雷神の札

 費長房ひちょうぼうが修行時代、天上の仙人から聞いた話によれば――。


 人間が物を思う時、ごく微弱な稲妻が、脳内において発生しているという。


 その稲妻(現代で言うところの脳の電気信号)こそが、いわば心のエネルギー。曹丕が推理していた、天から人の頭に降りてくる未知のエネルギーの正体は、これである。


 天より注がれた小さき稲妻が脳内を走り回ることによって、人の思考と感情は湧き起こるのだ。


「つまり、えいの頭の中に侵入した悪鬼は、心の発生源とでも言うべき稲妻を喰らっているというのだな?」


「ええ。曹叡様が苦しめば苦しむほど、負の感情の稲妻が発生し続けます。悪鬼はそれをむさぼり食っているのかと。これぞまさしく悪循環。このまま放置していると、幼い子供の脳などすぐにズタボロになってあの世行きです。曹叡様の死を遅らせるためには、脳の破壊を防がねばなりません」


「で、その手だては? どんな術を使うのだ」


「術に必要な札をいまから準備します。ちょっとお待ちください。……ねえ、司馬ちん。縄をほどいてくれますぅ~? これじゃ動けないんでぇ~」


「誰が司馬ちんだコラ。こんな非常時にふにゃふにゃした喋り方をしやがって……」


 そう文句を言いつつも、司馬懿は費長房のいましめを解いてやった。


 腕が自由になった費長房は、ふところから白紙の札を二枚取り出す。そして、玉容ぎょくように筆を所望して、さらさらと流れるような筆使いで奇妙な絵を描き始めた。


「これは……龍か? 意外と上手いな。しかし、どうしてこの龍は人の顔をしている? 伝承で聞く人類の創造主、伏羲ふくぎ女媧じょかの二神にそっくりではないか」


 のぞきこんだ司馬懿がそう呟いて首を傾げると、「それは雷神の絵だ。伏羲の母親は、雷神が棲む雷沢らいたくの地で巨大な足跡を踏み、その直後に伏羲を身籠ったという」と曹丕が言った。


「つまり、伏羲の母親は、雷神の足跡を踏んだことで、雷神の子を授かったということですか。人類の創造神の父は、雷神だった……。だから、雷神は人の顔をしていて、人間の脳内には小さな稲妻が生じていると?」


「伏羲の母親が踏んだとされる巨大な足跡が雷神のものであるというハッキリとした証拠は無いが、その可能性は高い。雷神の外見については、『山海経せんがいきょう』にも、雷神は龍身人頭で己の腹を叩く、という記述がある」


「己の腹を叩くって……。もしかして、天から落ちてくる雷って、雷神がポンポコ腹を叩きながら降らしてるんですか? だ、ダサい……」


「ダサいとかダサくないとかは、いまはどうでもよいことだ。……それで、費長房よ。雷神を描いた札二枚で何をするつもりだ」


「この札をですね、二人の人間がそれぞれのひたいにつけるのですよ。すると、天空にいる雷神が力を貸してくれて、自分の脳内で生じた稲妻――すなわち己の思考や感情をもう一人の人間の脳に伝達することができるのです」


「つまり、精神感応せいしんかんのうの術が使えるということか」


「はい。それが雷神の札の本来の使い道です」


 精神感応、すなわちテレパシー。思念が宿った心の気脳の電気信号を他者の脳に飛ばすことで、言葉を使わずに意思疎通ができる術である。


 縮地しゅくちの術といい、この精神感応の術といい、費長房は見かけによらずかなり高等な方術を知っている。これでもうちょっとやる気のある性格だったら、頼れる方士として尊敬できるのに……と司馬懿は残念に思った。


「悪鬼と化した袁煕えんきは、脳内に生ずる稲妻を喰らって叡を苦しめている……。だったら、俺が精神感応の術を用い、叡の脳に我が思念を流し込み続けてやれば――」


「それはすなわち、貴方様の心の気である稲妻を、曹叡様に注ぎ込むことと同義。悪鬼はもちろん、曹叡様ではなく、子桓しかん(曹丕のあざな)様の心の気のほうを食べ始めることでしょう。子桓様のように強い精神力を持った御方が発する気ならば、幼子のものよりもずっと美味しいでしょうからね」


「なるほどな。そうすることで、叡の心の気の消耗と脳の破壊を遅らせることができる……というわけか」


「ただ、雷神の札を長時間使うのならば、気をつけてくださいね。心の気を送る側は脳に大きな負荷がかかってしまうので。札を身につけた両者の距離が離れれば離れるほど、その負担は増していきます。だから、術の使用中は曹叡様から極力離れないことをお勧めします」


 費長房は、他人事のように、不安になることをさらりと言う。


 嫌な予感がした司馬懿は、


「その脳への負担とは、具体的にどれほどなのだ。最悪死ぬとかじゃないだろうな」


 と、問うた。


 だが、費長房は「さあ~……」と曖昧な返事しかしない。費長房も短時間しか使ったことがない術なので、実はよく分からないのである。


「さあ~って……。やっぱり胡散臭い奴だなぁ、お前。そもそも、人の心のありかは、心臓ではないのか? 脳みそが心にとってそんなに大事な場所だなんて、にわかには信じられんぞ。

 ……公子様、この男の言うことを信じてよいものでしょうか。こいつの不真面目な態度を見ていると、だんだん不安になってきました」


「信じるさ。費長房は、普段はやる気が無いダメ人間だが、方術の腕と知識だけは確かだ。その雷神の札、俺は試すぞ」


「し、しかし、費長房の口ぶりでは、かなり危険な術のようですよ。どうしても試すのなら、費長房にやらせてみたらどうです?」


「ええっ⁉ ワタクシがやるの⁉ ムリムリムリムリムリ‼」


 顔を青ざめさせたヘタレ方士は、折れそうな勢いで首をブンブンブンと横に振った。


 費長房が恐れるのも無理はない。

 現状、悪鬼袁煕を曹叡の頭から追い出すのに必要な白犬が手に入っていないのだ。ぎょうの城内の犬が全て白骨化していたら、別の城邑まちか村々まで探しに行かねばならない。その間、雷神の札を使う者は、曹叡の身代わりとして悪鬼に心のエネルギーを吸われ続けることになる。下手をしたら、司馬懿が危惧するように最悪死んでしまうだろう。


「安心しろ。お前にやらせはせぬ」曹丕はかぶりを振った。「さっきも言っただろ。犠牲がいるのなら俺が引き受けると。我が子の身代わりとなる役目を他人に押しつけるほど曹子桓は腐ってはおらぬわ」


 まだ二十一歳と年若い父親でありながら立派な覚悟である。だが、不思議なことに、その決意の言葉が、司馬懿には虚しい響きのように聞こえた。


 先ほどから曹丕は、我が子を守る、我が子を守ると執拗に口にしている。司馬懿も、愛する妻子を守るためならば、命を懸けられる自信がある。


 しかし……父としての決意を曹丕が語る時、彼特有の炯々けいけいたるまなこの輝きが消え失せているのはどういうことなのか。何かしらの迷い、あるいは後ろめたさがあるからではないのか。


 その迷いと後ろめたさの正体を司馬懿はおおよそ察してはいたが、費長房の手前なのでそれはあえて口にせず、「良策とは思えませぬ」とやや慌てた口調で諌止かんしした。


「怪異に対抗できるのは、公子様だけなのです。費長房が言う精神感応の術とやらを実行したら、公子様は曹叡様のそばから身動きが取れなくなるではありませんか。いったい誰が、悪鬼を退治する知恵を絞るのです。犬が見つからなかったら、次の対応策が必要となるというのに……」


「俺をしのぐ知恵者が、この鄴城に一人いる。真が夜明けまでに犬を連れて来なかったら、その者に知恵を絞ってもらえ。その者は俺の秘密を全て知っている数少ない人間の一人だ。あらかじめ袁煕の件は話しておいたゆえ、きっと力になってくれる」


 曹丕は、華佗邸の隠れ部屋がある方角をチラチラ見ながら、そう言った。曹叡の苦しげなうめき声がだんだんと大きくなり、庭にいる曹丕たちの耳にまで届くようになっている。


「ほい、できましたよ」


 費長房が、完成した雷神の札二枚を、曹丕に手渡した。


「これを子桓様と曹叡様の額にひっつけて、心の中で伝えたい言葉を呟けば、びびびーっと脳の稲妻が言葉と一緒に曹叡様の頭に送られます」


「使い方は案外簡単なようだな」


「簡単ですが、脳への負荷は想像以上ですからね。長時間使用して子桓様が死んじゃっても、それは自己責任なので。『死んだのはボクのうっかりです。雷神の札をくれた費長房くんは何も悪くありません』と遺書をちゃんと書いてから使って――」


「お前の冗談を聞いている暇は無い」


「いや、冗談じゃなくてガチな話で……」


「費長房よ。俺が精神感応の術を行っている間、お前はこの屋敷周辺を警備していろ。度朔君どさくくんが何か仕掛けて来たら、妨害されないように華佗邸を死守するのだ」


「はえええ⁉ ワタクシが度朔君と戦うの⁉ 無理に決まってますやーーーん‼」


「逃げたら殺す。励め」


「励めないからぁ~~~‼」


 悲痛な声で泣きわめく費長房を庭に放置して、曹丕は雷神の札を握りしめながら屋敷内に戻って行った。


 司馬懿は慌てて追いすがり、「お待ちください!」と叫ぶ。


「公子様を凌ぐ知恵者とは誰のことです。そのような鬼才、この城で見かけたことがありませぬ」


「その者とは、お前は一度、司空府ですれ違っている」


「身に覚えがありません。その人の名はいったい――」


曹沖そうちゅうあざな倉舒そうじょ。何度か話したことがあると思うが、俺の異母弟だ。大いなる徳と智を兼ね備えたあの者こそ、曹家を継ぐのに最もふさわしい。俺よりもずっと頼りになる公子だ」


 そう言いながら、曹丕は隠し通路をずんずんと早歩きで進んで行く。


 司馬懿は走って回り込み、曹叡がいる部屋のすぐ前で、曹丕の行く手を塞いだ。


「あ……貴方よりも頼りになるというのは言い過ぎでしょう。曹沖様はたしかまだ十二歳のはずです。悪鬼と戦えるはずがありません」


「さっきからぐだぐだと……わざとらしく執拗に食い下がりおって。いったい、どういうつもりだ。俺の邪魔をしたいのか」


「そ、それは――」


「つべこべ言わず、そこを退け! 幼子の命がかかっているのだぞ!」


「…………」


 邪魔をしたいのかという曹丕の指摘は、司馬懿にとってやや図星だった。危険な術を使おうとする曹丕を止めたかったのだ。


 しかし、幼子の命がかかっていると怒鳴られたら、退くしかない。苦々しい表情で道を開け、曹丕を通した――が、すれ違った瞬間、彼の着物の袂をとっさにつかんで「公子様!」と叫んでいた。


「貴方の肩にのしかかっている業は……罪は……本当に貴方が背負い込まねばならぬものなのですか? 水仙様と曹叡様を守ることが、貴方の幸福になり得るのですか? もしも俺が貴方だったら、孤独と不安のあまり途中で何もかも投げ出してしまうと思います。いくら聡明とはいえ、お若い貴方一人で背負えるものではないでしょう、曹叡様のあの秘密は……!」


 ついに核心に触れてしまった。この場で斬り捨てられるかも知れない。


 司馬懿はそう思いながらも、悲辛ひしん耐えがたく怒鳴っていた。あまりにも理不尽だと感じていたのだ。曹丕ただ一人が苦しまねばならないのが。


「……一人ではない」


 振り向かず、曹丕は言った。激昂していた先ほどとは違い、その声音は意外なほど優しかった。


「華爺さんがいる。沖も叡のことをすでに知っている。それに――俺には司馬仲達という無二の片腕がいる。お前は頼りになる男だ。俺の力になってくれると信じている」


「なっ……」


 初めて曹丕に手放しで褒められた。その衝撃で、司馬懿は手をはなしていた。


 寝台に歩を進めた曹丕は、自身と瀕死の我が子の額に雷神の札をはりつけ、その場に正座する。そして、ようやくふり返って、ニヤリと口角を上げた。顔の上半分は札に隠れていて見えないが、きっといつものように悪戯っぽい目をしていることだろう。


。期待通りだぞ、仲達」


「公子様……。では、やはり……」


「俺は、我が秘密を知られたうえで、お前にこの命を預ける。怖気づいたのなら裏切って故郷の孝敬里こうけいりに帰っていいし、俺のことを好いているのならば全力で俺を助けろ。どうするかはお前の自由だ。じゃあな、司馬仲達」








<雷神の札と精神感応の術について>


 このあたりは文献にはなく、ほとんど私のオリジナル設定です。


 AI関連の本で得た脳の電気信号の知識と、古代中国の雷神の伝承を私なりに組み合わせてみました。


 脳の電気信号については完全なる素人なので、おかしいところがあるかも知れませんが、そこらへんは許してチョンマゲ……( ̄▽ ̄)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る