許褚VS.張郃

 一方、許褚きょちょ拉致らちされた華佗かだはというと――。


「うおぉぉぉい‼ わしぎょうに帰せと言っておるじゃろうがぁぁぁ‼ 聞こえんのか虎痴こちぃぃぃ‼」


 馬を駆る許褚の丸太のように太い腕で小脇に抱えられ、乱暴に運ばれていた。


 詳しくは分からないものの、どうやら北東の方角を目指して爆走しているらしい。凄まじい風圧が華佗の顔にかかり、ドライアイになりそうだった。


 許褚は華佗に一切説明していないが、曹操軍は幽州ゆうしゅう冀州きしゅうの境の易京えきけいに駐屯している。


 ――郭嘉かくかの治療をするために、華佗を大急ぎで連れて来い。


 という主命を果たすことしか、この猛将(見た目はほとんどビッグフット)の頭には無い。華佗が泣こうがわめこうが、主君の元に強制連行するつもりだった。


 しかし、それにしても、百歳オーバーの老人に対する扱い方が雑すぎである。これが超絶健康じいさんの華佗ではなかったら、乱暴極まりない急行軍に心臓が耐えきれず、とっくにショック死していたことだろう。


 せめて犬猫みたいな運び方をやめ、華佗を馬の背中に乗せてやるべきなのだが、そんな一般常識的な気遣いすら許褚には難しい。曹操の護衛任務以外では気働きが全くできないのだ。こういうところが、虎痴――虎のように強いが、知恵が回らない――という渾名あだなで呼ばれている所以ゆえんのひとつだった。



「鄴に帰せ‼ 鄴に帰せ‼ 鄴に帰せぇぇぇーーーッ‼」


「ダメ! 華佗センセ、郭嘉ヲ治ス! 曹操様ノ命令、絶対!」


曹叡そうえい坊ちゃんの命が危ないと言っておるのが分からんのか‼ 阿瞞あまん(曹操の幼名)の孫じゃぞ‼」


「アーッ‼ アーッ‼ アーッ‼ 聞コエナイ! 聞コエナイ! 俺ハ、曹操様ノ下シタ命令ニシカ従ワナイ!」


(ゆ……融通の利かん奴め)


 許褚には、己は愚鈍である、という強い自覚がある。


 だからこそ、主君曹操の口から発せられた言葉のみを信じ、それ以外の者のげんにけっして左右されてはならぬ、とこの男は自身を厳しく戒めていた。そうしなければ、自分のような愚か者は、周囲の人々の思惑に振り回されてしまい、主君の護衛役のつとめを全うできないと分かっているからだ。


 その決意は、夏侯惇かこうとん曹仁そうじんなど曹家の一門に対しても、例外ではない。曹操の命令と違うことをもしも彼らが言ってきたら、「主命トハ違ウ」とはねつけ、がんとして従わぬ覚悟があった。


 自らに課したそんな戒めがあるからこそ、「家に帰せ」と華佗にいくら訴えられても、愚直の忠臣は全く耳を貸さないのだった。つまるところ、奇跡でも起きないかぎりは、哀れな老医者はこのまま曹操軍の陣営に連れて行かれるしかないということである。


(もうダメだ。曹叡坊ちゃんは、儂が失踪したせいで死んでしまう)


 心中呟き、華佗は半ば諦めかけていた。


 だが、そんな時、意外な人物が現れて、待ち望んでいた奇跡を起こしてくれたのである。




「おおーい、許褚殿! 華佗先生をお連れするには及ばんぞ! 止まれ、止まれ! 今すぐ引き返して、老先生を鄴のお屋敷に帰して差し上げるのだ!」


 前方から、苦み走った男振りのいい武者が一騎。手を振りながら疾駆してきて、許褚にそう呼びかけた。


 許褚は馬を止め、「張郃ちょうこうジャナイカ!」と驚きの声を上げる。そして、


「張郃、オ前、何ノ用ダ。俺ハ、曹操様ノ命令デ華佗センセ連レテク。邪魔スルナ!」


 雷霆らいていのごとき怒号で威嚇いかくした。


「それがしは、かく祭酒さいしゅ(郭嘉のこと。軍師祭酒ぐんしさいしゅという官職にあった)の使いで参った」


 張郃は、大声を張り上げなくても会話ができる距離まで近づくと、色気のあるハスキーボイスでそう答えた。


「郭祭酒は、『自分に治療は必要ない。華佗先生を、彼の治療を必要としている人の元へと帰しなさい』との仰せだ」


「治療ガイラナイ? ……ソレハ、曹操様モ承知ノコトカ」


「…………」


 張郃はその問いには答えない。

 つまり、郭嘉が勝手な判断で治療を拒否しているということだ。


 曹操様ハ承知シテイナイノダナと察すると、許褚は四方の空気を震わせる大音声だいおんじょうで「主君ノ命ハ、絶対」と怒鳴った。


「郭嘉ガ医者イラナイト言ッテモ、華佗センセ、連レテク。ソレガ曹操様ノ意思」


「そうか。貴殿がそう言ったら、妨害せよとそれがしは言われていてな。許褚殿、悪いが、ここで一戦を乞う」


 張郃は静かにそう言い、環頭かんとう大刀たちを抜いた。


 この男は叩き上げの軍人でありながら好学の人でもある。儒学を尊び、同郷の儒者卑湛ひたんを推薦するなど、知識階級インテリへの憧れが強い。そんな人物だからこそ、曹軍きっての参謀である郭嘉のお使いを引き受けたのだろう。


 許褚は、こういうタイプの武将が苦手だった。武人ならば頭を空っぽにして戦場で敵を殺戮し、その血肉を喰らえ。四書五経を片手に軍の指揮を執って気取っているんじゃない、とイライラするのだ。


「一戦ヲ乞ウダッテ? バーカ! コノ許褚ト互角ニ戦エルモノカ! 三回またたキスル前ニ、オ前ノ体、バラバラニシテヤル!」


 許褚はせせら笑うと、華佗をポイッと地面に放り捨て、大剣を抜いた。


 けっして脅しではない。片手だけで牛を引きずり回すことができる許褚の怪力をもってすれば、たった一揮ひとふりで武者を馬ごと真っ二つにすることなど朝飯前である。


 だが、張郃には余裕があるようで、「そいつは無理な話だな」と言った。


「それがしも、何の策も無く貴殿と戦おうとは思わぬ。こっちには、許褚殿専用の必勝の策があるのだ」


「必勝ノ策ダッテ? 面白イ! ソノ策トヤラ、見セテミロ! サア、早クシロ!」


「そこまで言うのならば――むむ⁉ き……許褚殿、大変だッ! 豚がをこきながら空を飛んでいるぞッ!」


「ナ、ナンダッテェェェーーーッ⁉」


 驚いた許褚が空を見上げた刹那せつな、張郃は馬腹を蹴って素早く回り込み、許褚の尻を刀の切っ先で鋭く突いた。


 これにはさすがの許褚もたまらず、「アいたァァァ⁉」と叫びながら落馬する。


「今です、華佗先生。許褚殿の馬を奪って、お逃げください」


「お……おお! 張郃将軍、かたじけない!」


 華佗は、尻をおさえながら転げ回っている許褚を横目に、馬に飛び乗った。


「マ……待テ!」と怒鳴りながら許褚が立ち上がった時には、馬上の人となった華佗はすでに走り去っていた。


「これで良し」


「コレデ良シ、ジャナイ! 卑怯ダゾ、張郃! ナンテ恐ロシイ兵法ヲ使ウンダ! サスガハ必勝ノ策!」


「ぜんぜん恐ろしくない。こんな嘘にだまされるのは、許褚殿ぐらいだ」


「グ、グヌヌヌ……。俺ヲ馬鹿ニスルナヨ。ソンナ手、二度ハ食ワン。オ前ノ馬奪ッテ、華佗センセニ追イツイテヤル!」


「面白い。第二戦といこうか」


「ヨシ! ドコカラデモ、カカッテ来イ!」


「ならば、遠慮なく――むむむっ⁉ 許褚殿、一騎打ちどころではないぞ! あれを見ろ! 雄牛と雌牛が熱い接吻せっぷんを交わしながら空を飛んでいるではないかッ!」


「ナ、ナンダッテェェェーーーッ⁉」


「隙あり!」


「ア痛ァァァ⁉」


 これを二十回ほど繰り返しているうちに、華佗は許褚が追いつけないほど遠くまで逃げることができたのであった……。

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