度朔君のたくらみ
「うえぇぇぇん‼ 曹丕様にそんな悲しい過去があっただなんてぇぇぇ‼ お可哀想にぃぃぃ‼」
司馬懿は、心優しい幽鬼少女の頭を撫でてやりつつ、
(そういうことだったのか……。ずっと不思議に思っていた謎がようやく解けたぞ)
と、心の中で呟いていた。
曹丕は、「貴方は善き人だ」と誰かに褒められることをひどく嫌う。
善人や悪人などという他人の評価などコロコロと変わるもので、そんなものにいちいち心を揺り動かされるのは好まないと言い放ったことすらあった。
人物鑑定が流行している当世において、人格を肯定されて喜ばぬとは珍しい人だ、と司馬懿は奇異に感じていたものだが、張繍の話を聞いて深く納得した。
子供の頃の曹丕は、能力至上主義者である父に認めてもらうために、涙ぐましい努力をしてきた。父の歓心を得れば、母の
だが……非情なる父曹操はあっけなく手のひらを返した。何の落ち度もない曹丕に、長男の死の責任をなすりつけ、「この役立たずめ」と口汚く罵ったのである。
――ハン、くだらん。前にも言ったが、俺にそういう人物評を押しつけようとするのはやめろ。俺は俺なのだ。誰かに品評されて、俺という人間の生き方を束縛されるのは好かん。
曹丕がそう言いたくなる気持ちもよく分かる。親のために良い子であろうと努力してきた過去の自分が阿呆らしく感じて、他者の人物評価など
そして、曹操という反面教師の父親を持ったからこそ、「俺はどんなことがあっても我が子を見捨てはせぬ」という固い決意を抱くに至ったのに違いない。
(だが、あの幼子は……。いや、いまは余計なことを考えている場合ではない。俺に与えられた役割を果たさねば)
司馬懿は、曹丕の孤独な心境を思いやって、
「張繍将軍。罪滅ぼしをしたいという貴方の気持ちはよく分かりました。そういうことならば、是非ともご助力願いたい」
「うむ。それで、
「曹丕様と曹叡様はいま、華佗先生の屋敷にいます。敵は、曹叡様に取り憑いた
「度朔君じゃと? 曹操殿が手を焼いたあの邪神が、いまこの地にいるというのか。わざわざ
張繍も河東郡の邪神を知っているらしい。豊かな髭を撫でながらそう
「度朔君をご存知ならば、話が早くて助かります。俺と曹真殿が悪鬼袁煕の祟りを何とかするために走り回っている間、曹丕様と曹叡様の護衛を
「なぬ? あのヘタレ方士が護衛とな? たしかにそれは不安じゃなぁ。危なくなったら、さっさと逃げるやも知れぬ。よし、この張繍が助けに行ってやろう。……ただし、幽鬼の身である儂が加勢できるのは夜明けまでじゃぞ。それは分かっておるな?」
「あっ、そうだった。うっかりしてた……」
幽鬼は、陰の気が消え去り、陽の気が満ちる朝になれば、現世で行動できなくなる(ただし、人に取り憑いている悪鬼の呪いは、劉勲の娘の例を見ても分かるように昼間でも持続するようだが)。この数か月、曹丕の怪異研究の助手をしてそのことを学んでいたはずなのに、慌てていた司馬懿は、すっかり失念してしまっていた。
「あい分かりました。朝までには何とか戻って来られるように努力します」
司馬懿がそう請け合うと、張繍は「ならば、行って参る」と言い、フッ……と闇の中に消えた。
姿は見えないが、足音が闇夜に響いているので、華佗邸へと駆けて行ったのだろう。
「旦那様! 私にも何か手伝わせてください! 恩人の曹丕様をお助けしたいんです!」
「そうだな。いまは思いつかんが、手伝ってもらえることがあるかも知れん。とりあえず一緒について来てくれ」
「はい‼」
司馬懿と小燕は、かくして司空府へと向かうのだった。
* * *
鄴城の大路に並ぶ柳の木々。
その大木の陰に、
彼は、司馬懿と小燕が走り去ると、陰気な顔を面倒臭そうにゆっくり上げて、
「度朔君。司馬某が曹沖との接触を図っています。邪魔しますか? あの男……言動は馬鹿っぽいですが、かなり強い王気を感じますが」
と、頭上にいる己の主に淡々とした声でたずねた。
――いや。曹沖と司馬防の次男が合流した後で、襲ってもらいたいねぇ。二人がどれほどの才略を有しているか試してみたいから。ただし、曹沖は余が特に目にかけている『候補者』の一人だということを忘れないように。けっして殺さないようにしておくれ。それから……司馬防の息子もいちおう生かしておこうか。人間的に成熟すれば、彼も『候補者』に成り得るかも知れないからねぇぇぇ。
ねっとりとした度朔君の声が、痩身の男の脳に直接伝わる。
それと同時に、木の上から動物の頭蓋骨や細かい骨が落ちてきて、男の頭や肩に当たった。度朔君が丸呑みし、胃袋の中で血肉を溶かした後に吐き出した、犬の骨である。
男は、陰気な顔を忌々しそうに歪め、柳の枝の上にいる神を睨んだ。しかし、度朔君は意に介さず、
――それにしても、意外だったねぇ。なあ、大福。お前もそう思わないかい?
と、痩身の男――大福という名前のようだ――に思念を送った。
この神、声を発するための口はちゃんとある。だが、唇を動かすのが面倒らしく、会話はほとんどテレパシーで済ませている。よほど感情が昂った時にしか、度朔君が喉から言葉を発することはない。長年仕えている大福ですら、その肉声を聞いたのは二、三度ほどである。
「意外とは、何のことでしょうか」
別に興味は無いが、機嫌を損ねると面倒なので、いちおう訊いておくか。そう思った大福が事務的にたずねると、木の上で度朔君が体を揺らし、ざわざわと葉擦れの音がした。
――曹丕のことさ。曹操や劉備と並ぶほどの凄まじい王気を有する者だとは知っていたが……。傲慢で性悪な公子だと聞いていたから、父親と同じように『候補者』から外していたんだ。でも、まさか、我が身を犠牲にしてまで曹叡を救おうとするとはなぁぁぁ。噂というものはあてにならないものだよ、非常に感服した。
「分かりませんな。曹叡のことは殺すおつもりなのでしょう? あの幼子にも一匹の
――ダメダメ。曹叡の体には、余の期待を裏切った祖父の血がそうとう濃く流れているみたいだから。あの男こそ救世の仁君であると信じていた時期もあったんだが、本当に本当に期待外れだった。あいつの血を濃厚に受け継ぐ人間が生きているのは、
「まことに執念深い神様ですねぇ、貴方様は。それで、私には曹沖と司馬某を襲わせておいて、貴方様はどうなされるおつもりで?」
――もちろん、華佗邸を襲撃するさ。曹丕が曹叡の身代わりとなって死んでもらったら困るから、方士費長房が授けた雷神の札を彼から奪わねば。そして、悪鬼袁煕が曹叡の気を食べ尽くして蛇神になってくれれば、あとはこっちのものだ。……くどいようだが、曹沖は殺さないようにね? いいかい?
大福が「
一人になった度朔君のしもべは、チッと舌打ちしつつ木の陰から出た。
「矛盾が多すぎるんだよ、あの神は。自分が邪悪なくせして、なぜ仁者を求める。劉玄徳に拒絶されたくせに……」
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