千年の老木

 への手紙を書き終えると、曹沖は「ちょっと待っていて。もう一人、応援を頼みたい将軍がいるから」と言い、新たに手紙をしたため始めた。


 数刻ほど前、曹沖が小耳に挟んだ情報によると――ある武将が率いる精鋭騎馬隊が、地方の反乱を鎮圧して帰還の途次にあるという。今夜は鄴城ぎょうじょうのすぐ北の砦に入り、明日には帰城するとのことである。


度朔君どさくくんは、数万の軍に匹敵する神兵を呼び出すらしい。張郃ちょうこう将軍はその神兵に翻弄された。邪神の軍勢と合戦になった場合に備えて、こちらも鋭兵を確保しておく必要がある。いま北の砦に駐屯中の騎馬隊ならば、きっと邪神軍に対抗できるはずだ」


「その騎馬隊を率いている将軍は、どのような御仁なのですか」


 司馬懿は、不安そうに顔を曇らせながら訊いた。あの鬼畜将軍だけでなく、別の武将にも救援を求めるとなると、曹丕の秘事――曹叡の出生にまつわる秘密――を余人よじんに知られてしまうリスクがどんどん高まっていく。そのことを恐れたのである。


「心配には及ばないよ」


 曹丕の秘密を知る数少ない人間の一人である少年は、司馬懿の心中を敏感に察したらしく、穏やかな声でそう断言した。


「彼は、曹家と深い繋がりがあって、子桓兄上にとっては騎射の師匠にあたる。仁義に厚い根っからの軍人で、ひとの弱みを探ろうなどという後ろ暗い精神を持つ人物ではない。司馬懿殿が案じているようなことは起きないさ」


「だとしても……。城邑まちの中で軍隊が大暴れしたら、この司空府に報告がいきます。卞夫人べんふじんにこたびの騒動を知られるのは避けたいのですが……」


「卞夫人? ああ。あの御方なら、たぶん、華佗かだ邸の異変にもう気づいていると思うよ」


 司馬懿の懸念に対して、曹沖はあっさりとそう答えた。司馬懿は「えっ」と驚きの声を上げる。


「ま、まことですか?」


「卞夫人という人は、恐ろしく勘の鋭い母親だからね。細かい事情は把握していなくても、息子が外で何をやっているか薄々察しているはずさ。知ったうえで、じっと様子を見ているに違いない。まあさすがに、一番知られちゃいけないまでは、気づいてはいないと思うけどね。知っているのなら発狂してしまう案件だから」


 何も事情を知らない曹真が近くにいるため、曹沖は小声でそうささやく。


 ますます不安がつのってきた司馬懿は、深い憂色ゆうしょくを浮かべて「で、では……」と言った。


「曹公(曹操)が帰還すれば、きっと告げ口するのでしょうね。邪神や悪鬼を城内に招き寄せてしまった曹丕様の不始末を……。あの御方は夫を恐れている。だから、子供をかばうようなことは絶対にしないはずです」


 少年期の曹丕に対する卞夫人の仕打ちを張繍ちょうしゅうから聞いたばかりなので、司馬懿がそう考えてしまうのも無理はない。


 しかし、曹沖の卞夫人に対する認識は、司馬懿と微妙に相違があるらしい。かぶりを振って、「いや、それはどうかな。すすんで我が子を陥れるようなこと、卞夫人がするはずがない。逆に息子の不始末は極力隠ぺいしようとするはずだ」と言った。


(そんなまさか。自分の生母ではなくても父親の正室だから、卞夫人のことを庇っているのか……?)


 司馬懿はそう思いかけたが、どうやらそういったつもりは曹沖にはないようである。


 曹沖少年は、少女のように柔らかな笑みを浮かべると、なたでぶった切るかのごとき遠慮のない卞夫人評を語りだした。


「あの御方は、父上の前では自身の野望のことなんておくびにも出さないが――自分が産んだ息子たちの一人に曹家を継がせたいと切望しているんだ。その野望があるからこそ、父上に絶対服従している。全ては自分と息子たちのためさ。

 ただ、子桓兄上は、卞夫人が父上に卑屈な態度を取ってばかりいることが気に食わなくて反発しているんだよ。そりゃそうだ。子供にとって産みの母は何よりも大事な存在じゃないか。父親に奴隷根性で仕えている母親の姿を見るのなんて、悲しいに決まっているよ。だから、卞夫人としょっちゅう衝突しちゃうんだよね。私も、自分の母が奴隷みたいな態度で父上に奉仕していたら嫌な気分になると思う。兄上の気持ち、私にはよく分かるなぁ」


 父の正夫人に対して、かなり容赦がない。しかし、兄曹丕の心情を慮るがゆえに卞夫人を辛口批評しているのだとしたら、この少年はとても兄弟想いな子なのだろう。


(だが、それにしても――)


 温和な性格に見えて、人物を見定めるその目は、十二歳の子供とは思えないほど冷徹だ。この子には、たしかに曹家の血が流れている。司馬懿はやや圧倒されつつ、そう考えていた。




「これで良し、と」


 二通目の手紙を書き終えると、曹沖は一人の兵士を部屋に呼び寄せた。曹丕が屋敷をこっそり抜け出す際にいつも手引きをしている兵士である。


 曹沖は、その兵士に駄賃の銭をつかませると、


「まずはこの手紙を厲鋒れいほう将軍の屋敷に届けておくれ。そして、次に、この手紙を北の砦にいる典軍てんぐん校尉こういに届けるように。大急ぎでね」


 と命令し、城の北門の守備兵たちに門を開けさせるための銭も握らせた。兄の曹丕は、夜に城外へ忍び出ることが頻繁にあるため、各城門の兵士をことごとく金銭で買収している。そのやりくちを真似たのだ。


 ちなみにこれは余談だが、曹家の公子たちは父曹操の方針で質素倹約を強いられ、たいした財産を所有していないが、特に曹丕は万年金欠ぎみである。その理由のひとつが、この兵士たちの賄賂代が馬鹿にならないからであった。


「さあ、私たちも出よう。ただし、こっそりとね。病弱な私が夜間外出したことがばれて、私の母が心配するといけないから」


 曹沖はそう言うと、ようやく曹丕の部屋から出た。


 司馬懿は、まだ気絶している小燕を再び背負い、曹真とともに曹沖に従った。




            *   *   *




 目当ての老木がある広陽門に着くと、曹沖は「やあ、ご苦労様」と門兵たちに声をかけた。


 兵たちはギョッと驚き、「そ……曹沖様⁉ こんな夜更けに、なぜこのような場所に……」と不安そうにたずねた。ひそひそと囁き合っている兵士たちもいる。


(まさか、兄の曹丕様みたいに、城門を開けてくれとか言ってこないだろうなぁ……)


 現れたのが無断外出の常習犯である曹丕ならば、こうも戸惑いはしない。城門は平旦の刻(午前六時頃)まで開けてはならない規則だが、兵たちは毎度のごとく賄賂をもらい、曹丕の夜歩きを見逃してきていた。


 しかし、曹沖はまだ子供だ。病弱だという噂もある。夜更けに城の外へなど出してしまって、万が一のことがあれば、この少年を溺愛する曹操は烈火のごとく怒るだろう。きっと自分たちは極刑に処されるに違いない。かといって、曹家の公子の命令に逆らえば、それはそれで立場が危うくなるのでは……。などとあれこれ考え、兵士たちは恐れたのだ。


「あっ。心配しなくてもいいよ。『城の外に出して』なんて言わないから。あそこのけやきの木を切り倒したいだけなんだ」


 曹沖は、わずかな表情の変化で人の心が読める。門兵たちが何を案じているのかすぐに察し、鷹揚おうように手を振りながらそう言った。


「え? あの老木をですか?」


 門兵たちを率いている守備隊長が、樹齢千年の巨木を見上げた。


 この欅の老木は、悠久なる中華の歴史をこの地から眺め続けてきたに違いないが、いまは葉がほとんど抜け落ち、立ち枯れそうになっている。昨年の夏に雷がこの木に落ち、その樹勢は急速に衰弱していたのだ。


「放っておくと危ないから、そのうち切り倒さねばとは思っていましたが……。しかし、こんな夜更けにやるのですか?」


「いますぐやらないと駄目なんだよ。私もこの木のことが前から気になっていてね、さっき易占いをやったんだ。すると、『明日の朝、この老木が突然倒れ、ここにいる兵士たち数人が下敷きになって死ぬ』という占い結果が出てしまった。私の占いはよく当たるから、ぜひすぐに切り倒してもらいたい」


 無論、曹沖は占いなどしていない。デタラメを言ったのだ。


 しかし、この時代の人々の日常生活には、占いで物事を決める習慣が根付いている。貧しい農民でさえも、結婚する際、安くはない料金を占い師に数度払って吉凶をみてもらっていた。まだ子供ながら神童の誉れ高い曹家の公子に「あの木を切らないと、この中の数人が死ぬという占い結果が出た」と言われたら、信じざるを得ない。


 守備隊長は血相を変えて、「そ……そいつはまずい。急いで取り掛かります」と言い、部下の兵たちに斧を持って来るように命令した。


子丹したん(曹真のあざな)殿も手伝ってあげてください。あの巨木を切り倒すのは骨が折れそうだから」


御意ぎょい


「では、俺も……」


「司馬懿殿はやらなくていいよ。『あいつはビックリするぐらいドジだ』って子桓兄上から聞いているからね。そんな人に斧なんて使わせたら、うっかり誰かの頭を叩き割るかも知れないし」


(ぐ……ぐぬぬ……。曹丕の奴、陰で俺のことをボロクソ言っていやがるな……)


 不本意ではあるが、司馬懿は曹沖、小燕と一緒に大木の伐採を見守ることにした。


 ちなみに、小燕は、ここに来る途中でようやく目を覚ましていた。しかし、どういうわけか、いつもの元気が無い。主人の背中に隠れて、気恥ずかしそうにうつむいている。なるべく曹沖の視界に入らないようにしているようだ。


「おい。曹沖様に何かされたのか」と司馬懿が小声で訊いても、「い、いえ。別に……」と赤面して答えるのみである。


「どうやら、嫌われてしまったみたいだね。ごめんよ、小燕。今度、何かしらのお詫びをするから」


 曹沖が柔和な笑みを向け、そう謝ったが、小燕は恥ずかしがって何の反応もしない。


(なんだ、この微妙な空気……。小燕と曹家の公子の間で何があったんだ……?)


 まさか二人がラブコメみたいな出会い方をしているとは、夢にも思わないのであった。




 司馬懿がそんなふうに困惑している間にも、曹真と門兵たち(全員がマッチョ)はコーンコーンと快音を立てて斧をふるい続けている。樹齢千年といっても、すでに立ち枯れる寸前の老木なので、意外と早く倒れそうだった。


「……曹沖様。賈詘かくつという古木の精が犬の代わりになるというのは、まことですか。道々教えてもらった話では、その精魅もののけは、犬とはかけはなれた姿をしているのですよね? もっと犬に近い姿のほうが……」


「実は私も、そこがちょっと心配でね。本当は、樟樹くすのきを伐採したら出現するという彭侯ほうこうっていう精魅を手に入れたかったんだ。顔が人間で、尻尾が無いけど、体は犬らしいから。でも、樟樹は長江以南の木だ。彭侯の入手は諦めざるを得なかった。

 ただ、まあ……樹齢千年の老木から現れると伝わる賈詘は、煮て食べたら犬の肉に似た味がするそうだから、その血には犬と同じ破邪の力がきっとあるに違いない。しかも、かなり強力なはずだ。千年もの間、大木の霊気を吸ってきたんだからね」


「なるほど……。しかし、その賈詘という化け物、肉が食えるんですか」


「彭侯の肉も食べることができるそうだよ。こいつも犬みたいな味らしい」


「精魅って、食うことのできるヤツがけっこう多いような……。そういえば、曹丕様と初めて会った夜も、犬っぽい怪物の肉を食べさせられたなぁ」


 司馬懿はそう呟きつつ、内心では曹沖の頭脳に驚嘆していた。


 どうやら、この少年は、本当にあの部屋の膨大な怪異資料を全て頭の中に叩き込んでいるようである。そうでなければ、つい数日前まで全く興味の無かったオカルトの知識を曹丕と遜色ないほど饒舌じょうぜつに語れるはずがない。


(恐るべき聡明さだ。曹丕も頭脳明晰な男だが……曹沖の「知」はそれを遥かに凌駕りょうがしているやも知れぬ。能力至上主義者の曹操が溺愛するのもうなずける話だ)


 だが、正室の卞夫人は、自分の産んだ子に家督を継がせたいと密かに願っているらしい。


 もしも、曹操が正式に曹沖を後継者に指名すれば、さすがの卞夫人も大人しくは従わないだろう。表立って反対せずとも、何らかの暗躍を始めるはずだ。


 曹家の家督問題は必ず荒れるな、と司馬懿は予測した。




「う、うわ……! な、何だ⁉」


「木から血が噴き出してきたぞ‼ ひ、ひえぇーーーッ‼」


 兵士たちの叫び声が耳に飛び込んできて、我に返った司馬懿は前方を見た。


 大木が、メリメリと悲鳴を上げながら、倒れようとしている。それと同時に、真っ赤な血が噴出していた。門兵たちは驚愕し、腰を抜かしている者さえいる。


 あらかじめこうなることを曹沖から教えられていた曹真は、慌てず騒がず、「中から化け物が出て来るぞ! 者共ものども、力を合わせて捕まえろ!」と鋭い声で命じた。


 その直後、樹齢千年の巨木が倒れ、轟然ごうぜんたる音が周囲の空気を震わせた。


 その震動が止む前に、血がどくどくとあふれだしている切り株から謎の化け物が飛び出して来た。その化け物というのは――。



「ブヒィィィー! ブヒィィィー! ブヒィィィー!」


「ブゥゥゥー! ブゥゥゥー! ブゥゥゥー!」



 一つの体に二つの頭を持つ豚っぽい動物(?)だった……。

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