曹家の子供部屋

(夜明けを待たずに飛び出して来たが……。こんな時刻に会ってもらえるか、ちょっと不安になってきたな。曹沖本人は、曹丕に協力すると約束しているらしい。しかし、側仕えの者たちが寝所に通してくれないのではあるまいか)


 司空府の正門の屋根瓦が見えてくると、司馬懿の頭にそんな懸念がふと生じた。


 曹沖が起きてくれていたらいいが、子供なのでたぶん寝ている。急ぎの用だから寝所に通してくれと懇願しても、側仕えの者たちは曹沖を守ることが役目なので、夜中にアポなしで現れた不審者を警戒するはずだ。


(曹沖とその側近たちはここ数か月、ぎょうを不在にしていて、新入りの俺は彼らとの接点が全くない。俺が曹丕の部下だと名乗っても、信じてもらえない可能性がある。曹家の人間……曹真あたりが一緒に来てくれたら、信用してもらえるのだろうが)


 などと考えていると、当の曹真と偶然にも出くわした。


 犬探しの任務が難航し、疲労困憊ひろうこんぱいしているのだろう。月が照らし出す曹真の顔色は優れない。


 よせばいいのに、司馬懿は「曹真殿! 犬は見つかったか⁉」とうっかり訊いてしまった。


「生きた犬など、どこにもおらん! 犬の骨らしきものは方々で転がっていたがな! そう言うお前は、なぜ子桓様から離れている!」


 曹真は、火を吐くような勢いで怒声を浴びせてきた。


 驚いた小燕が「ひえっ!」と悲鳴を上げ、主人の背中に隠れる。


 いきなり何だこいつ、と司馬懿は顔をしかめたが、自分が余計なことを言ってしまったせいだということにやや遅れて気がついた。


 あの苛立った顔、曹丕の命令を遂行できそうになくて焦っているのだ。それなのに、大嫌いな司馬懿に痛いところをつかれてしまったわけである。曹真がイラッとなって蛮声を張り上げるのも無理はない。


「俺は公子様の命令で司空府に戻って来たのだ」


 司馬懿はなだめるような口調でそう言った。


「ちょうどいい所で会った。なあ、曹真殿。俺が思うに、犬を見つけるのはきっと絶望的だ。誰がやっても結果は同じに違いない。犬探しは部下たちに任せて、ちょっと俺に付き合ってくれ」


何故なにゆえ、お前と行動をともにせねばならんのだ。断るッ」


 曹真は、けんもほろろに拒絶すると、そのまま走り去ろうとした。


 司馬懿は、「ま、待ってくれ!」と叫び、彼の腕をつかむ。


(曹真などに頭を下げるのは業腹ごうはらだが……曹丕の命がかかっている。ここは己のつまらない自尊心は捨てよう)


 あの若者は、自分の身を滅ぼしかねない秘密を司馬懿に知られたうえで、その命を預けてくれた。そして、無二の片腕であるとも言ってくれた。そこまで信頼してくれた人間を命賭して救わずして、何が君子か。曹丕を助けるためならば、大っ嫌いな相手に頭を下げることぐらい、どうということもない――司馬懿は己にそう言い聞かせ、熱弁ふるって曹真に懇請こんせいした。


「曹沖様の知恵を借りてこい、というご命令なのだ。しかし、俺は仕官して日が浅く、曹沖様とはほぼ面識が無い。そんな俺が夜更けに面会を求めても、側仕えの者たちが不審がって、主に取り次ぐことを渋る恐れがある。今は一刻を争うゆえ、手間取って時間を浪費したくないのだ。曹一族のお前だったら、火急の用件と言えば、すぐに会わせてもらえるはず……。だから頼む! 一緒について来てくれ! 俺ではなく公子様のためだと思って!」


「…………」


 曹真は、振り払おうとしていた腕の力を緩めた。


 根は親切な男なのである。ひとの熱誠ねっせいに心動かされやすい。頭まで下げているのだから、司馬懿の言葉に耳を傾けてやろうという気持ちになってきていた。


 彼はやがて、強張っていた表情をわずかに和らげ、「曹沖様……か」と思案げに呟いた。


「あの御子は、たしかに聡明で、学識豊かだ。しかし、怪異には全く興味が無かったはず。子桓様のように鬼物奇怪きぶつきっかいの事を知悉しりつくしているわけではない。本当に曹沖様を頼って何とかなるのであろうか」


「ええっ。そ、そうなのか? ……だが、公子様が『沖ならば、何とかしてくれる』とおっしゃっているのだ。あの御方が何の根拠も無くそんなことを言うはずがない。とにかく、曹沖様にお会いして、事情を話してみるしかあるまい。公子様が身動きを取れないいま、そうするしか手立てはないのだ」


 そう言うと、曹丕が危険な術で曹叡の身代わりになろうとしていることを司馬懿は説明した。


 曹真は心配そうに顔を曇らせ、「馬鹿者、それを早く申さぬか。子桓様のお命が危ういとあらば、一も二もなく手伝うに決まっているではないか」と言った。


「では……」


「うむ、共に行こう。お前とは一時休戦だ。いまはお互いに憎しみを捨て、子桓様のために協力すべき時だからな」


「曹真殿! ありがたい!」


 司馬懿と曹真はガシッと手を握り合った。


 二人とも一本気な性格をしているので、普段は犬猿の仲であっても、「曹丕のために働く」という共通の目的が眼前にあれば協調できるのである。


「じ……じぃ~ん! あんなに険悪だったお二人が、主君を助けるために結束を……。これが董白とうはくちゃんの言っていた『心を通わせ合った男同士のくんずほぐれつを見ていると、なぜだか感動して鼻血が出ます』という感情なんですね! 鼻血は出ませんが、涙が出てきました!」


 感激家かんげきかの小燕が、ダーッと涙を流しながらそう言う。


 董白が言っているのは腐女子的な感動であって、小燕のとは微妙に違うのだが、そういう方面の知識に疎い彼女はひとり納得するのであった。




            *   *   *




「曹沖様の寝所はあっちだ」


 三人が司空府にたどり着くと、曹真は中庭で立ち止まって、東側の建物の一角を指差した。


 前にも書いたが、中国の伝統的住宅は四合院しごういんづくりといい、細長い建物が中庭(院子)を四方に取り囲んだ建築様式である。曹操の政庁と屋敷を兼ねた司空府も、この四合院づくりだった。


 母屋にあたるのは、正房せいぼうと呼ぶ北の建物で、家長とその妻が住まう。その他の家族――家長の両親や子供たち――は、東西の廂房しょうぼう(脇部屋)で生活した。


 山ほどいる曹操の子供たちは、男子は東廂房、女子は西廂房に、それぞれの私室を持っている。もちろん、側室の一人の環夫人かんふじんが産んだ曹沖も、嫡出の曹丕・曹彰そうしょう曹植そうしょく曹熊そうゆうらと同じ東廂房で寝起きしていた。


 それは司馬懿も前から知っていたことである。だが、曹沖の寝所の場所を曹真に教えられ、奇妙な違和感を覚えた。


(東廂房の北端……正房に一番近いところに曹沖の寝所があるのか)


 二番目に近いのが、曹植の部屋である。同腹の弟たちの私室については、曹丕から場所を教えてもらっていたので、司馬懿も知っている。


 そして、その南隣にあるのが、曹丕夫妻の居住空間だ。いままで部屋のことなど気にもしていなかったが、よくよく考えてみれば、これはなんとも微妙な配置だと言わざるを得ない。


 嫡男の曹丕は、両親に何かあったら真っ先に駆けつけねばならない立場だ。それなのに、側室の子の曹沖が父に一番近い所にいるというのは……。


(曹丕は、息子たちの中で、最も多い部屋数を与えられている。所帯持ちだし、長子だから、それは当然のことだ。しかし……この部屋の順番が、曹操が跡を継がせたいと思っている子供の序列だとすると、筆頭候補が曹沖、二番手が曹植、三番目でようやく曹丕ということになる。嫡男でこの順序とは、よほど父親に嫌われているのだな……)


 心の中でそう呟きつつ司馬懿が眉をひそめていると、その表情で何を考えているのか曹真はおおよそ察したらしく、


「曹沖様は、昔ほどではないが、いささかご病弱な御子なのだ。それゆえ、正房にいらっしゃる環夫人が東廂房に毎晩通いやすいようにと卞夫人べんふじんがご配慮なされ、あそこの部屋をお与えになったのだ」


 などと、頼まれてもいないのに言い訳がましい説明をした。


 だったら、部屋の配置は病弱な子供の順番で、二十人前後いる息子の中で三番目にか弱いのが曹丕なのかよ――と反論してやりたい衝動に駆られたが、そんなことを言ったら曹真とまた喧嘩になりそうである。喉のあたりまで出かけていた言葉を呑み込み、司馬懿は「なるほど。では、曹沖様の寝所へ行こう」と言った。




            *   *   *




 庭を駆け抜け、東廂房の区域に近づく。


 しかし、司馬懿たちはそこで再び足を止めることとなった。「あれ⁉」と小燕が素っ頓狂な声を出して立ち止まったのである。


「こら、小燕。急に大声を出すな。ビックリするではないか」


「旦那様、見てください。曹丕様の仕事部屋に灯りがともっています」


 小燕が指差した先を見ると、なるほど、燭台の光が部屋の窓から煌々こうこうと漏れていた。


 志怪しかい小説の編纂室というべきあの部屋には、怪異譚を記録した木簡や竹簡、紙の書物がたくさんある。火事になるといけないので、司馬懿は出て来る時に灯りを消したはずだった。


「中に誰かいるのか? まさか、盗人が……」


「あそこには金目の物はない。怪異にまつわる資料ばかりだ。そもそも、盗みに入った梁上りょうじょうの君子が、あんなにも明々と灯りをつけるはずがないだろう」


 司馬懿にそう指摘されると、曹真は少しムッとなって、「だったら、何者だというのだ。私室に勝手に入ることを子桓様に許されているのは、仲の良い弟君たちだけだぞ」と言った。


 曹丕の同母弟である曹彰と曹植は、父曹操の遠征に従軍中で不在である。もう一人、曹熊という同母弟がいるが、この少年はひどく病弱で、ほとんど部屋に引き籠っていると聞く。兄の部屋に忍び込む元気などあるはずがない。


「そんなの決まっているではないか。卞夫人だ。あの御方は、公子様が問題を起こさないか、常に目を光らせている。母親に監視されることを公子様は嫌い、いつも裏門からこっそり出かけていたが、今夜は慌てて南の正門から飛び出してしまった。それゆえ、運悪く卞夫人の侍女に見られてしまったのだろう」


「つ、つまり……。子桓様の行動を怪しんだ奥方様が、息子の部屋をガサ入れしている最中だと……?」


 顔面蒼白になった曹真は、声を戦慄わななかせながらそう言った。


 卞夫人は、夫の曹操に対して従順すぎるきらいがあるが、曹家を切り盛りする女主人としての思慮と威厳は十二分すぎるほどに持っている。自分が産んだ子女だけでなく、側室やその子供たち、その他の曹一族の人々が不自由なく暮らせるように細やかな配慮をしてきた。


 ただ、その代わり、一門の者が曹操の名に泥を塗るような過ちをやらかした場合、非常におっかない。身内だからこそ厳しくしなければと思い、猛烈に説教をする。子供には折檻せっかんも辞さなかった。怒った彼女の形相は悪鬼そのもので、あの鬼畜将軍曹洪そうこうでさえ「激おこ状態の卞夫人ほどこの世で恐ろしいものはない」と恐怖するほどであった。


 孤児だった曹真は、子供の頃に卞夫人に育ててもらったので、激怒した彼女の恐さを身に染みて知っているのである。自室に隠し持っていた春宮画しゅんぐうが(中国の春画しゅんが)を卞夫人に発見され、尻叩きスパンキング百回の刑で気絶&失禁してしまった十二歳の夏は、曹真最大のトラウマだった。


「お……奥方様が……部屋をガサ入れ……。うっ、頭が……」


「まずいな、これは。小燕のさっきの声で外に誰かいると気づいたやも知れぬ。ここにいたら卞夫人に捕まって、公子様が陰でこそこそ何をやっているのか尋問されそうだ」


「じ、尋問だと⁉ ひ……ひいいぃぃぃ‼」


 曹真は、押し殺した声で悲鳴を上げ、お尻を両手でおさえる。


 司馬懿は、何やってんねんこいつ……と言いたげな目で曹真を凝視みつめた。怒ると恐い女性だということは薄々察してはいるが、激おこモードの卞夫人がそこまでヤバイとはさすがに知るよしもない。


「し……司馬懿。早くここから離れよう。こんなところで死ぬわけにはいかない」


「だが、卞夫人をこのまま放置しておくのは剣呑けんのんだぞ。あの公子様の母親なのだ、物事を推理する力は人並み以上のはず。書類の山だらけの汚部屋の中から、何かしらの手がかりを見つけて、公子様がいま恐るべき危難に首を突っ込んでいることを嗅ぎつけるやも知れぬ」


 そうなると、曹叡に関する重大な秘密までもが露見してしまう危険性がある。まずいものを発見されてしまう前に、卞夫人を曹丕の仕事部屋から何とかして追い出すべきだ。


 しかし、無位無官の司馬懿が「コラー! いくら母ちゃんでも息子の部屋をガサ入れすんなやー! エロ本の一冊や二冊隠していても許したれやー!」と怒鳴って、卞夫人を叩きだそうものなら、あとあと曹操に報告されて死刑コース直行である。


 いま考え得る最良の方法は、曹一族の曹真が卞夫人を上手く言いくるめ、曹丕の部屋から連れ出すことである。しかし、曹操の正夫人がよほど恐ろしいのか、彼はすっかりおびえきってしまっている。こんな曹真を見るのは初めてだった。


(うーむ。こんなところで時間を無駄にしている場合ではないのだが。どうしたものか……)


 司馬懿がそう考え込んでいると、小燕が元気よく手を上げて「私にお任せください!」と言った。


「曹丕様の部屋を荒らしている人を追い出せばいいのですよね? 幽鬼の私が『うらめしや~』って脅かして、外に出してみせます!」


「いや、しかし……相手は曹操の妻だぞ?」


「大丈夫です! 真夜中にいきなり幽鬼と遭遇したら、誰だって恐くて逃げ出しちゃいますから!」


 つぶらな瞳をキラキラと輝かせて、元気いっぱいにそう言うさまは、非常に可愛らしい。恐ろしさの欠片も見当たらない。それなのに、小燕はなぜだか自信満々である。もしかしたら、たまには幽鬼らしいことをやってみたいのかも知れない。


(首無しの時はたしかに俺もビビったが、いまの小燕には恐い要素が一つも無いんだよなぁ~……。任せてもいいものだろうか?)


 司馬懿はちょっと迷ったが、他に良策が思いつかないので、やらせてみることにした。







<曹操の息子たちについて>


 本文中で「二十人前後いる息子の中で」という記述がありますが、曹操の息子は記録で確認できるだけで二十五人いるようです。

 ただし、早世した子(没年が分からないのが多い)もいるし、記録に載っていない子もいるはずなので、「二十人前後」と曖昧な表現にしておきました。

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