度朔君の神兵
少しだけ時間を
司馬懿が曹沖との
「公子様。今のところ、屋敷の周辺は静かなようです」
華佗の妻、
曹叡は、脳内に侵入した悪鬼
しかし、それは、曹叡の身代わりとなって、自分の気を袁煕に喰われているということである。曹丕の負担は尋常ではない。形の整った
「公子様……少し休憩なされたらいかがですか。その雷神の札とやらを
心配した玉容が、手拭いで曹丕の顔をふきながらそう提案する。
しかし、曹丕は静かに首を振った。
「俺のことは気にするな。それよりも、費長房に俺の言葉を伝えたら、ここにはもう来なくてもいい。事が済むまで、水仙のそばにいてやってくれ。薬の効果が切れて目が覚めれば、また騒ぎ出すかも知れない。ここに来られたら邪魔になる」
「……承知しました」
玉容はそう言い、腰を浮かしかけた。
庭から「ほえええ~~~⁉」という悲鳴が聞こえてきたのは、ちょうどその時のことである。
「さっきのは……」
「費長房の声だな。度朔君の襲撃が始まったらしい。となると、もう庭に出るのは危険だ。費長房の元へは行かず、急いで水仙のところへ戻れ。妻をよろしく頼んだぞ」
「は、はい。しかし……費長房殿は大丈夫なのでしょうか。あの情けない悲鳴、瞬殺されそうな雰囲気なのですが……」
「何だかんだで、あいつはしぶとい。あと一歩で上仙になれたほどの実力があるのだから、邪神相手でもそんな簡単にはやられないはずだ。……さあ、早く。建物から一歩も外に出るなよ」
「は……ははっ」
玉容は、曹丕の命令に従い、水仙が眠っている別室へと戻って行く。
室内は、再び父子ふたりきりとなった。
曹丕は、玉容が置いて行った手拭いで、曹叡の首筋の汗を綺麗にぬぐってやった。
「叡よ、安心しろ。父が必ず救ってやる。……俺は、曹孟徳とは違う。我が子を見捨てたりはせん。絶対にな」
* * *
中庭では、費長房が何十人とも知れぬ兵士たちに取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けていた。顔は腫れ上がり、全身は
この兵たち、何の前触れもなく、地面から湧いて出た。そう表現するより他にないほど、突然の出現だった。
数分ほど前のことである。
何事も起きず、だんだん暇になってきていた費長房は、何気なく星空を見上げていた。そのわずか数秒の間に、鎧姿の男たちが出現し、音も無く襲いかかって来たのである。
「ほえええ~~~⁉」と悲鳴を上げつつも、費長房はとっさの判断で浮遊の術を使い、空に逃げた。
浮遊の術といっても、それほど高くは飛べないが、地上の敵は飛び道具でもないかぎりは手出しができない。これでひとまずは安心だ、と空中に浮いている費長房はホッとため息をついた。
だが、驚いたことに、一人の兵士が巨大な
「はえええ⁉ そんな馬鹿な⁉」
そう
全身を強打した痛みで息ができず、しばらく動けそうにない。こうなると、兵士たちの暴行の嵐になすがままであった。
(こ……これが噂の度朔君の神兵かぁ~! ゆ、油断したぁ~!)
度朔君の軍勢と戦った
費長房を袋叩きにしている兵士たちも、いっさい口を利かず、死んだ魚のように目が
さらに、兵士たちの中には、狼や大蛇などに
時間が経つと、費長房は何とか体が動けるようになっていたが、凄まじい猛攻に身を起こしている余裕すら無い。致命傷を負わされないように、ゴロゴロと横転しながら逃げ続けていた。
(どう考えても、この兵たちは人間ではないぞ。だが、生命の気配は感じる。感情もあるみたいだ。心の気を……深い悲しみの色を帯びた気を、さっきから発し続けている。これはもしや――)
費長房には心当たりがあった。神兵の正体がもしも自分の予想通りであれば、勝算が無いわけではない。
よし、やってみるか。ようやく戦意に火がついた費長房は、転げ回って神兵たちの猛攻を何とか回避しながら、隠し持っていた飛刀(投げナイフ)を
刃は勢い鋭く飛び、正面にいた兵士の腕を切り裂く。
赤い血は出ず、代わりに噴き出たのは、緑色の汁だった。
草の匂い――と費長房が思った直後、兵士の腕が
しかし、驚くべき光景は、それで終わりではなかった。腕を欠損した兵士の双眼が妖しく輝くと、周辺にあった秋草や花々が根っこごと吸い上げられ、腕はたちまち再生してしまったのだ。緑色の肌に浮き出ている多彩な色の斑点は、どうやら花びらが正体だったようである。
(思った通りだ。こいつらは、草で造られた人間。度朔君が、華佗邸の草花を兵士にして操っているんだ。
……ここの草花のほとんどは薬草。華佗殿が心を込めて大切に育ててきた。人を生かすための薬となるはずだったのだ。それなのに、よりにもよって人を殺す兵士にされてしまった。そのことが辛くて、こいつらは悲しみの気を発しているのだな)
倒すのは
費長房は「相手が草の怪異だと分かれば、戦いようがある。燃やしてしまえばいいのだッ」と叫ぶや、
闇を切り裂く飛刀たちの乱舞に、神兵たちはほんの一瞬、
その隙を逃さず勢いよく立ち上がると、費長房は
「火神
と、天を仰ぎながら火の神にそう呼びかけた。
その数秒後、星空から降ってきた無数の火矢が神兵たちに襲いかかった。そして、
という展開を費長房は期待したのだが、どういうわけか火矢は降って来ない。その代りに、華佗邸の上空を暗雲が覆い始めた。
おやっと首を傾げているうちに、凄まじい暴雨となって、費長房と神兵たちをびしょびしょに濡らした。
「へ? な、なんで? どゆこと? 炎の矢は? おお~い、祝融さぁ~ん。…………あっ、やっべ、間違えた。これ、水神の
草に水。これはまずい。
そう思った次の瞬間には、嫌な予感は的中していた。
大量の雨を浴びた草の兵士たちは見る見るうちに成長し、全員が関羽並みの身長(二メートル越え)になってしまっていたのである。
――うっふっふっ。お馬鹿な方士だねぇ~。余の神兵を強化してくれて感謝するよ。
嘲笑う声が、費長房の脳に伝わる。
ぞくぞくと背筋が
「さ……さっきのはちょっとした冗談だ。次こそは邪神の兵どもを炎で一掃してやる。……火神祝融! 我が元に来たりて敵に炎の矢を降らせ!」
費長房は、二枚目の護符を取り出し、夜天に向かってそう吠えた。
だが、その直後、護符に記された文字を見たおっちょこちょい方士は「あっ! またまつがえた! これ、
葛陂君とは、湖沼に棲む鬼神の名である。この神にも雨を降らせる力がある。ということは――。
「ひょえぇぇぇーーーッ‼ また大雨が降ってきたぁぁぁーーーッ‼ おいコラ、ワタクシは火の神を呼んでるんだから、わざわざ来るなってば‼ 護符とは違う名前叫んでるの分かるでしょぉ~~~⁉」
間違った自分が悪いのに、費長房は黒雲を睨みながら鬼神を責めた。
葛陂君は八つ当たりされて立腹したのだろう。天を覆っていた雨雲はさっさと消滅してしまった。
――……あ~あ。二度もやらかすなんて。さっすがはお馬鹿の費長房。お前のマヌケぶりを見るのにも飽きてきたよ。もういいや。草の巨人たちに踏み潰されて死ねば?
邪神度朔君も呆れてしまっているらしい。ややうんざりとした心の声が費長房の脳に響いてきた。
「巨人に踏み潰され……って。あ……あはは。そうなりますよねー」
夜空を見上げていたアホ方士は、恐るおそる視線を前方に落とす。
果たせるかな、費長房は身の丈十三尺(ほぼ三メートル)の巨人と化した神兵たちに完全包囲されていた。その巨人兵たちは、足元の草花を吸収して生成した剣や槍、弓矢を手に持つと、一斉に襲いかかって来た。
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