度朔君あらわる
曹丕著『列異伝』は
という怪しげな名の神が登場する。後半の文が散逸しているため、『
ワンス・アポン・ア・タイム――袁紹が華北に強大な勢力を維持していた頃のこと。
袁紹はこの神を弾圧した、という記述は説話内に無い。
華北の雄は、怪しき新興宗教を黙認したのだろうか。それとも、手を出しかねる何らかの事情があったのか。そのあたりの経緯は不明である。
とにかく、度朔君は、いっさいが謎に包まれていた。何の神なのかすら、『列異伝』と『捜神記』は説明していない。
ただ、膨大な学識を有していたようで、若い書生が度朔君の廟に訪ねてくれば、五経について大いに議論し、特に『
時には来訪者に知恵を授け、多少の人助けをした。
時には別の神が廟にやって来て、信者たちはその姿を目撃した。
袁紹がその地を治めていた間は、ただそれだけで済んだ。
しかし、袁紹が死に、曹操が進出してくると、事態は一変した。
「あの邪神が
曹操は、家臣にそう命じた。
だが、曹操の使者と会った度朔君は、「絹をよこせだって? 嫌だねぇ」とにべもなく断った。
「ならば、廟を粉々にするまでだ」
怒った曹操は、新参の武将の
張郃は、袁紹の元配下である。帰順して日が浅い。旧主が保護(?)していた神をその手で弾圧させることで、彼の忠誠心を試そうとしたのだろう。
が、張郃はこの任務を果たすことができなかった。張郃の部隊が、廟まであと数十里の地点に来た時、突如として数万の兵に行く手を塞がれたのである。度朔君が遣わした軍勢だった。
「たかが
張郃は、困惑した。
しかし、彼は、後に劉備や孔明さえも警戒する名将に育つ男だ。これぐらいのことでは
「度朔君は油断ならぬ神だ。次はどんな手を使ってくるか分からぬ。全軍、慎重に前進せよ」
張郃がそう命じた直後、
どこからともなく濃霧が生じ、瞬く間に張郃の軍勢を取り囲んでしまったのである。
彼は、
結局、張郃は廟にたどり着けず、度朔君討伐に失敗したのであった。
* * *
あれから、二年が経つ。
依然として、度朔君は河東郡の民たちに祀られている。袁家の残党狩りに追われる曹操は、この不気味な神との対決を先延ばしにしていた。
袁煕だった蛇は、三年間も弟の
――度朔君。貴方はいま、曹操と上手くやっているのでしょう。
蛇は憂鬱そうな声で、そう抗議した。
――可哀想にねぇ……。本当に可哀想にぃぃぃ……。
ねっとりとした度朔君の声が、蛇の脳に直接伝わる。蛇は、鎌首をもたげているのが、だんだん辛くなってきた。この神の言葉を聞いていると、魂がどんどん汚染されていくような感覚にとらわれてしまう。
度朔君は、自分にとって曹操が
――なぁぁぁんにも知らないまま死んじゃったんだねぇ。余は何だって知っているから、真実を教えてあげようか? 実はいたんだよなぁ……お前には子供が。お前の妻、
――そ、そんな馬鹿な。ならば、なぜ水仙は私に報せてくれなかったのです。
度朔君の
怪しき神はクックックッと笑い、馬鹿なのはお前のほうだよぉ、と蛇に語りかけた。
――あの時期、袁紹はすでにくたばっていて、鄴城は曹操軍に徹底的に包囲されていた。残忍な曹操は、兵糧攻めと水攻めで、鄴城に立て籠もった大勢の者を餓死させた。そんな状況下で甄水仙……あの哀れな美女が、遠い幽州にいる夫に手紙を出せると思うかい?
――それは……たしかに……。で、では、まことに私には息子がいたのですか? その子はいま……。
――だ~か~ら~最初から言っているよねぇぇぇ! 殺されたって! 曹丕の罪は、お前の妻を奪っただけではないんだ! あの
度朔君は、蛇の心に、猛烈な悪意を濁流のごとく注ぎ込んでいく。その言葉のひとつひとつが、蛇の良心をどろどろに溶かす猛毒だった。
つい先ほど封印したはずの復讐願望が、黒炎をあげて再び燃えだす。そして、いつの間にか、全身が
――はぁはぁ……。そんな……こと……許せるはずが……ない。水仙よ……許せるわけがないではないか。曹叡の命を奪わねば……我が子を殺される苦痛を曹丕にも味わわせねば……。そうしなければ、私の心は永遠に晴れぬ。だが……しかし……曹丕は
――そうだよねぇ。お前みたいな
――…………。
蛇は、黙って首を上下に振った。
この瞬間、袁煕の魂は、完全に悪鬼化していたのである。
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