曹叡の危機

玉容ぎょくよう殿、華佗かだ殿はまだ戻って来ないのですか。早く……早くえいを助けてあげて。お願い、とっても苦しそう」


 華佗が許褚きょちょに連れ去られたことを女たちは知らない。


 水仙は、小さな体を痙攣けいれんさせながら苦しんでいる我が子に何もしてやることができず、泣き叫び続けていた。


元化げんか様はどうしたのだろう。とにかく、ここでじっとしていても、らちが明かないわ)


 そう判断した玉容は「ちょっと夫の様子を見て来ます」と言い、その場を離れた。華佗は、診察室ににんにく漬けの酢が入った壺を取りに行ったはずである。






「こ、これは――」


 診察室に足を踏み入れた彼女は、部屋のひどいありさまに絶句した。何者かによって、無惨に荒らされているではないか。


 燭台に灯をともして、室内を詳しく調べた。薬の壺が、いくつも割られている。その割れた壺の中には、にんにく漬けの酢が入っていたものもあった。これでは、曹叡の喉に取り憑いている悪鬼を追い払うことができない。


 まさか……と嫌な予感がした玉容は外に出た。案の定、南の正門が何者かによって打ち壊されていた。


「うちの頑丈な門をこんな粉々に破壊するなんて、犯人はきっと一人じゃない。我が夫に怨みのある誰かが、徒党を組んで押し入り、元化様をさらっていったんだわ。天下の人々の病を癒してきた名医を怨む人間なんて、いったい何者なの……」


 門を破壊して屋敷に押し入ったのも、暴れて壺をたくさん壊したのも、そして華佗を拉致らちしたのも、全て許褚一人がやったことなのだが、シャーロック・ホームズ並みの推理力を持たぬ玉容には知るよしもない。


「こうなってしまえば、私一人の手には負えない。曹丕様に報告せねば」


 屋敷に水仙母子を残していくのは気がかりだが、事態は一刻を争う。また、行方不明になった夫のことも捜索してもらわねばならない。玉容はくつを脱ぎ捨てると、星々が輝く夜空の下、司空府へと全力で走り出した。




            *   *   *




「仲達よ。こことここの文章、誤字脱字だらけだぞ。書き直せ」


「はぁ~……。そろそろ人定じんていの刻(人々が寝静まる時間)なんですが。続きは明日にして、もう帰らせてくださいよ……」


 司馬懿は、うんざりとした表情でため息をつき、曹丕が投げ返してきた木簡を片手でキャッチした。


 先日の劉勲りゅうくんの娘の事件の記録をまとめ、今日中に提出するように命じられているのだが、今の司馬懿はそれどころではない。昨夜気づいてしまった、曹丕の秘密に関するのことで、頭の中はいっぱいだったのだ。


 それは、今のところはただの臆測にすぎない。しかし、その臆測こそが真実であったとすれば、曹家にまつわる多くの疑問がすっかり解けることになる……。


 司馬懿は、好奇心が人一倍強い。そして、己の運命を握っている曹丕という男を知らねばならぬと思っている。だから、本音では、この謎をハッキリさせておきたかった。


(しかし……。この男の恐るべき罪の全貌を知れば、その秘密を告発するか、曹丕のために守秘するか、選択を迫られることになる。もしも、秘密を守って、曹丕の共犯者になる道を選べば、俺と曹丕は完全に運命共同体だ。後へは引き返せなくなる。そこまでの覚悟が……この若者への忠誠心が俺にあるのだろうか?)


 そのような迷いから、司馬懿は一歩を踏み出す勇気を持てなかったのである。心は千々に乱れ、書く文章も誤字脱字だらけになってしまっていた。



「申し上げます。華佗殿の夫人が、面会を求めて来ております。火急の用件とのことです。庭のてい東屋あずまや)で待たせていますが、ここに通しますか?」


 曹真が、曹丕の仕事部屋に入って来て、そう告げた。


「何? 華爺さんの嫁が?」


「はい。裸足でここまで走って来たようです。よほどのことかと」


「…………」


 司馬懿が曹丕を見ると、その顔は凍り付いていた。頭の回転が速いこの若者は、たったそれだけの報告で、華佗邸で何が起きたか推理することができたのである。



 ……仮に水仙が悪鬼に祟られたとして。華佗ならば、劉勲の娘を救った時と同様の鮮やかな手際で、呪いを取り除くことができるだろう。わざわざ曹丕の手を借りる必要は無い。

 そして、翌朝ゆっくりと司空府に来て、「こういうことがあったが、無事解決した」と報告するはずである。

 それなのに、こんな夜分に異変を報せに来たということは――思いもよらぬ事態が出来しゅったいしたに相違ない。


 また、あの老医者は、年甲斐も無くやきもち焼きだ。美貌の妻を外に出して男の目にさらしたくないので、使い番のような真似を玉容には絶対にさせない。報告があるのなら、必ず華佗本人が来る。それがどういうわけか、司空府に駆け込んで来たのは、華佗ではなく玉容だという。恐らく、華佗の身にも何か起きているのだ。


 そして、玉容という女は、天下一の神医の妻をつとめているだけのことはあって、気質は冷静、肝っ玉も太い。そんな女傑じょけつが取る物もとりあえず裸足でやって来たということは、その「思いもよらぬ事態」がそうとう深刻で、差し迫った状況であるということだ。


 これは水仙ではなく、幼い曹叡が祟られたな――そう察した曹丕は、くわっと両眼を大きく見開き、手にしていた筆を床に叩きつけた。


袁煕えんきの奴めッ! よほどの大馬鹿者であったかッ!」


「えっ。まさか袁煕が悪鬼化したのですか? し、しかし、俺が泰山環たいざんかんで、あの屋敷に悪鬼の気配が無いことを確かめてきたばかりなのに。いったいなぜ⁉」


「……俺も、あの男は悪鬼化していないと踏んで、油断していた。お前の言う通り、不可解極まりない。だが、今は、ここでああだこうだと臆測しあっている場合では無い。仲達よ、ただちに華佗邸へ行くぞッ!」


 そう叫ぶやいなや、曹丕は躍り出るように部屋から飛び出した。どんな怪異に遭遇しても神色しんしょく自若じじゃくたる態度を崩さないこの男が、今は炎を吐く勢いで激怒している。その凄まじい剣幕に驚きつつも、司馬懿は泰山環を手にして、その後を追った。


「司馬懿! 子桓しかん(曹丕のあざな)様は何をそんなに慌てておられるのだ! 袁煕がいったいどうしたんだ⁉ 私に説明しろ!」


 後ろで怒鳴り声がしたので、(首だけ百八十度回転して)振り向くと、曹真が追いかけて来ていた。どうやら、ついて来るつもりらしい。


(今から曹叡がいる場所に行くのに、同行させていいのだろうか)


 司馬懿はチラリとそう思ったが、曹丕は曹真のことなど忘れているようだ。庭園にいた玉容と合流して、すでに司空府の正門を出るところだった。


 こんな緊急事態のおりに、曹真と言い争っている余裕などはない。


 勝手について来させるしかあるまい、と思った司馬懿は、曹真の呼びかけを無視して走り続けた。


「おい! 無視するな! また首を絞めるぞコラ!」




            *   *   *




 華佗邸の門前に立った曹丕は、大穴を開けられた門扉もんぴを見ると、「こいつは派手に壊されたものだな」と玉容に言った。


「恐らく、複数人の賊がやったのでしょう。その者たちに、夫はさらわれたのです」


「いや、これは虎痴こち(許褚の渾名あだな)が一人でやらかしたようだ」


 曹丕はしゃがみこみ、足元に落ちていた獣臭い灰色の毛を数本拾った。庭から屋敷の建物にかけて、巨大な猿型UMAを思い起こさせる大きな足跡がある。こんな馬鹿でかい足の持ち主は、曹丕が知っているかぎりでは許褚ぐらいだ。


「どうやら、華爺さんに関しては、心配する必要は無さそうだ。おおかた、陣中で病人が出たゆえ、俺のクソ親父が許褚に命じて華爺さんを迎えに来させたのだろう。それよりも、今は叡だ。部屋に案内してくれ」


「は……はい」


 二人がそんなやり取りをしている間に、司馬懿と曹真が追いついて来た。


 曹真の姿をみとめた曹丕は、わずかに眉をひそめた。


「真よ。お前にはついて来いと命じていないぞ」


「も……申しわけありませぬ。されど、奥方様と和子わこ様の身に何かあったのではと思い、子桓様のお役に立ちたく……」


「フン、まあいい。だったら、お前は、屋敷周辺に何らかの異変が無いか探れ。怪しいものを見つけたら、あとで報告しろ。俺の許可があるまでは、屋敷内に入ってはならぬ」


「えっ。し、しかし……」


「言われた通りにしろ。命令に従えぬのなら、さっさと帰れ」


「……御意ぎょい。屋敷周辺を一回りしてきます」


「それでいい。仲達、行くぞ」


 曹丕は冷たく突き放すようにそう言うと、司馬懿を引き連れ、屋敷内に入った。外にとどまった曹真は、悲しげな目で、曹丕の遠ざかる背中を見送っている。



「……公子様。さっきのは、さすがに曹真殿が可哀想なのではないですか? あの男なりに、公子様のことを心配しているというのに……。曹真殿とは、本当の兄弟のように共に育ったのでしょう?」


 廊下を歩きながら司馬懿がそう諌めると、曹丕にもいちおう罪悪感があるのか、ムッとした表情で「ああ、そうだ。俺と真は兄弟同然の仲だ」と言った。


「だが、あいつは、俺のクソ親父のことも実の父のごとく慕っている。……信じてやりたいが、信じきれぬのだ。俺か親父か、究極の選択を迫られた時、あいつがどちらに転ぶか分からんからな」


「解せませぬ。兄弟同然の曹真殿ですら、ご自身の秘密から遠ざけようとするのに、俺のことは信用してもいいのですか。俺は、曹家のことなんか、どうでもいいんですよ?」


「……無駄話はあとだ。そんなことよりも、仲達よ。お前はボケボケなところがあるから、しっかり用心しろよ。妙な胸騒ぎがする」


「胸騒ぎ? 何のことです?」


 司馬懿が首を傾げる。


 曹丕は、「走りながら玉容の話を聞いたが――」と言った。


「叡が悪鬼に取り憑かれたというのに、この屋敷で飼われている白犬たちは今夜一度も吠えていないらしい。強い魔除けの力を持つ白犬が、悪鬼が家の中に侵入しているというのに、全く気づかなかったというのはおかしい。何かが……悪鬼とは別の恐るべき何者かが袁煕に手を貸しているのかも知れない」


「悪鬼とは別の恐るべき何者か……。なるほど。曹真殿に屋敷周辺の警戒を命じたのは、それを探らせる理由もあったのですか」


 どうやら、曹丕は何の意味も無い命令を曹真に下したわけではなかったらしい。司馬懿は、なぜだか少しだけホッとした。




 やがて、そんなふうに話し合っているうちに、水仙母子の隠れ部屋に着いた。


 曹丕と司馬懿が玉容の案内で室内に入ると、二人は「こ、これは……」と呟いて眉をひそめた。


 呆然とした表情の水仙が、寝台にぐったりと横たわる我が子を見つめている。


 曹叡は、ほとんど虫の息になっていた。顔が墨を塗ったようにどす黒く変色し、頭部が異常に膨れ上がっている。時々、曹叡の頭のあたりから、しゅるしゅる……しゅるしゅる……と生き物がうごめくような気色の悪い音が聞こえてくる。まるで、頭の中に何かが棲みついているみたいだ。


「あ……あたま……。なにかが……ぼくのあたまをたべてる……。た、たすけて……。ちちうえ……ははうえ……」

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