエネルギーを喰われ、一時は瀕死の状態だった。曹丕が精神感応せいしんかんのうの術で曹叡に気を送り続けたことによって、いまは何とか小康を得てはいる。


 しかし、それは、曹叡の身代わりとなって、自分の気を袁煕に喰われているということである。曹丕の負担は尋常ではない。形の整ったあごからは大粒の汗が滴り落ち、膝はぐっしょりと濡れていた。実はさっきから、意識が遠のきそうになるのを必死に耐えているのだ。


「公子様……少し休憩なされたらいかがですか。その雷神の札とやらをひたいにつければ、誰でも術を使えるのですよね。公子様が休まれている間、私が曹叡様に気を送ります」


 心配した玉容が、手拭いで曹丕の顔をふきながらそう提案する。


 しかし、曹丕は静かに首を振った。


「俺のことは気にするな。それよりも、費長房に俺の言葉を伝えたら、ここにはもう来なくてもいい。事が済むまで、水仙のそばにいてやってくれ。薬の効果が切れて目が覚めれば、また騒ぎ出すかも知れない。ここに来られたら邪魔になる」


「……承知しました」


 玉容はそう言い、腰を浮かしかけた。


 庭から「ほえええ~~~⁉」という悲鳴が聞こえてきたのは、ちょうどその時のことである。


「さっきのは……」


「費長房の声だな。度朔君の襲撃が始まったらしい。となると、もう庭に出るのは危険だ。費長房の元へは行かず、急いで水仙のところへ戻れ。妻をよろしく頼んだぞ」


「は、はい。しかし……費長房殿は大丈夫なのでしょうか。あの情けない悲鳴、瞬殺されそうな雰囲気なのですが……」


「何だかんだで、あいつはしぶとい。あと一歩で上仙になれたほどの実力があるのだから、邪神相手でもそんな簡単にはやられないはずだ。……さあ、早く。建物から一歩も外に出るなよ」


「は……ははっ」


 玉容は、曹丕の命令に従い、水仙が眠っている別室へと戻って行く。


 室内は、再び父子ふたりきりとなった。


 曹丕は、玉容が置いて行った手拭いで、曹叡の首筋の汗を綺麗にぬぐってやった。


「叡よ、安心しろ。父が必ず救ってやる。……俺は、曹孟徳とは違う。我が子を見捨てたりはせん。絶対にな」




            *   *   *




 中庭では、費長房が何十人とも知れぬ兵士たちに取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けていた。顔は腫れ上がり、全身はあざだらけである。


 この兵たち、何の前触れもなく、地面から湧いて出た。そう表現するより他にないほど、突然の出現だった。


 数分ほど前のことである。

 何事も起きず、だんだん暇になってきていた費長房は、何気なく星空を見上げていた。そのわずか数秒の間に、鎧姿の男たちが出現し、音も無く襲いかかって来たのである。


「ほえええ~~~⁉」と悲鳴を上げつつも、費長房はとっさの判断で浮遊の術を使い、空に逃げた。


 浮遊の術といっても、それほど高くは飛べないが、地上の敵は飛び道具でもないかぎりは手出しができない。これでひとまずは安心だ、と空中に浮いている費長房はホッとため息をついた。


 だが、驚いたことに、一人の兵士が巨大なわしに姿を変え、大きな翼を広げてんだのである。巨大鷲は、飛矢のごときはやさで、費長房めがけて真っ直ぐ突進してきた。


「はえええ⁉ そんな馬鹿な⁉」


 そう驚呼きょうこした直後には、鷲の猛烈な体当たりを喰らっていた。費長房はあっけなく落下し、地面に叩きつけられた。


 全身を強打した痛みで息ができず、しばらく動けそうにない。こうなると、兵士たちの暴行の嵐になすがままであった。


(こ……これが噂の度朔君の神兵かぁ~! ゆ、油断したぁ~!)


 度朔君の軍勢と戦った張郃ちょうこうが、曹操にこう報告したという。邪神の兵たちは予兆もなく眼前にいきなり現れ、雄叫びのひとつもあげずに無言で攻撃してくる不気味な奴らだった――と。


 費長房を袋叩きにしている兵士たちも、いっさい口を利かず、死んだ魚のように目がうつろである。そして、全員の肌が青白い……というよりは緑色をしている。からだ全体には赤、だいだい、青、黄、紫、白など様々な色の斑点があった。


 さらに、兵士たちの中には、狼や大蛇などに変化へんげして、鋭い爪や牙で襲いかかって来るものもあった。


 時間が経つと、費長房は何とか体が動けるようになっていたが、凄まじい猛攻に身を起こしている余裕すら無い。致命傷を負わされないように、ゴロゴロと横転しながら逃げ続けていた。


(どう考えても、この兵たちは人間ではないぞ。だが、生命の気配は感じる。感情もあるみたいだ。心の気を……深い悲しみの色を帯びた気を、さっきから発し続けている。これはもしや――)


 費長房には心当たりがあった。神兵の正体がもしも自分の予想通りであれば、勝算が無いわけではない。


 よし、やってみるか。ようやく戦意に火がついた費長房は、転げ回って神兵たちの猛攻を何とか回避しながら、隠し持っていた飛刀(投げナイフ)を投擲とうてきした。


 刃は勢い鋭く飛び、正面にいた兵士の腕を切り裂く。

 赤い血は出ず、代わりに噴き出たのは、緑色の汁だった。


 草の匂い――と費長房が思った直後、兵士の腕がもろくも崩壊、飛び散った大量の肉片は枯れた草花に変わり、兵士の足元に音も無く落ちた。


 しかし、驚くべき光景は、それで終わりではなかった。腕を欠損した兵士の双眼が妖しく輝くと、周辺にあった秋草や花々が根っこごと吸い上げられ、腕はたちまち再生してしまったのだ。緑色の肌に浮き出ている多彩な色の斑点は、どうやら花びらが正体だったようである。


(思った通りだ。こいつらは、草で造られた人間。度朔君が、華佗邸の草花を兵士にして操っているんだ。

 ……ここの草花のほとんどは薬草。華佗殿が心を込めて大切に育ててきた。人を生かすための薬となるはずだったのだ。それなのに、よりにもよって人を殺す兵士にされてしまった。そのことが辛くて、こいつらは悲しみの気を発しているのだな)


 倒すのは不憫ふびんだし、華佗に対して申し訳ない。しかし、やらねばこちらがやられる。


 費長房は「相手が草の怪異だと分かれば、戦いようがある。燃やしてしまえばいいのだッ」と叫ぶや、念力サイコキネシスを駆使して、まだ隠し持っていた飛刀十数本を四方へほぼ同時に飛ばした。二流方士の大福も念力を得意としていたが、費長房のほうがよりコントロールが正確で、物を飛ばすスピードも速い。


 闇を切り裂く飛刀たちの乱舞に、神兵たちはほんの一瞬、ひるんだ。


 その隙を逃さず勢いよく立ち上がると、費長房はふところから護符を取り出し、


「火神祝融しゅくゆう! 我が元に来たりて敵に炎の矢を降らせ!」


 と、天を仰ぎながら火の神にそう呼びかけた。


 その数秒後、星空から降ってきた無数の火矢が神兵たちに襲いかかった。そして、またたくままに彼らを焼き尽くし――。



 という展開を費長房は期待したのだが、どういうわけか火矢は降って来ない。その代りに、華佗邸の上空を暗雲が覆い始めた。


 おやっと首を傾げているうちに、凄まじい暴雨となって、費長房と神兵たちをびしょびしょに濡らした。


「へ? な、なんで? どゆこと? 炎の矢は? おお~い、祝融さぁ~ん。…………あっ、やっべ、間違えた。これ、水神の東海君とうかいくんを呼び出すための護符じゃん。や……やめやめ! 雨やめーーーい!」


 草に水。これはまずい。


 そう思った次の瞬間には、嫌な予感は的中していた。


 大量の雨を浴びた草の兵士たちは見る見るうちに成長し、全員が関羽並みの身長(二メートル越え)になってしまっていたのである。



 ――うっふっふっ。お馬鹿な方士だねぇ~。余の神兵を強化してくれて感謝するよ。



 嘲笑う声が、費長房の脳に伝わる。


 ぞくぞくと背筋が怖気おぞけ立つほどいやらしいこの声、さては度朔君か――と費長房は察した。どこかに身を潜めながら草の兵士たちを操っているのだろう。


「さ……さっきのはちょっとした冗談だ。次こそは邪神の兵どもを炎で一掃してやる。……火神祝融! 我が元に来たりて敵に炎の矢を降らせ!」


 費長房は、二枚目の護符を取り出し、夜天に向かってそう吠えた。


 だが、その直後、護符に記された文字を見たおっちょこちょい方士は「あっ! またまつがえた! これ、葛陂君かつぱくんを召喚するやつだ!」と叫んでいた。


 葛陂君とは、湖沼に棲む鬼神の名である。この神にも雨を降らせる力がある。ということは――。


「ひょえぇぇぇーーーッ‼ また大雨が降ってきたぁぁぁーーーッ‼ おいコラ、ワタクシは火の神を呼んでるんだから、わざわざ来るなってば‼ 護符とは違う名前叫んでるの分かるでしょぉ~~~⁉」


 間違った自分が悪いのに、費長房は黒雲を睨みながら鬼神を責めた。


 葛陂君は八つ当たりされて立腹したのだろう。天を覆っていた雨雲はさっさと消滅してしまった。



 ――……あ~あ。二度もやらかすなんて。さっすがはお馬鹿の費長房。お前のマヌケぶりを見るのにも飽きてきたよ。もういいや。草の巨人たちに踏み潰されて死ねば?



 邪神度朔君も呆れてしまっているらしい。ややうんざりとした心の声が費長房の脳に響いてきた。


「巨人に踏み潰され……って。あ……あはは。そうなりますよねー」


 夜空を見上げていたアホ方士は、恐るおそる視線を前方に落とす。


 果たせるかな、費長房は身の丈十三尺(ほぼ三メートル)の巨人と化した神兵たちに完全包囲されていた。その巨人兵たちは、足元の草花を吸収して生成した剣や槍、弓矢を手に持つと、一斉に襲いかかって来た。

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