Boy Meets Girl

「で、どうやって卞夫人べんふじんを驚かせるつもりなんだ」


「部屋の壁をすり抜けて、うわーって飛びかかるのはどうでしょうか?」


「壁をすり抜けるだと? お前、普通にさわれるじゃないか。できるのか、そんなこと」


 そう言いつつ、司馬懿は、小燕のぷにぷにほっぺを軽くつまむ。


「そりゃぁ、幽鬼ですから。やろうと思ったらできます」


 小燕はえっへんと胸を張った。


「壁から幽鬼がにゅるぅ~んと現れるの、どうですか? 恐くないですか?」


「……うーむ。たしかに、きもわった人間でも、驚いて逃げ出すかも知れないな。よし、やってみろ」


「あいあいさー!」


 小燕が張り切った声で返事をすると、司馬懿は「しっ」と人探し指を唇にあてた。幽鬼メイドは慌てて両手で口を塞ぐ。


 ……恐るおそる部屋の戸口に視線をやったが、人が出て来る気配は無い。どうやら卞夫人は耳が遠いようだ、と司馬懿は安堵した。


「いちおう言っておくが、やりすぎて卞夫人に怪我を負わせるなよ」


「はい。では、行って来ますね」


 小燕は小声でそう言い、てってってっと駆けだした。


 助走をつけ、窓のすぐ横の外壁めがけて跳ぶ。


 小燕の幽体はするりと壁を抜け、



「うっらめしやー♪」



 陽気な声とともに、室内にいた人物に抱きついた。


 片手に木簡を持っていたその人物は、小燕とさほど背丈が変わらないようである。勢いよくダイブしてきた幽鬼少女に簡単に押し倒された。


「おっと……危ない。君が、子桓しかん兄上が言っていた、司馬懿殿に仕える幽鬼の女の子だね。すごく元気だなぁ~」


 小燕の下敷きとなった人物は、フフッと穏やかに笑う。


 男の子の声――と小燕が驚いて見ると、蝋燭ろうそく火影ほかげに照らされているその顔は、中年女性のものではなく、美少女と見紛うほどの美貌を有した少年だった。


 柔和な笑みを浮かべ、星々の輝きを宿した美しい瞳で、小燕を見上げている。幽鬼少女は、その綺麗な目に思わず見惚れてしまっていた。


「いちおう言っておくけど」


「えっ?」


「この手はわざとじゃないからね?」


 そう指摘された直後、小燕はかあぁっと耳の付け根まで真っ赤になった。木簡を持っていないほうの、少年の手が、小燕の胸に当たっていたのである。


「わ、わ、わ」小燕は慌てふためき、少年の体からバッと離れる。「ご、ごごごごめんない‼」


「あっ、ちょっと――」


「今のは忘れてください‼ さよならッ‼」


 そう言い捨てて、小燕は再び壁をすり抜けて逃走しようとした。


 しかし、パニック状態だったためか失敗し、頭から壁に激突、仰向けにバタリと倒れてしまった。


「き……きゅぅぅ……」


「あらら。目を回している。『幽鬼でも気絶することがある』って兄上の怪異資料にはあったけど、本当だったんだなぁ」


 そう感心しつつ起き上がって、少年は小燕を見下ろす。


 しばらくの間、可愛らしい幽鬼少女の顔を見つめていたが、やがて悲しげな吐息を漏らし、静かにひとちた。


「こんなにも明るくて良い子なのに、なのか。死生しせいめいり――人の生死は天命であってままならぬものと分かってはいるが……。こういう子が皺くちゃのお婆ちゃんになるまで笑って生きられてこそ、天下泰平の世というのだろう。父上は、いまだにそんな世を作れてはいないのだ」




            *   *   *




「お、おい。さっき物凄い音がしたぞ。何かが壁にぶつかったような……」


 庭木に身を隠していた司馬懿は、部屋の中の異変に気づき、傍らの曹真に話しかけた。


「お前の下女、奥方様にこてんぱんにやられているんじゃないのか」


「そんなまさか。うちの嫁じゃあるまいし」


「いや、奥方様ならやりかねん。幽鬼を壁に叩きつけることぐらいでもないはずだ」


「ぬぬぬ……。小燕が痛い目に遭っているのなら、今すぐ助けに行かねば」


「ま……待て待て! はやまるな! 俺たちまで折檻せっかんされるぞ!」


「武人のくせして何をビビっておるのだ、情けない。相手は中年の女性ではないか」


「う、うるさい! 子供の頃に負った心の傷のせいで、激怒した奥方様を前にすると足がすくんでしまうんだ! 仕方がないだろう!」


 両者とも興奮して言い争い、だんだんと大声になってきている。


 一方、室内にいる少年はとても耳がいい。二人の間抜けなやり取りは、彼に全て筒抜けであった。


 ちょっと外の二人をからかってやろうか。そんな悪戯心を起こしたらしい。少年はクスリと笑うと、卞夫人の声真似をして、「あーこほん! 外にいる無礼者たち!」と言った。


「曹孟徳様の正夫人である私を鬼ババアあつかいするとは、なんてけしからぬ者たちでしょう。罰として、逆立ちしながら屋敷を十周してきなさい!」


 身分ある家の子息が自慢できるような芸ではないので、あまり知られていないが、声真似は少年の特技のひとつである。曹真は簡単にだまされてしまい、「ひ……ひいいぃぃ! 申し訳ありません!」と震え上がりながら叫んだ。


「ど、どうかお許しを! ……おい、司馬懿。今すぐやるぞ。逆立ちで屋敷十周だ。は……早く!」


「いや、ちょっと待て。落ち着いて聞け。声の雰囲気が微妙に違う。卞夫人はもっと冷たそうな感じで――」


「つべこべ言わずにやれ! お尻百叩きを喰らって、俺みたいに尻が二つに割れても知らんぞ!」


「尻はもともと割れてるだろ……。大丈夫か、曹真殿。いつもの俺よりもひどいぞ」


 曹真の狂態っぷりに司馬懿が呆れていると、アハハハという笑い声が部屋の中から聞こえてきた。それはあきらかに中年女性のものではない。声変わり前の男の子の声である。


 驚いた司馬懿は、身を潜めていた庭木から飛び出し、「卞夫人ではないな⁉ 何者だ!」と誰何すいかした。すると、


「ごめん、ごめん。悪ふざけが過ぎたね」


 幽鬼少女をおぶった少年が、そう言いながら部屋から出て来た。


子丹したん(曹真のあざな)殿、安心してください。私は卞夫人じゃないですよ」


 その端麗な顔を見た曹真は、「あ……貴方様は!」と驚きの声を上げた。


「曹沖様ではありませんか! なぜ子桓様のお部屋に⁉」


「なぜってそりゃあ……。母親は違っても、私だって子桓兄上のの一人だからね」


 曹丕は自室の無断の立ち入りを親しい弟のみに許可している、と曹真が最前さいぜん言っていたことを耳聡みみざとく聞いていたのだろう。ニヤッと笑い、曹沖は答えた。


「実はここのところ、夜の読書に困っていたんですよ。邸内にある父上の蔵書は全部読んでしまって。何か読む物が欲しかったから、子桓兄上にお願いして、兄上の怪異資料を読ませてもらっていたんです。私の側仕えの者たちは、父上が嫌う迷信のたぐいの書を読んではならないと言うので、寝所から毎晩こっそり脱け出さなきゃいけないのが大変でしたけどね。

 でも……三夜目の今日で、そろそろ全部読み切っちゃいそうで。兄上が不在みたいだから、ここの部屋以外に怪異の書物は置いていないか訊けず、どうしようかなぁと悩んでいたところなんです」


「は、はぁ、なるほど。……しかし、曹沖様は、怪異譚の類にご興味はありませんでしたよね?」


「子丹殿も知っているじゃないですか。私は読む物が無いと憂鬱になってしまう性分だって。何でもいいから書を読みたかったんです。でも、いざ読んでみると、意外と面白いものですね、志怪しかい小説というやつも」


 曹沖は、けっこう重度な活字中毒者のようである。


 ただ、これで、曹丕が「曹沖に知恵を借りろ」と言った理由が分かった。この少年が自分の怪異資料に目を通していることを知っていたから、司馬懿にそう命じたのだ。


 しかし……曹丕が長い歳月をかけて収集した膨大な怪異資料をたった三夜でほぼ読み切ったというのは本当なのだろうか。司馬懿は、にわかには信じられなかった。まことならばよほどの天才、嘘ならばひどい大法螺吹きだ。


(そのどちらであるかは、すぐに分かることだ)


 この少年に、あの曹丕をして「曹家を継ぐのに最もふさわしい」と言わしめるほどの能力が本当にあるのか。それをぜひとも試してみたい。未知のものに対する好奇心が旺盛な司馬懿は、恐れながら……と言いつつ前に進み出た。


「それがし、司馬防しばぼうの次男の司馬懿、あざなは仲達と申します」


「君のことなら、子桓兄上から色々と聞いているよ。この可愛らしい女の子の幽鬼のこともね」


 曹沖は、兄の部下に柔和な笑みを向けると、「壁に頭をぶつけたけど、この子は幽鬼だ。打ち所が悪くても、どうこうなる心配は無いと思う。だから、安心してくれ」と言いながら、まだ目を回している小燕の体を主人の司馬懿に預けた。


 曹一族は苛烈な性格が多い印象を司馬懿は持っていたが、この美少年は生母環夫人かんふじんの血なのか、温容おんように満ちた顔をしている。


「兄君の曹丕様が危機的状況にあり、曹沖様に策を講じていただきたく参上しました。どうかお力添えくだされ」


「危機的状況というのは、兄上が言っていた袁煕えんきの件かい?」


「はい。しかも、厄介なことに、度朔君どさくくんという邪神が、悪鬼となった袁煕に手を貸しているようなのです」


 司馬懿は、曹沖が把握しやすいように、これまでの出来事を初めから順に説明した。


「なるほどね……。悪鬼の呪いを払うために犬の血が必要だが、度朔君に城邑まちの中の犬をことごとく消されてしまい、困っているというわけか」


 話を聞き終えた曹沖は、しばし黙考した後、星の輝きを宿した双眸そうぼうきらめかせながら「だったら――」と言った。


「いまから広陽門まで行って、この城邑で一番年老いた大木を切り倒しに行こうか」


「は? 木を切る? 何故なにゆえですか?」


 小燕の非常に軽い幽体を両腕に抱えながら、司馬懿は怪訝けげんな顔をした。


 ぎょう城の三つある南門の一つ、広陽門に、樹齢千年を超えるという噂の老木があることは知っている。しかし、こんな非常時になぜ木の伐採に赴かねばならないのか。悪鬼退治と何の関わりがあるというのだろう。まったく意味が分からない。


「兄上の怪異資料によるとね。樹齢千年の木を切ると、賈詘かくつという面白い木の精が現れるらしいんだよ。もしかしたら、その木の精が使えるかも知れない」


「賈詘……。それはどのような精魅もののけなのでしょうか」


「説明は道々歩きながらするよ。ただ、私たちだけでは、度朔君の妨害が入ったら対抗のしようがない。行動に移る前に、応援を呼んでおこう」


 曹沖はそう言うと、曹丕の仕事部屋に戻って、そこらへんにあった筆を手に取り、立ったまま誰かに手紙を書き始めた。


「曹沖様、お待ちください。いったい誰を呼ぶおつもりですか」


 信用のおけぬ人物を今回の一件に関わらせると、万が一にも曹叡にまつわる秘事を知られてしまった場合、曹丕が非常にまずい立場に置かれかねない。不安になった司馬懿は、しょう(ベッド兼ソファーの家具)に小燕を寝かせると、曹沖が書いている手紙をのぞきこんだ。


「う……うげげっ⁉ よ、よりによって、あの鬼畜将軍を呼ぶのですか⁉ あの将軍の部下なんて、ただのチンピラですよ⁉」


 手紙の宛名を見た司馬懿が驚愕してそう叫ぶと、曹沖はウフフと笑った。


「ああ見えて、やる時はやる人なんだよ。だから大丈夫。若い頃、董卓軍に敗北した父上の命を救ったことだってあるんだから」

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