父子の過去

 司馬懿に別離の言葉を述べると、曹丕は前に向き直り、寝台に横たわる曹叡の小さな手を握った。


 ――叡よ。死ぬでない。父がついているぞ。


 まぶたを閉じ、我が子に思念ことばを送り始める。雷神の札をつけたひたいから、パチパチと小さな青白い稲妻が生じ、曹叡の頭へと注ぎ込まれていく。


 精神感応の術は、奇天烈な踊りが必要な縮地しゅくちの術と比べたら、見た目は地味のようだ。しかし、費長房ひちょうぼう曰く、脳に大きな負荷がかかるという。


(大丈夫なのだろうか……)


 司馬懿は、曹丕のそばに寄って、顔をのぞき込んだ。しかし、札で顔の半分が覆われているため、その表情はよく分からない。


(いや……。苦しかろうが、この人は途中で術をやめたりはしない。俺もこんなところでボーっとせず、自分がやれることをやろう)


 そう思い直した司馬懿は、司空府に戻ることにした。


 夜明けまでに犬が見つからなかったら曹沖に助けを求めろと曹丕は言っていたが、夜の間ずっとここでじっとしてなどいられない。


 それに、時間が経てば経つほど、曹丕の脳への負担は重くなってくる。人体において脳がどれほど重要な役割を果たしているのか司馬懿はいまだに理解しきれていないが、費長房が言うには心の生まれる場所だという。あの方士の言葉が本当ならば、脳が破壊されずとも小さな損傷を受けただけで、曹丕の精神に異常をきたす可能性がある。


 曹沖という少年にこの事態を解決する能力があるというのならば、朝を待たずに一刻も早く接触して、悪鬼を曹叡の頭から引きずり出すための知恵を絞ってもらうべきだ。


「夜中に叩き起こすことになるが、火急の事態だ、やむを得ぬ。異母兄の危機なのだから協力してくれるだろう。……曹家の人間にしては性格がいいという噂だし」


 司馬懿はそう呟くと、部屋を飛び出した。


「司馬ちん! ワタクシ一人で戦うの心細いからそばにいて!」


「邪魔だ! どけ!」


 庭にいた費長房が泣きべそをかきながらすがりついてきたが、蹴倒して華佗邸を後にした。




            *   *   *




「旦那様ぁ~!」


 月下、大路を走っていると、司馬懿を呼び止める者があった。このとびきり明るい声は、幽鬼メイドの小燕しょうえんだ。


 そろそろ夜食の時間なので、冥界で作ったスープを届けに来てくれたのだろう。そう思った司馬懿は、声がした方角――夏侯惇かこうとん邸と曹仁そうじん邸の間にある小路――に視線を向け、「小燕、悪い! 今は夜食どころではないのだ!」と言った。


 ところが、小路から現れたのは小燕だけではなかった。死にたてほやほやの幽鬼、張繍ちょうしゅうも一緒だったのである。


「ぎ、ぎえっ! 張繍将軍!」


「何が『ぎえっ』じゃ。無礼だぞ。まるで幽鬼と遭遇したかのようにおびえおって」


「実際に幽鬼でしょうが、貴方……。いや、それよりも、こんなところをウロウロ歩いていたらダメじゃないですか。張繍将軍の訃報はぎょうの人々の耳にとっくに伝わっているのですよ。誰かに貴方の姿を目撃されたら大騒ぎになりますから、俺の部屋で大人しくしていてください。将軍のご遺族が今どこにいるかは、後日ちゃんと調べて教えてあげますから。いまはちょっと立て込んでいるので、幽鬼の貴方に構っていられないのです」


「そのことならば、解決したからもうよい。おぬしがあまりにもわしを放置するゆえ、気の毒に思ってくれた小燕が家族の行方を一緒に捜し歩いてくれたのだ。ついさっき、引っ越し先の屋敷を見つけて、妻子の無事もこっそり確認できた。これで思い残すことはもう無い」


「お……おお。そうでしたか。では、やっとあの世に行ってくれるのですな」


「いや、小燕が言うには冥府の役人とやらが迎えに来ないと冥界の住人にはなれないらしいから、当分は現世でのびのびと幽鬼生活を満喫するつもりだ。もうちょっとだけ、おぬしの部屋に居座らせてもらうぞ」


「なんでだよッ‼ 家族のところへ行けよッ‼ 屋敷を見つけたんだろーがッ‼」


 司馬懿はつい興奮して、激しいツッコミを入れた。

 厳めしい髭面の鎧武者が夜中の寝所にぬっと現れるのは、めちゃくちゃ心臓に悪いのである。


 しかし、張繍にはぜんぜん悪びれる気色けしきが無く、


「やっぱりなぁ~。生前寝起きしていたあの寝室のほうが落ち着くのだよ。というわけで、これからもよろしくな」


 などと、軽いノリで告げるのであった。


「あああああああ‼ 俺のまわりでドンドン変な奴が増えていくぅ~~~‼」


 司馬懿は膝をつき、頭を抱えながらそうわめいた。


 張繍は、そんな巻き込まれ系軍師を見下ろし、「おぬしも十分に変な奴じゃぞ? 夜中に道の真ん中で大声を上げるのは近所迷惑だからよせ」とたしなめた。


 一方、主人が何を嘆いているのかよく分かっていない小燕は、「旦那様、頭痛がするのですか?」と心配しながら司馬懿の頭をよしよしと撫でている。


「……それで、司馬仲達よ。『今はちょっと立て込んでいる』と先ほど言っていたが、何か大事でも出来しゅったいしたのか? 幽鬼の身である儂にできることがあるのならば、助けてやってもよいぞ」


「ハッ……! そ、そうだった! こんなところで油を売っている場合ではなかった!」


 絶体絶命のピンチの真っ最中であったことを思い出し、司馬懿はガバッと立ち上がる。


 そして、真剣な顔に戻って「……まことに手を貸してくださるのですか、張繍将軍」とたずねた。


「その大事というのは、曹丕様の身に起きたことなのですよ」


「なぬ? 曹丕殿だと?」


「そうです。もちろん分かっているとは思いますが、曹丕様は貴方に深い怨みを抱いています。将軍の留守中にご家族を強制引っ越しさせたのも、あの御方の嫌がらせです。それを承知の上で我らに助勢してくださると?」


 幽鬼といえど、張繍は曹操を何度も破った名将である。それに、敵は怪異なので、ただの人間だった生前の張繍よりも、死んで幽鬼になったいまの彼のほうがむしろ戦力になるはずだ。味方になってくれるのなら、非常に助かる。だが、あとになって「曹丕の手助けはしたくない。やっぱり儂は手を引く」と言われたら困るので、あえてそう確認したのである。


「曹丕殿の危機とあらば、余計に黙ってはおれぬ。あの御方の性格を歪めてしまった原因の一端は、儂にあるのだからな……。いつかは罪滅ぼしをせねばならぬと思っておったのだ」


「性格を歪めた、ということは、昔はあんなひねくれた人ではなかったと?」


「うむ。少年時代はとても良い子であったらしい。母親の卞夫人べんふじんの言いつけによく従う孝行者で、父親の曹操殿にもその将来を非常に期待されていたそうだ」


「いまの曹丕様からはぜんぜん想像できませんが……。張繍将軍との戦で異母兄の曹昂そうこう様を失ったのがよほど心の痛手となったのでしょうか」


 司馬懿がそう言うと、張繍は、自分にとっても苦々しい記憶のある十年前の合戦に思いを巡らしつつ「ああ。あの宛城えんじょうの戦いが……儂が元凶であることは間違いない」と憂鬱そうな声で答えた。


「だが、それだけではないのだ。問題はもっと根が深い。曹昂殿の戦死について両親に責められたことが、曹丕殿にとって大きな惨痛さんつうとなったらしい」


「曹昂様の死が曹丕様のせい……? 分かりません。何故なにゆえ、あの御方の責任になるのです。たしか、あの戦は曹公(曹操)が張繍将軍の義理の叔母をめかけにしたことが発端で――」


すう姉さんのことは申すでない」


 張繍は不愉快そうに眉をひそめ、司馬懿の言葉をさえぎった。


 亡き叔父の後妻だった鄒氏のことを、この男は密かに恋い焦がれていた。あの夜、曹操を急襲した際、張繍は鄒氏を奪い返そうとしたが、乱戦のさなか彼女は曹軍の兵に斬り殺されていたのである。張繍の生涯において最も苦い経験だった。


「……とにかく、曹昂殿の戦死は曹丕殿のせいではない。責められるべきは曹操殿だ。そして、彼の死を最も悲しみ、怒ったのは、その当時曹操殿の正妻であった丁夫人ていふじん……。あの頃、我が謀臣だった賈詡かくが曹軍に間諜を多数放っていたゆえ、曹家の内輪揉めは事細かに儂の耳に入ってきた」


 そう言うと、張繍は、間諜の報告で知った「曹家の内輪揉め」について語りだすのであった。




            *   *   *




 張繍の話によれば――丁夫人は、曹昂に馬を譲られて自分だけ逃げた曹操の非人情を憎み、


「私の息子を死なせておきながら、貴方は平気な顔をしているのね!」


 と、泣きながらはげしくなじったという。


 曹昂は丁夫人が産んだ子ではない。生母の劉夫人りゅうふじんが早世したため、子がいなかった丁夫人が養育したのだ。しかし、彼女にとっては、実の子のごとく愛おしい息子だった。

 その曹昂を、曹操は戦場に置き去りにして死なせた。許せるはずがない。曹操の顔を見るたび、「子殺し!」と罵った。


 曹操も、長男の死が己の責任であることを自覚している。だが、痛いほどよく分かっているからこそ、それを毎日責められるのは耐え難かった。


(ちょっと冷静になるまで、別居したほうがお互いのためだ)


 そう考えた曹操は、丁夫人を実家に帰した。ほとぼりが冷めるのを待って、迎えに行くつもりだった。しかし、愛児を失った母の絶望が終わることなど、あるはずがなかったのである。


 そろそろ機嫌が直っただろうと思った頃合いに、曹操は丁夫人の実家を訪れた。曹操は彼女の部屋に入ると、妻の背中をさすって、


「さあ、こっちを向いて。一緒に帰ろう」


 と、語りかけた。


 しかし、丁夫人は頑なに夫を無視し、ついにひとことも言葉を返さなかったのである。


 この時、曹操はようやく、丁夫人との愛がとっくに破局を迎えていたことを悟った。


「そうか。それがそなたの答えか。だったら、これでいよいよお別れだな」


 乱暴にそう言い放つと、曹操は丁夫人の家を去った。




 英雄色を好むと言うが、曹操は三国志の時代における好色漢の代表格である。この女好きの奸雄かんゆうにとって、息子の死よりも、自分の女に見限られてしまったという事実のほうが痛恨事であったようだ。丁夫人との離別を正式に決めた彼の心は大いに荒れた。居城に戻ると、まだ兄の死から立ち直れずにいた十一歳の曹丕に八つ当たりして、言ってはならない言葉を口にしたのである。


「丕よ。お前も昂に馬を譲られて助かったそうではないか。俺もお前も同罪なのに、なぜこの父だけが責められねばならぬ。お前が兄に馬を譲り、昂を生きて返してくれさえすれば、俺は妻と離縁せずに済んだのだ。……側室の子が正室の子を犠牲にして生き残るなど、あってはならぬことだ。この役立たずめッ‼」


「ち、父上……」


 能力至上主義の曹操は、使える道具は愛で、使えないガラクタには冷眼を向ける。もちろん、自分の息子たちに対しても――妻妾や娘など女たちは無条件で可愛がったが――才能の優劣によって愛情に軽重けいちょうの差をつける。


 その厳しい家庭環境の中で、曹丕は父の期待に応えるべく武芸と学問を日々励んできた。その努力の甲斐あって、宛城のあの敗戦の日までは、「そなたは行く末頼もしき曹家の男子じゃ」と評価され、曹操に愛されていた。


 しかし、たった一度の失敗(といっても、戦の敗因を作ったのは曹操であり、曹昂の死は不可抗力だった)で、役立たずの烙印らくいんを押された。あまりにもひどい手のひら返しである。


 もしも、曹丕が後世の詩人杜甫とほの『貧交行ひんこうこう』を知っていれば、「これこそ『手をひるがえせば雲となり、手をくつがえせば雨となる』というやつだ」と呟いて嘆息したことであろう。


麾下きかの将軍たちが戦に負けて逃げ帰っても、父は寛容さを見せ、彼らに次の機会を与えている。それなのに、息子の俺に対してはこの心の狭さ……)


 曹操の狭量な態度の理由は、一つしか思い当たらない。女が絡んでいるからだ。この好色な父は、いつも女で狂い、しくじってきた。正妻と離別した苛立ちを側室の子である俺にぶつけているのだ、とさとい子供である曹丕はすぐに察した。


(こんな馬鹿な話があるか。父親というのは、こんな簡単に我が子を見放すものなのか)


 曹丕少年の心の中で、これまで培ってきた価値観や父への敬愛の情が、ガラガラと崩れ去っていく音がした。ずっと父を尊敬し、役に立ちたいと思っていた自分が、ひどく滑稽に感じられてならなかった。


 だが、曹丕はまだ十一歳である。恐ろしい父親に理不尽に罵倒されても、言い返す勇気は無かった。


 彼は、そばにいた卞夫人にすがるような目を向け、無言で助けを求めた。生母である彼女なら自分をかばってくれるはずだと思ったのだ。だが……。


「丕よ。何をしているのです。お父上にお叱りを受けているというのに、呆然と立ち尽くしている愚か者がいますか。そこにひざまずきなさい。さあ、早く! 誠心誠意、謝罪して、許しを乞うのです!」


 卞夫人は血相を変え、我が子の背中を烈しく打ち叩き、膝をつかせ、額を地面に押しつけた。


 曹操は、この時点では、次の正妻を誰にするか明言していない。


 しかし、多くの子を産んでいる卞夫人が有力であることは、誰もが予想していた。


 正室の座が眼前でちらつき、側室に過ぎなかった卞夫人の立場は変わりつつあるのである。これまで卑屈なほど従順に夫に奉仕していた彼女も、


「私が産んだ子が生きて帰って来たのに、なぜ貴方は喜んではくれないのですか」


 と、言いたいことを堂々と口にしても、許されるはずだった。


 だが、己の卑しい出自に負い目を感じている卞夫人は、夫に抗弁するなどとんでもないことだと頑なに思っていた。


 絶大な権力を持つ夫にびることこそ、自分と我が子たちの生きるすべ。曹操に逆らい、息子を庇うような真似をするのは、逆に曹丕のためにはならない。母である私の身分が低いのだから……。卞夫人はそう信じ、罪無き我が子を折檻せっかんしたのである。


(母は、父を恐れて、俺を庇ってはくれないのか。では、俺が生還したこと自体が、親不孝だと……?)


 曹丕は母に打たれながら、絶望的な気持ちにとらわれていた。



「やや。こんな庭の真ん中で何をしているのです。父と母が同時に子供を烈しく叱るなど、良いことではない。おやめなされ。子桓が額から血を流しているではないか」


 騒ぎを聞きつけた曹仁(曹操の従弟)が駆け寄って来て、卞夫人を曹丕から引き剥がしたことで、折檻はようやく終わった。


 この頃には、曹操もようやく冷静になってきていて、


 ――しまった。取り返しのつかないことを息子に言ってしまった。


 と、内心後悔していた。


 ばつが悪そうに顔を歪め、「悪かった……。言い過ぎた」とひとことだけ曹丕に謝ると、その場から逃げるように立ち去った。


 曹操という男の不思議さは、万人が恐れおののく悪事を平気でやってのけるくせに、時として我に返って、己の非人間的行動に戸惑ってしまう善良さをわずかながら持っているということである。



 曹操は、自己嫌悪に陥って、持病の頭痛を発症した。そのため、部屋に数日引き籠った。


 しかし、その後も数か月ほど、気まずさから曹丕との接触を避け続け、父子の関係を修復する努力を怠った。


 その間に、曹丕は自分の心から完全に父親を追放していたのである。

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