蛇が喰らうもの

 曹叡のうわごとを聞いた司馬懿は、顔を強張らせ、「まさか、頭の中に……」と呟きながら曹丕を見た。


 曹丕は「どうやら、そのようだ」と言ってうなずく。


「頭部が、異常に膨れ上がっている。悪鬼化した袁煕えんきは今、叡の脳内に寄生していると見ていい。喉にあるうちに華爺さんが処置をしてくれていたら良かったのだが……虎痴こち許褚きょちょのあだ名)のせいで機を逸した。体内深くに潜り込まれてしまったからには、にんにく漬けの酢を飲ませて追い出す手はもう使えまい」


 曹丕は寝台に近づき、右手を伸ばして息子の頭に触れようとした。


 だが、水仙がその腕にしがみつき、「やめて!」と叫んだ。


「お願い、やめて! 殺さないで! この子のことは最後まで見捨てないという約束でしょう⁉」


「奥方様、何をやっているのですか。公子様の邪魔をして、どういうつもりです。しっかりしてください」


 さては錯乱したか、と思った司馬懿は、水仙を強い語気でいさめた。


 しかし、よく見ると、彼女の双眸そうぼうには、狂気をまとった人間特有の妖光ようこうがみとめられない。気が触れたわけではなく、真剣に夫が我が子に危害を加えると心配しているのだ。


「落ち着くのだ、水仙。おびえるな」


 曹丕は、自分に取りすがる妻の細腕に、左の手をそっと置いた。


貴女あなたは誤解している。俺は『ここまでもだえ苦しんでいるのならば、ひと思いに楽にしてやろう』とは考えていない。

 叡は俺の子、親は子を守るものだ。この子が産まれたあの日、俺は天上の神々と妻の貴女に誓った。叡を最後まで見捨てぬとな。たとえどんな大罪を犯そうとも、その誓約だけは破らぬ」


「で、でも……。貴方は、ぎょう城に立て籠もった袁家の将兵をおおぜい餓死させた、冷酷なあの御方の血を引いています。腐った根を断とうと考えているのではないのですか。私は……私は……曹一族に流れる残酷な血が恐ろしいのです」


「そうだな。貴女が言うように、俺の親父は、冷酷なる梟雄きょうゆうだ。曹孟徳の息子である俺を信じられぬ気持ちはよく分かる。だが、貴女は信じていた前夫に裏切られ、その結果、我が子を危険にさらしてしまったではないか」


「そ……それは……」


「最愛の男を信じたいと思う気持ちを責めるつもりはない。しかし、この期に及んでは、今の夫である俺を信じるしか道はあるまい。……叡を救えるのは、父親の俺だけなのだ。迷っている暇は無い。その手をはなしてくれ、水仙」


 噛んで含めるように、曹丕は水仙を諭す。


 この若者は、くどくどと同じことを言い募られるのが大嫌いなはずである。他の者がここまで執拗に食い下がれば、拳の一つや二つ飛んでいるに違いない。そこを耐え、水仙を辛抱強く説得しようとしている。曹丕がいかに彼女を深く愛し――いや、奇妙なほど遠慮をしているかが、司馬懿にはよく分かった。


「う……裏切られたわけじゃ……。何かきっと理由が……あるはず……」


「たしかに、袁煕は最初、悪鬼化していなかった。屋敷の外で仲達に発見された、邪気を持たぬ蛇が、恐らく袁煕であったのだろう。それが突然悪鬼化したのには、貴女の言うように何らかの原因があるはずだ。

 しかし、いま重要なのは、叡が死にかけているという現実だ。袁煕は叡を祟った。貴女にとって、これ以上最悪な裏切りは無いはずだ。子を守るため、いまの貴女にできることは、この俺を信じることだ。いい加減、それを理解してくれ」


「あ……嗚呼ああ……。どうして……どうしてなの……顕奕けんえき(袁煕のあざな)様……」


 水仙は、曹丕から手をはなし、脱力してその場に崩れ落ちた。


 曹丕が目配せすると、玉容は黙って頷き、号泣しだした水仙を別室へと連れて行った。


(そうか……。やはり、そういうことであったか……)


 司馬懿は、硬い表情で曹叡の容態を調べている曹丕を凝視みつめながら、心中そう呟いていた。


 先ほどの愛が通わぬ夫婦の会話によって、ついに確信してしまった。この男は、俺が考えていたような人間ではなかったのだ。それが分かったからには、これまでのような態度で彼に接するのは考え直す必要がある――。


「仲達。何をぼうっと突っ立っているのだ。こっちに来て、俺を手伝え」


「……あっ。す、すみません」


 司馬懿は首を激しく振り、無理やり気持ちを切り替えさせた。曹丕の言う通り、いまは幼い子供の命を救うことが先決である。




            *   *   *




 曹丕と司馬懿は、寝台に横たわる曹叡を見下ろし、改めて幼子の容態を確認した。


「ううむ……。あの愛らしかった顔が、目も当てられぬほど痛々しく変形してしまっている。劉勲りゅうくんの娘にかけられていた呪いとは、ぜんぜん深刻さが違いますぞ。袁煕の奴、そうとうな殺意で曹叡様を祟っているようですな」


 司馬懿は、曹叡の顔をのぞきこみながらそう言い、眉をひそめた。


「む? 鼻と口、あと耳からもあふれ出ているこの黒い煙のようなものは何だ?」


「顔を寄せすぎるな、仲達。それは、悪鬼が発する瘴気しょうきだ。袁煕の凄まじい怨毒えんどくが体から漏れだしているのだ。吸い込みすぎると、我らも体調を崩し、数日起き上がれなくなるぞ」


「えっ⁉ そ、そういうことは早く言ってくだいよ!」


 司馬懿はそう抗議しながら、慌てて曹叡の口元から顔をはなした。


「フン。相変わらず迂闊うかつな奴め。見た感じで、吸ったらヤバイやつだと分かるだろ」


「ぐ、ぐぬぬぅ……。さ、されど、曹叡様の頭から奇妙な音が聞こえるので、気になってしまったんですよ。公子様には、むしゃむしゃと何かを咀嚼そしゃくするような音が聞こえませんか?」


「いや、俺もさっきから気になってはいた。うわごとで『ぼくをたべてる』と口走っていたからな。恐らくは……袁煕の奴、叡の頭の中で食事をしているのだろう」


 曹丕は、美しく整ったあごを撫でながら、思案顔でそう言った。


「し、食事って……」と司馬懿は呟き、顔を青ざめさせる。


「ま……まさか……脳みそを食っているのではないでしょうね」


「食われていたら、とっくに死んでいる。何を喰らっているのかは分からんが……。だが、似たような怪異譚があることをいま思い出した。

 昔、曲阿きょくあ県の秦瞻しんせんという男は、鼻の穴から蛇に侵入された。脳内で何かを食べる音がして、ひどく鬱陶しかったが、二、三日で蛇は出て行った。それから数年、蛇は秦瞻の脳内を出入りするようになった。しかし、ただ鬱陶しいだけで、秦瞻は病気ひとつかからなかったということだ」


「それは嘘でしょう。曹叡様を見てください。いまにも死んでしまいそうなほど苦しがっているじゃないですか」


「恐らく、秦瞻に寄生していた蛇は――それが悪鬼化した元人間だったのかは不明だが――宿主しゅくしゅの頭の中にある『何か』を喰らって、己のえさにしていたのだ」


「その『何か』とは、何なのです」


「幾年も食べ続けることができたということは、減っても時間が経てばやがて回復するもの……想像するに、脳内に宿る何かしらの不思議な力、我らにとっては未知の気(エネルギー)であろう。その蛇は、宿主に選んだ秦瞻を殺してしまわぬように、ちょっとずつ彼の気を喰らっていたのだ」


「だから、秦瞻は鬱陶しく感じるだけで、さほど苦しまなかったと?」


「ああ、そうだ。しかし、袁煕の場合は、明確な殺意があって叡に取り憑いた。それゆえ、叡の気をいっきにむさぼり喰らい、さんざん苦しめたうえで殺そうとしているのだ。……俺はそう考えるが、お前の意見はどうだ?」


 曹丕にそう問われると、司馬懿はしばし熟思じゅくしした後、「人間の脳内に未知の気……ですか。有り得ぬ話ではないでしょうな」と答えた。


懼武亭くぶていの化けやまねこも、自らが神になるために、殺した人間の頭髪千人分を集めようとしていました。もしかしたら、蛇の怪異の場合は、人の頭の中に侵入して未知の力を摂取し続けることで、神格を得ることができるのやも知れませぬ」


「狸は殺害した人間の頭髪、蛇は頭の中の気を喰らうことで神となる――か。みんな頭だな。もともと『天』とは、人の頭をさす文字であったと聞く。普段意識していないだけで、我ら人間の頭が天上とつながっているのだとしたら……天から人の頭に降り注ぐ未知の気には、怪異を神に昇格し得る力があるという推論が成り立つ」


「そう考えると、袁煕が曹叡様の頭に取り憑いた理由が説明できますな」


 つまり――袁煕は曹叡のエネルギーを吸収して殺すことで、曹丕への復讐を果たすだけでなく、自らの霊力を増幅させようとしているのである。


 曹叡は幼児でありながらではない。乱世の英傑の血を引いている。その身に宿すエネルギーは、常人を遥かに凌駕しているはずである。この子供のエネルギーを貪り喰らえば、たとえ神にはなれなかったとしても、悪鬼袁煕はそうとうな霊力を得られる可能性が高い。もしかしたら、怪異ハンター曹丕に対抗できるほどの化け物になるかも知れない……。


「しかし、問題は、生前の袁煕がそんな怪異の知識を有していたはずがない、ということだ。俺みたいに鬼物奇怪きぶつきっかいの事に異常に詳しい公子など、名門中の名門である袁家の坊ちゃんには一人もいなかったはずだ。誰かが、悪鬼袁煕に入れ知恵したに違いない。やはり、袁煕には、厄介な協力者がいると見ていい」


「その協力者が何者なのか気になりますが、今はとりあえず放っておきましょう。袁煕が曹叡様の気を喰らい尽くすまでどれだけかかるか分かりませんが、この様子では残された時間はあまり無さそうですぞ。一刻も早く、曹叡様の呪いを解かねば。さもないと、お命が……」


「ああ。お前に忠告されなくても分かっているさ。大丈夫だ、この屋敷では魔除けのために犬を何匹か飼っている。華佗が劉勲の娘にやったように、犬の血で袁煕の呪いを外に引きずりだし、出て来たところで退治すればよい。今回は、赤犬ではなく、強い駆鬼くき除災じょさいの力を持つ白犬が必要になるだろうがな」


 曹丕がそう言ったところで、水仙を別室で落ち着かせていた玉容が戻って来て、「申し上げます」と報告した。


「どうした。何かあったのか」


「はい。それが……。屋敷の周辺を見回っていた曹真様が、骸骨化した犬の死体を発見しました」


「何? 骸骨化した……なんと言った?」


「犬の死体です。我が家で飼っていた白犬五匹と赤犬三匹が、骨になった状態で、庭で死んでいました。夕方に餌をあげた時は元気だったのですが――」

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