費長房再び

 犬八匹がそろって骸骨になっていたなど、にわかには信じ難い話だが、とにかくいまは、犬たちのむくろが見つかった場所を検分せねばならない。曹丕と司馬懿は、玉容に案内されて、屋敷の前庭に出た。


 許褚きょちょが破壊した正門からやや離れた所に、薬草園とは区別して、華佗が観賞用に作った花畑がある。その花畑の一区画に、冥界に咲く花のように寂しげなたたずまいの秋牡丹あきぼたん(シュウメイギク。アネモネの仲間)が月影に濡れて咲いていた。犬たちの白骨化した遺体は、その花茂みの中に横たわっていた。


子桓しかん(曹丕のあざな)様、こちらです」待っていた曹真がしゃがみこみ、手で指し示す。「骨格から見て犬だと思います。あたりの地面を調べましたが、内臓どころか肉片ひとつ落ちておらず、血を流した形跡すらありません」


「夕方には元気に生きていた犬たちが、なぜこんな変わり果てた姿に……。長い歳月を経て腐敗と風化が進まねば、こうはならないはずです。これは人の仕業とは思えませぬ。悪鬼がこの屋敷に侵入する際、犬たちを始末したのでしょうか?」


 司馬懿がそう問うと、曹丕は苛立った声音で「あの袁煕えんきがか?」と言い、司馬懿を睨んだ。


「俺に嫁を奪われ、おめおめと北方に逃走し、みじめに死んだ大馬鹿者だぞ。悪鬼になったからといって、そんな御大層なことを鮮やかにやってのけるとは、とうてい考えられぬ。魔除けの力を有した犬八匹を相手に、ウンともスンとも吠えさせず、肉を喰らって血をすすり、骨だけにしただと? ……ハン! そんな器用なこと奴にできるものか!」


「ということは、別の何者か――先ほど話していた『協力者』がいると?」


「だろうな。しかも、かなり用意周到で、狡賢ずるがしこい奴だ。袁煕に霊力を増幅させるすべを教え、叡に取り憑くようにそそのかしただけでなく、昨日まで悪鬼化していなかった彼奴あやつの魂を暗黒面に堕としたのも、恐らくはその『協力者』だろうからな」


「それはいったい誰なのです。公子様は、心当たりはないのですか」


「……怪異の方面で、ここまで鮮やかに俺や華爺さんを出し抜ける者など、限られてくる。悪鬼袁煕を裏で操っているのは、度朔君どさくくんに違いない」


 曹丕がその名を口にすると、曹真は「ど、度朔君ですと⁉」と驚きの声を上げた。勇猛果敢なこの若者にしては珍しく、ひどくおびえている様子である。


 度朔君のことを知らない司馬懿は、「どこのどいつです、そのへんてこな名前の人間は」と訊く。


「人間ではない、神だ。二年前、俺のクソ親父が戦い、完敗した相手だ」


「えっ? か、神? ま……またまたご冗談を」


「こんな時に冗談など言うものか。あの邪神がしゃしゃり出て来たからには、これはもう戦だ。こちらも迅速に手を打たねばならん。……真よ。ただちに司空府に戻り、今から伝える命令を実行せよ。俺の息子の命に関わることゆえ、大急ぎで取りかかるのだ」




            *   *   *




 曹丕は、曹真に二つの任務を与えた。


 一つ目が、部下の兵を使い、ぎょう城内をくまなく捜索して白犬を確保すること。


 二つ目が、遊郭に毎夜入り浸っている方士費長房ひちょうぼうを華佗邸に連れてくることである。


 拝命した曹真が部下の兵を集めるため司空府に戻ると、曹丕と司馬懿は華佗が作った隠し部屋に戻った。


「あの胡散臭い方士、ちゃんと役に立ってくれますかねぇ。この間だって、俺たちが馬超に追いかけ回されていた時、ずっと便所にこもって下痢ピーしてたし……」


 いまいち費長房を信用できない司馬懿は、そう不安を述べた。


 寝台の曹叡そうえいは、相変わらず苦悶の声を漏らし、鼻口びこうからは黒い煙をもくもくと出し続けている。


 曹丕は「俺もあいつを心底頼りに思っているわけではない。だが、いまはどんなものでも、役に立つ可能性があるのなら利用したいのだ」と眉をしかめながら答えた。


「犬の血が手に入るのなら、それに越したことはないのですが……」


「度朔君は、あのクソ親父も手を焼くほどの狡猾な神だ。叡を救う邪魔をするつもりで動いているのならば、恐らくは徹底的にやるはず。俺に犬の血を使わせないために、この城邑まちの全ての犬を消している可能性がある。

 だから、やや頼りなくても、費長房を助っ人に呼んだのだ。奴は、怪異と戦った経験と会得した方術の数だけは、どの方士よりも豊富だ。もしかしたら、何らかの策を提案してくれるやも知れん」


「う~む、それでも心配だ。…………あっ。ちょっと待ってくださいよ? もしかしたら、俺の泰山環たいざんかんで曹叡様を救えるのではないですか? この剣は、悪鬼のけがれで怪物化した馬超を一蹴するほどの霊剣なのだから――」


 そう言いつつ、司馬懿は勢い込んで泰山環を抜いてみた。


 が、穢れに反応して光るはずの刃は、なぜか輝かない。怪物馬超と対峙した時みたいに剣が伸びたりもしない。司馬懿は思わず「またかよ⁉」と叫んでいた。


「え? え? どゆこと? 目の前にガチで呪われている幼児がいるのに、どうして悪鬼の穢れに反応しないの? ……おいコラ! 仕事しろや、バカ霊剣!」


 この剣にさんざん追いかけ回された不快な記憶が蘇り、司馬懿は大人げなく怒鳴った。すると、泰山環は自らの剣身をぐにゃりと曲げ、


 ぷいっ!


 と、そっぽを向いた。剣にあるまじき反抗的態度である。


「……お前、さてはその剣に嫌われたな。どうせ俺の言ったことを守らなかったのだろ」


 いつもなら司馬懿がドジを踏むとからかったり笑ったりする曹丕が、今回ばかりは心底呆れた表情でそう言った。息子の非常時なので、部下のおっちょこちょいを楽しがっている余裕はさすがに無いらしい。


「剣に嫌われるとかアリなんすっか……?」


 司馬懿はひどく困惑した声でそう言ったが、これは自業自得というものである。この霊剣には自我がある(しかも汚いのが大嫌いな潔癖症)と曹丕から教えられていたにも関わらず、道端の馬糞を泰山環でツンツンしようとしたり、懲罰ちょうばつと称して柱に縛ったりしたのだ。嫌われるに決まっている。




 泰山環が霊剣としての役目を果たしてくれない以上、曹丕と司馬懿は曹真が帰って来るのを待つしかない。二人はじりじりする思いで無為の時間を無言で過ごした。


 やがて、玉容が部屋に入って来て、「曹真様が、費長房殿を連れて来ました」と報せた。


 待ちかねていた曹丕は「いま行く」と言ってうなずいた後、「……ところで、水仙はどうしている?」とたずねた。


「しばらく落ち着いていらっしゃったのですが……。曹叡様の所に戻りたいと興奮しておっしゃるので、眠り薬を入れた茶を差し上げ、眠っていただきました」


 玉容はしれっとした顔でそう答えた。


 曹家の嫁に一服盛るとは、大胆なことをする女である。権力者にも遠慮せず物を言う名医華佗の妻なだけのことはある。


 だが、これで、取り乱した水仙が悪鬼と対峙している最中に乱入してくる心配は当面無くなった。曹丕は「そうか……。それで良い」と言い、司馬懿を従えて庭に再び出た。




            *   *   *




「ぴえ~ん! どうして毎回々々、香雪こうせつちゅわんとイチャイチャしている最中にワタクシを呼び出すんですかぁ~! 香雪ちゅわんと縄で縛り合いっこして熱い夜を過ごそうと思っていたのにぃ~!」


「おっさんがぴえんとか言うな、気色悪い。そもそも、いままさに縄でグルグル巻きになっておるではないか。……真よ。どうしたのだ、これは」


 曹丕が指摘した通り、費長房は縄で縛られた状態で曹真の足元に転がされていた。


「手荒な真似をするつもりは無かったのですが――」と答えつつ、曹真は費長房に軽蔑の目を向ける。「この男が逃げようとしたもので、香雪という妓女ぎじょが手に持っていた縄を借りて捕縛しました」


「なるほど。そういう事情なら、多少の手荒な真似はやむを得ぬな」


「こ……こんな夜中に子桓様からお呼び出しと聞けば、フツー逃げますよ! どうせろくな用事じゃないんだし!」


「たしかにろくな用事ではない。しかし、お前に逃げる権利があると思うな。次に逃げようとしたら殺すから肝に銘じておけ」


「ほ、ほええ……。子桓様ったら、相変わらずワタクシにはすっごく厳しい……」


 前にも書いたが、費長房は曹丕に命を救われた過去がある。また、無銭飲食をして飯屋の主人に捕まり、半殺しの目に遭っていた時も、たまたま通りかかった曹丕が銭を払って助けてやったことがある。他にも、この方士は曹丕に色々と借りがあって、頭ごなしにあれこれ命令されても逆らえる立場ではない。泣く泣く「ろくでもない用事」に付き合うしかないのだった。



「……子桓様。現在、我が隊の兵たちに白犬探しをやらせていますが、今のところ白犬どころか他の毛色の犬すら一匹も発見できていません。まるで城邑から犬が一斉に消えたかのようです」


 曹真がそう報告すると、曹丕は(やはり、思った通りであったか)と心中舌打ちした。


「野良犬だけでなく、犬を飼っている家も、もちろん当たってみたのだろうな?」


「はい。ですが……どこの家の犬も、華佗殿の犬と同じでした。いま鄴城の方々の屋敷では、白骨化した犬の骸が飼い主に発見され、大騒ぎになっています。『夕方までは庭を元気に走り回っていた。奇怪極まりない』と皆が口をそろえて証言していまして……」


「あい分かった。念のため、引き続き捜索させろ。夜が明けたら、いったん戻って来い」


「あの……子桓様。お気を悪くせずお聞きください。度朔君のような恐るべき邪神が和子わこ様に災いをなしているとあらば、これは曹家の一大事です。今回ばかりは、主公との(曹操)に速やかに報告し、指示を仰いだほうがよろしいのではないでしょうか。たぶん、我々だけの力では、度朔君には太刀打ちできないかと……」


 遠慮ぎみに曹真がそう提案すると、曹丕は秀眉しゅうびをピクリと動かし、「その必要は無い」と突き放すように言った。


「親父がこの鄴城に帰還するのにはまだ時間がかかる。助けを求める手紙を送ったところで、親父の手元に届く頃には叡はとっくに呪殺じゅさつされている。お前の提案は無意味だ」


「…………」


「そもそも、迷信嫌いで怪異の知識をほとんど持たぬ親父が、度朔君をどうこうすることなどできぬ。二年前も、あの邪神に手玉に取られていたではないか。余計なことは考えず、お前は犬探しに全力を尽くせ」


「……御意ぎょい


 曹真は、気の毒なほどしょげかえり、すごすごと華佗邸を出て行った。


 嫌な奴だけどちょっと可哀想だなぁ……と司馬懿は思ったが、同時に曹丕が曹真を完全には信用しきれない理由も分かったような気がした。


 曹真は、度朔君という得体の知れない邪神の登場に動揺し、自分たちではどうしようもないのではないかと考えた。そこで曹操にすがることを提案したのだ。それはつまり、彼がそれだけ父親代わりの曹操を頼みに思っているという証である。父に絶対に知られてはならない秘密を抱えている曹丕にとって、曹真の曹操心酔は大きな不安材料に違いない。兄弟同然の曹丕と父親同然の曹操を天秤にかけた際、曹真がどちらに傾くのか、あの様子ではちょっと分からない。これでは秘事を明かせぬはずである。


「あの~……。いま、度朔君って言いました? やっぱり帰っていいです? そんなガチやばなのと戦いたくないんですけど」


 費長房は恐るおそるそうたずねた。だが、曹丕が許可するはずがない。「そんなに嫌なら帰ってもいいが、その代わり首は置いていけ」とゾッとするほど冷たい視線を向けながら恐いことを言った。いつもの余裕綽々とした笑みが消えて真顔のため、ただの脅しでも、本気で首をねかねない凄みがある。


「く……首を置いていったら、死んじゃうじゃないですか。わ、分かりましたよぉ……。協力すればいいんでしょ? はぁ~……」


「物分かりが良くて大変けっこうだ。で、費長房よ。人間の脳に取り憑いた悪鬼を追い出す護符はあるか。俺の息子が袁煕に祟られているのだ。犬の血を使って呪いを払おうとしたが、度朔君めの妨害が入ってしまった。念のために朝まで真に探させるつもりだが、恐らく城内の犬は全て白骨死体になっているであろう。手早く悪鬼を追い払える護符があるのならば、叡のために貸して欲しい」


「ああ~駆鬼くき除災じょさいの護符ですか。数年間までは持っていたのですが、野糞をした時に尻を拭くものが無くってですね……。ちょうど手元にあった護符で拭いたら、使えなくなっちゃいました。てへっ☆」


 そう言った次の瞬間、費長房ののっぺりとした顔は曹丕に踏まれていた。


 ぷぎゃっ、とおバカ方士は珍奇な悲鳴を上げる。


「その顔と態度がムカつく。てへっとか言うな」


「ず……ずみまぜん……」


「……護符で悪鬼を払えぬのなら、何か別に方法は無いのか。叡は袁煕に気を吸われ続け、今にも死にそうなのだ。時間が無い。早く何とかせねばならぬ」


「う……う~む。ワタクシの知っている術で、曹叡様が悪鬼に呪殺されるまでの時間を遅らせることはできると思います。ただ、誰かが大きな犠牲を強いられることになりますがぁ~」


 費長房が鼻血をたらしながら答えると、曹丕は「何でもいい。その術とやらを教えろ」と言った。


「犠牲がいるというのならば、この俺が引き受ける。俺はクソ親父とは違う。必ずや息子を我が命に代えて守ってみせる」

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