度朔君あらわる

 曹丕著『列異伝』は文章テキストのほとんどが失われ、五十種の逸文のみが伝わっている。その現代に残った『列異伝』の物語のひとつに、


 度朔君どさくくん


 という怪しげな名の神が登場する。後半の文が散逸しているため、『捜神記そうじんき』(『列異伝』の記述を下敷きにしている怪異譚が多い)で内容を補完する必要があるが、この度朔君こそが「曹操と戦った」とされる異色の神である。




 ワンス・アポン・ア・タイム――袁紹が華北に強大な勢力を維持していた頃のこと。河東かとう郡に、度朔君(『列異伝』では度索君、『捜神記』では度朔君と表記)と名乗る神が現れ、民衆は彼のためにびょうを建てた。


 袁紹はこの神を弾圧した、という記述は説話内に無い。


 華北の雄は、怪しき新興宗教を黙認したのだろうか。それとも、手を出しかねる何らかの事情があったのか。そのあたりの経緯は不明である。


 とにかく、度朔君は、いっさいが謎に包まれていた。何の神なのかすら、『列異伝』と『捜神記』は説明していない。


 ただ、膨大な学識を有していたようで、若い書生が度朔君の廟に訪ねてくれば、五経について大いに議論し、特に『礼記らいき』に詳しかったという。


 時には来訪者に知恵を授け、多少の人助けをした。

 時には別の神が廟にやって来て、信者たちはその姿を目撃した。


 袁紹がその地を治めていた間は、ただそれだけで済んだ。


 しかし、袁紹が死に、曹操が進出してくると、事態は一変した。



「あの邪神がまつられている廟から、絹千疋を徴収せよ」


 曹操は、家臣にそう命じた。袁譚えんたん(袁紹の長男)を討伐した前後のことである。


 だが、曹操の使者と会った度朔君は、「絹をよこせだって? 嫌だねぇ」とにべもなく断った。


「ならば、廟を粉々にするまでだ」


 怒った曹操は、新参の武将の張郃ちょうこうに度朔君の廟を破壊してこいと命じた。


 張郃は、袁紹の元配下である。帰順して日が浅い。旧主が保護(?)していた神をその手で弾圧させることで、彼の忠誠心を試そうとしたのだろう。


 が、張郃はこの任務を果たすことができなかった。張郃の部隊が、廟まであと数十里の地点に来た時、突如として数万の兵に行く手を塞がれたのである。度朔君が遣わした軍勢だった。


「たかが淫祀いんし邪教じゃきょうたぐいの神が、なぜこんな大軍を動員できるのだ」


 張郃は、困惑した。


 しかし、彼は、後に劉備や孔明さえも警戒する名将に育つ男だ。これぐらいのことでは意気いき阻喪そそうしなかった。兵卒たちを叱咤し、謎の神兵しんぺい部隊の陣を何とか突破、廟の目前まで迫った。


「度朔君は油断ならぬ神だ。次はどんな手を使ってくるか分からぬ。全軍、慎重に前進せよ」


 張郃がそう命じた直後、嘲笑あざわらうかのように、新たな異変が彼の部隊に降りかかった。


 どこからともなく濃霧が生じ、瞬く間に張郃の軍勢を取り囲んでしまったのである。


 彼は、おびえる兵たちを叱りつけ、とにかく進軍させようとした。だが、迷霧めいむの中に閉ざされた視界では、度朔君の廟がどこにあるのか見当もつかない。


 結局、張郃は廟にたどり着けず、度朔君討伐に失敗したのであった。




            *   *   *




 あれから、二年が経つ。


 依然として、度朔君は河東郡の民たちに祀られている。袁家の残党狩りに追われる曹操は、この不気味な神との対決を先延ばしにしていた。


 は、三年間も弟の袁尚えんしょうと逃亡生活を送っていたため、曹操と度朔君の不穏な関係など知らない。あの合理主義者の曹操でも、我が父と同じようにこの怪しき神に屈し、ぎょう城に新たな廟を造ったのであろう……と度朔君がここにいる理由をそう解釈した。



 ――度朔君。貴方はいま、曹操と上手くやっているのでしょう。みじめな敗残者となった私のことなど、放っておいてください。何故なにゆえ、我が心を惑わせるようなことをおっしゃるのです。曹丕が私の息子を殺せるはずがないではありませんか。私と水仙には、子が一人もいなかったのですから。



 蛇は憂鬱そうな声で、そう抗議した。


 袁煕えんきは、官渡の戦いが始まる頃、幽州ゆうしゅう刺史ししに任じられ、鄴城から離れていた。妻の水仙はしゅうとめの劉夫人に仕えるため、鄴にとどまっていた。袁家が敗亡していく非常に厳しい時期でもあり、袁煕が鄴を訪ねて水仙と愛を確かめ合える機会などごくまれにしか無かったのである。数年の間のほんの二、三回の逢瀬で、子を授かるはずがない。それに、もしも子ができていたとしたら、水仙が手紙で報せてくれるはずだ。



 ――可哀想にねぇ……。本当に可哀想にぃぃぃ……。



 ねっとりとした度朔君の声が、蛇の脳に直接伝わる。蛇は、鎌首をもたげているのが、だんだん辛くなってきた。この神の言葉を聞いていると、魂がどんどん汚染されていくような感覚にとらわれてしまう。


 度朔君は、自分にとって曹操が不倶戴天ふぐたいてんの敵であることは語らず、可哀想にねぇ……可哀想、可哀想……涙が出るぐらい可哀想だぁぁぁ……と執拗に蛇を哀れんだ。憐憫れんびんの気持ちが本当にあるのかは、濃い霧でその顔と姿が隠されているため、よく分からない。



 ――なぁぁぁんにも知らないまま死んじゃったんだねぇ。余は何だって知っているから、真実を教えてあげようか? 実はいたんだよなぁ……お前には子供が。お前の妻、しん水仙は、鄴城が陥落した三年前に、たしかに子供を身籠っていた。まぎれもなく、袁顕奕けんえきの血を引く子だ。



 ――そ、そんな馬鹿な。ならば、なぜ水仙は私に報せてくれなかったのです。



 度朔君のげんに動揺した蛇は、うなだれつつあった頭部を再びもたげさせ、そう問うた。


 怪しき神はクックックッと笑い、馬鹿なのはお前のほうだよぉ、と蛇に語りかけた。



 ――あの時期、袁紹はすでにくたばっていて、鄴城は曹操軍に徹底的に包囲されていた。残忍な曹操は、兵糧攻めと水攻めで、鄴城に立て籠もった大勢の者を餓死させた。そんな状況下で甄水仙……あの哀れな美女が、遠い幽州にいる夫に手紙を出せると思うかい?



 ――それは……たしかに……。で、では、まことに私には息子がいたのですか? その子はいま……。



 ――だ~か~ら~最初から言っているよねぇぇぇ! 殺されたって! 曹丕の罪は、お前の妻を奪っただけではないんだ! あの奸雄かんゆうの息子は、甄水仙が袁煕の子を身籠っていることを知ると、華佗から入手した堕胎だたいの薬を彼女に飲ませた! 甄水仙は流産した! 流れた子には小さな男根だんこんがついていた! その後、甄水仙はすぐにはらまされ、翌年に産まれたのが曹叡そうえい! どうたい⁉ 分かったかい⁉ お前は、愛する妻を寝取られただけでなく、我が子を曹丕に殺されているんだよ! 甄水仙はそのことをお前に謝りたくて、曹叡のことを許してもらいたくて、敵の子をお前に引き合わせようとしていたんだ! でもでも、それって、どうなんだろうねぇ~? 新しい夫の命令とはいえ、甄水仙はお前の子を死なせてしまったのだよぉ~? お前が曹叡を認める義理は無いんじゃないのかなぁ~? むしろあの幼児を殺して、我が子の無念を晴らすべきだよねぇ? もうこれは復讐するしかないでしょう! 決定、決定! 呑気に昇天する時を待っている場合じゃないねぇぇぇぇぇぇ!



 度朔君は、蛇の心に、猛烈な悪意を濁流のごとく注ぎ込んでいく。その言葉のひとつひとつが、蛇の良心をどろどろに溶かす猛毒だった。


 つい先ほど封印したはずの復讐願望が、黒炎をあげて再び燃えだす。そして、いつの間にか、全身が逆鱗さかうろこの黒蛇に変わっていた。しかも、眼窩がんかから瞳が失せ、溢れんばかりの怨毒えんどくをためこんだその身は体長十尺(約二三〇センチ)ほどに成長していた。



 ――はぁはぁ……。そんな……こと……許せるはずが……ない。水仙よ……許せるわけがないではないか。曹叡の命を奪わねば……我が子を殺される苦痛を曹丕にも味わわせねば……。そうしなければ、私の心は永遠に晴れぬ。だが……しかし……曹丕は鬼物奇怪きぶつきっかいの事を知悉しりつくしていると噂に聞く。私のような蛇の怪異ごときが祟りをなしても、曹丕に簡単に退治されてしまうのではあるまいか……。



 ――そうだよねぇ。お前みたいな雑魚ざこの呪いなんて、曹丕には何の脅威にもならないだろうねぇ。でも……神である余が手を貸してあげたら、幼児一人を祟り殺すことぐらい朝飯前だと思うんだけど。どうだい? この度朔君の配下となってみないかい? きっと後悔させないよぉぉぉ?



 ――…………。



 蛇は、黙って首を上下に振った。


 この瞬間、袁煕の魂は、完全に悪鬼化していたのである。

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