華佗邸の変

「おまえ様。水仙様は、やはり様子が少しおかしいようです」


 玉容ぎょくようは、やや遅めの夕食を食べている華佗かだに、そうささやいた。

 水仙母子のことを口にする際、彼女は必ず声をひそめて話す。

 華佗は、曹丕の「罪」に加担している。が世の人々に露見したらと思うと、不安のあまり忍び声になってしまうのである。


「ふむ。仲達殿も怪しんでいたようじゃが……あの蛇みたいなかたちのたぶさのことを言っておるのか」


 今日は患者が多く押し寄せたため、華佗は少し疲れている。眠たげな目を玉容に向け、あまりピンときていない表情で尋ねた。


「それもありますが、あの方のお世話をしていて、他にも不自然に思うことがあるのです。妙にそわそわしているというか、心ここにあらずというか。例えて言うなら、ずっと離ればなれになっていた恋人と久し振りに逢えて、浮ついている女……といった雰囲気なのです。本人は隠していらっしゃるおつもりのようですが、私には分かります」


「なぜ分かる?」


「もちろん、私が同じ女だからですよ」


 ニコリともせずに玉容はそう言った。


「なるほど、同じ女だからか」と華佗は呟き、羊肉の串焼きをがぶりと頬張る。咀嚼そしゃくしながらにたにた笑い、六十歳ほど年下の美貌の妻を優しげに見つめた。


「ということは、玉容さんや。わしは遠方の患者に呼ばれて屋敷を長く不在することがあるが、数か月ぶりに儂が帰宅するたび、そなたも浮かれてくれていたというわけじゃな?」


「当たり前ではありませんか。おまえ様は百歳を超えているのですよ。あとどれだけ一緒にいられるか分からないのです。できるだけ長い時間、私のそばにいて欲しいと願うのは当然です。おまえ様のことを愛していますから」


 特に恥ずかしがるふうもなく、玉容は淡々と言う。


 四十代後半でありながら二十代前半に見えるこの女は、感情を顔に出すのが苦手で、怒っている時も喜んでいる時も、だいたい無表情である。夫の華佗にしか、彼女の心の機微は読み取れない。


 だが、その胸の内をのぞくことさえできれば、実に温かい女なのである。クールのように見えて、好きな異性にはデレる――現代風に言えば、クーデレというやつだ。華佗は、こういうタイプの女が好きでたまらなかった。


「嬉しいことを言ってくれるなぁ、我が女房殿は。だが、大丈夫じゃ。儂の肉体は、あと二十年は生きられる。誰かに首をねられたりしなければの話だがな」


 華佗はそう言いながら玉容の柔らかな黒髪を撫でると、若者のような溌剌はつらつとした所作で腰を上げた。


「さてと。そなたが睨んだ通り、水仙殿が袁煕えんきの死霊と接触しているのならば、対応を考えねばならぬな。機嫌を損ねても構わぬゆえ、あの根暗な美女をちょいと詰問してみるとするか」


「それがよろしいかと。私もお供します」


 玉容はうなずき、隠れ部屋へと向かう夫に付き従った。




            *   *   *



 玉容は、華佗が転ばないように夜の暗い廊下を手燭で照らし、夫の数歩前を行く。


 華佗は、思案気な表情で白髭を撫でつつ歩いていたが、やがて、「ただ……」とポツリと言った。


「仮に袁煕の魂がこの屋敷に潜んでいたとしてもだ。恐らく、悪鬼化はしておらんじゃろう。仲達殿の泰山環たいざんかんが、何の反応も示していなかったのだからな」


「私もそう思います。魔除けのために飼っている白犬たちも、ぜんぜん吠えていませんし。ですが――袁煕の死霊が曹叡様に近づくのは、あの御子にとって良いことなのであろうかと考えますと……」


「少なくとも、子桓しかん(曹丕のあざな)殿にとっては、悪しきことじゃ。あの若君に報せても、『悪鬼化さえしていないのなら、妻が前夫の幽鬼と密会しているぐらいは許す』と言いかねぬが……。子桓殿がこれから築いていく家庭のことを思えば、袁煕の死霊は曹叡坊ちゃんから遠ざけるべきじゃ」


 隠し扉の前に立った華佗は、そう言いながら、三、五、九、四と暗証番号を押した。


 ギギギ……と鈍く重い音を響かせ、壁が左右に動いていく。


 華佗夫婦が秘密の通路に足を踏み入れたちょうどその時――水仙母子の部屋から、女の金切り声が聞こえてきた。


「あれは……」


「いかん! 水仙殿の声じゃ! 何かあったに違いない!」


 驚いた夫婦が部屋に駆けつけると、水仙が幼い曹叡の体を抱き締めながら泣き崩れていた。曹叡は、全身をピクピク痙攣けいれんさせ、白目をいている。尋常な様子ではない。


 華佗が「どうしたのじゃ!」と訊くと、水仙は涙でくしゃくしゃの顔を上げ、普段の彼女からは考えられないはげしい声で叫んだ。


「た……助けて! へ、蛇が……大きな黒蛇が現れたかと思ったら、黒い霧のようになって叡を包み込み、口の中に……!」


「大きな黒蛇じゃと……。ど、どきない!」


 鋭くそう言い、水仙を幼児から引き剥がすと、華佗は曹叡の咥内こうないをのぞき込んだ。見えやすいように、玉容が手燭の灯を近づける。


「おまえ様、どうですか。口から黒い煙が出ているようですが」


「チッ……。悪鬼に取り憑かれてしまっておる。今はまだ喉のあたりに呪いがとどまっているが、人体のもっと奥深くに潜り込んだらまずい。幼い肉体では、とても耐えられぬぞ。半日ももつまい」


「そ、そんな……。叡を助けて……。何とかして……」


 水仙がすがりつくと、華佗はその手をはらいのけ、「今は一刻を争う!」と怒鳴った。そして、「玉容。すぐに戻るゆえ、曹叡坊ちゃんを頼んだぞッ」と妻に指示して、部屋を飛び出して行った。


 診察室に、こういう時のために用意しておいたにんにく漬けの酢がある。それを取りに行こうとしているのだ。


 これは劉勲りゅうくんの娘を救うくだりで華佗が一度語っていることだが――喉にこびりついた呪いを取り除くのは案外簡単で、とびきり酸っぱいにんにく漬けの酢を呪われた人間に飲ませればいい。取り憑いている悪鬼が驚き、口から飛び出してくるのである。



「ええい、袁煕の馬鹿者め! 子供に取り憑くとは、なんと愚かな!」


 華佗は、ショートカットするために中庭へ飛び降りて、正房せいぼう(表座敷)から診察室のある東の別棟へと移動した。


 だが、診察室に入った途端、老医者は「げっ」という悲鳴とともに尻もちをつくことになったのである。


 室内に、巨大な猿っぽい生物が背を向けて座っている。


 その生物……というかモンスターは筋肉隆々で、灰色のもじゃもじゃした体毛が全身を覆い、身の丈は八尺(一八四センチ)ほどあった。


 まことに怪物じみた風貌である。アメリカの高名な人類学教授ジェフリー・メルドラム氏や、日本オカルト界の重鎮の並木なみき伸一郎しんいちろう氏がこのモンスターを見れば、「これは間違いなくビッグフット……いや、中国のUMAだから野人やじんだ‼」と太鼓判を押すことだろう。


 薄暗い部屋でこんな巨体類人猿と遭遇したら、さすがの華佗でも腰をぬかす。「な、な、な……何じゃお前は!」と震える声で叫んでいた。


 すると、謎のモンスターはくるりと振り向き、のんびりとした胴間声どうまごえで人語を喋った。


「俺、許褚きょちょ。華佗センセ、俺ノコト忘レタノカ」


「え…………?」


 なるほど。よく見ると、巨体類人猿の頭には黒いバンダナが巻かれ、軽装ながら鎧も身に着けている。闖入者ちんにゅうしゃは、野生の獣ではなく、典韋てんい亡き後の曹操のボディーガード、許褚将軍だった。こんな猿型UMAみたいな見た目をしているが、関内侯かんだいこうというれっきとした爵位しゃくいを持つ曹軍の有力武将である。今回の烏桓うがん討伐の遠征にも、曹操の警護のために従軍していたはずだが、なぜか単身戻って来たらしい。


「な……何じゃ。許褚将軍であったか。ビックリさせおって。というか、門は閉まっていたはずなのに、どうやって入って来た」


「ゴメン。急ギダカラ、門壊シテ入ッテ来タ。曹操様カラ伝言アル」


「ちょっと待て。門を壊しただと? なんちゅう乱暴なことを――」


「伝言ガ先! 俺、伝言忘レタラ困ル! 伝言ガ先!」


 許褚は、駄々っ子みたいに左右の巨大な腕を振り回し、そう吠えた。彼は記憶力に自信が無いのである。


 ここで暴れられると、診察室を破壊されかねない。いや、すでにいくつかの壺が許褚の拳に当たって粉々に割れてしまっている。華佗は仕方が無く、「わ、分かったから! 腕をブンブンさせるな! 早く言え!」と許褚をなだめた。


 許褚は、えーこほん! とせきをすると、曹操の命令を華佗に伝えた。


「曹操様言ッタ。郭嘉かくか、病気、死ニソウ。今スグコッチニ来テ、郭嘉ヲ助ケナサイ。以上、伝言! 俺ガ責任ヲ持ッテ、華佗センセ連レテク! 心配ハ要ラナイ!」


「郭嘉殿が病じゃと? 阿瞞あまん(曹操の幼名)の軍はいまどのあたりまで帰って来ておるのじゃ。郭嘉殿を休養させるためにどこかの城にとどまっておるのか? 儂はいま、物凄く忙しいのだが……明日の昼頃まで出立を待ってはくれぬか?」


「アーッ‼ アーッ‼ アーッ‼ 俺ニ、一度ニ三ツノ質問スルノ駄目‼ イーッテナル‼ イーッテ‼」


 許褚はウホォォォとうなり、両の拳で胸を激しく連打すると、華佗に飛びかかった。


「こ、こら! 儂はいま忙しいと言っておるじゃろう! ま……待て。今晩だけでいいから待ってくれ。曹叡坊ちゃんの命が……」


「問答ハ、無用ッ‼」


 許褚は、有無も言わせず華佗の首根っこをつかむ。そして、壊れた門から往来へと飛び出し、屋敷前の木に繋いであった駿馬にまたがると、そのまま華佗を拉致らちしていくのであった……。

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