密会

 人定じんていの刻(人々が寝静まる時間帯。夜の九時頃)に司馬懿が屋敷に戻ると、幽鬼メイドと鎧武者の幽鬼が寝室で待っていた。


「あっ。旦那様、お帰りなさいませ!」


「やあ、司馬仲達」


 六博りくはく(古代中国のすごろく)に興じていた二人の幽鬼は、手を振って司馬懿を出迎える。この二人、いつの間にか仲良くなっている。


(やっべ。張繍ちょうしゅうのこと、すっかり忘れてた)


 張繍に、彼の家族が強制的に引っ越し(しかも、殺人事件があった事故物件に)させられていることを伝えねばならない。気が重すぎる。怒りだして、暴れたりしないだろうか。話すのが憂鬱で、司馬懿はお腹が痛くなってきた。


「司馬仲達よ。わしの家族が今どこにいるか、曹丕殿に訊いてきてくれたか?」


「ああ~……えっと~……。実は、張繍将軍のご家族は――ん?」


 言いよどみ、張繍から視線を反らすと、寝台の上でプカプカ浮いている細長い物体が目に入った。それは、大剣化している泰山環たいざんかんだった。バチバチ、バチバチと小さな稲妻のような光を発している。どうやら、怒りMAXのようである。


「は……柱に縛り付けておいたはずなのに……!」


「あっ、あれですか? 縛られていて可哀想だったので、私が縄をほどいて旦那様の寝台に置いておきました!」


「し、小燕。なんて余計なことを――どわぁぁぁ‼ なんか光線っぽいものを撃ってきたぁぁぁ‼」


 司馬懿は、泡を食って逃げ出した。


 泰山環は、稲妻ビームをばビュンビュン飛ばしつつ、追いかけてくる。


 屋敷を飛び出した司馬懿は、夜の城邑まちを爆走。朝日が昇る時間まで、怒れる霊剣と鬼ごっこを再びすることになるのであった……。




            *   *   *




 翌日の早朝――。


 眠れぬ夜を過ごした水仙は、幼い息子を寝床に残したまま起きだし、鏡台の前で身づくろいを始めていた。


 昨日の朝、彼女は信じられぬ奇跡を体験した。ほんの数分のことだったが、それは夢のようなひとときで、いま思い出しても胸が激しく高鳴る。


(ちょうど、こうして髪を整えている時だったわ。もう一度……もう一度だけでいいから、あの人に逢いたい)


 奇跡が再び訪れることを密かに期待し、長い髪をく。くしを握る手は期待と不安で震え、意識は自分の髪にほとんど向かなかったが、祈りの儀式のように髪をとかし続けた。


 やがて、懐かしい視線が、背中を撫でた。


 ハッとなって振り向くと、窓から一匹の緑蛇りょくだが部屋に侵入してくるところであった。その蛇は、赤く輝く珠をくわえている。


 赤い珠は、よく見ると、美しい紋様が施されたガラス玉(蜻蛉とんぼ玉)だった。


 水仙は、それに見覚えがある。前夫袁煕えんきが好んで身に着けていたものだ。


嗚呼ああ、良かった。また来てくれた。あなたは……顕奕けんえき(袁煕のあざな)様なのでしょう? そんな変わり果てた姿になっても、私のことを心配して、逢いに来てくださったのですよね」


 水仙は泣き笑いしながら、緑蛇に語りかけた。曹丕にはけっして聞かせることのない、心のこもった温かな声で、「ありがとう……。私、嬉しいわ」と言った。


 蛇は、何も答えない。鎌首をもたげ、穏やかな眼差しで水仙をじっと見つめている。


 美女と緑蛇の間に、しばしの沈黙と親愛の時間が流れた。そして、数分後、蛇は昨日と同じようににょろにょろと蠢動しゅんどうし、とぐろを巻き始めた。


 ……生前の袁煕は、愛妻の髪を梳かすのが好きで、たぶさのかたちも彼が毎朝決めていた。今日はこうしなさい、美しいよ、と優しく耳元で囁いてくれたものである。あの頃と同じように、蛇は体を使って、自らが望む髪形を水仙に教えているのだろう。


「素敵なかたち。あなたの言う通り、今朝はそのようにしますね。……あの。顕奕様。いまは眠っているのですが、あなたに会ってもらいたい子がいるんです。実は私、どうしても詫びたいことがあって――」


 そこまで言いかけた時、水仙は急に口をつぐんだ。この隠し部屋へと通じる秘密の扉がギギギ……と開く音が聞こえたからである。


 きっと、華佗の妻の玉容ぎょくようだ。彼女は、着替えを手伝うという名目で、水仙の様子を毎朝見に来る。


(玉容殿は、女の髪に無頓着な華佗先生とは違い、私の髪の変化を昨日からいぶかしんでいるみたいだった。彼女にこの現場を見られるのはまずい)


 水仙は慌てた。もしも曹丕に報告されたら、哀れな蛇――恐らくは袁煕の魂が変じたもの――は退治されてしまうに違いない。


「顕奕様、逃げて」


 廊下の方角をチラッと一瞥いちべつした後、水仙は向き直って悲痛な声でそう言った。


 だが、蛇の姿は、もうそこには無かったのであった。




            *   *   *




 ――自分は何をやっているのだろうか。



 華佗邸の正門を出た蛇は、道を這いながらそう自問自答していた。


 妻への未練からこのような異形に成り果て、幾千里の空を飛んでぎょう城に戻って来てしまった。しかし、ここはもう袁家の牙城ではない。曹操の政庁が置かれた敵地なのだ。この城には、自分の居場所など、どこにも存在しない。



 ――妻への愛惜の念を捨てられず、妻を奪った敵将を祟る気概も無い……。私はなんて愚かしい、思い切りの悪い男なのだ。こんな中途半端だから、蛇の化け物になっておきながら、人を呪う力をほとんど持たぬのだろう。嗚呼、情けない……。潔く冥府に行けば良かった。



 水仙は、また逢いたい、と言ってくれた。しかし、曹丕との間にできた子を自分に引き合わせたい、とも言いかけていた。そして、何事かを詫びようとしていた。


 なぜ仇の子と自分が会わねばならないのか。彼女の意図がよく分からない。だが……。



 ――命儚き幼子ならば、私でも呪殺じゅさつできるのでは?



 という、どす黒い感情が、心の奥底でさっきからくすぶっている。



 ――いや、いけない。よせ、袁煕。



 あの幼子は、曹丕の子だが、水仙の子でもあるのだ。彼女を泣かせるようなことなど、自分には絶対にできない……。


 蛇は、何度も何度も、己にそう言い聞かせた。


 このまま消えるべきなのだ自分は。もう彼女の前に姿を現すべきではない。



 ――消えろ、消えろ。袁顕奕はすでに歴史から消えた男。未練がましく現世に残ろうとするな。父や兄弟が冥界から迎えに来てくれる時を待ち、どこかで大人しく隠れているんだ。水仙の所へ行っては駄目だ……。



 ――それで本当にいいのかねぇ。



 唐突に、何者かが蛇の心に語りかけてきた。一度聞けば耳底じていにいつまでもこびりついて忘れられぬような、異様に粘り気のある、いやらしい声だった。蛇は、その気色の悪い声音を聞いただけで、胃酸が逆流するような感覚を覚えた。



 ――誰だ。



 鎌首をもたげ、蛇は前方を睨む。


 最前さいぜんまで晴れていたはずだが、周囲はいつの間にか深い霧に覆われていた。その霧の向こうに、白々と光り輝く「何か」が立っている。



 ――誰だ、とは不遜だねぇ。余はこれでも、神なのだがねぇ。もうちょっと、敬意を払ってもらいたいものだねぇ。お前の父と、そのお友達の曹操とは、昔々から仲良くしているというのに。息子のお前がそんな態度では困るねぇ。



 その「何か」は、クスクスと笑い、極めて尊大な態度でそう言う。


 神と聞いて、蛇には思い当たることがあった。



 ――ま、まさか……。貴方は……度朔君どさくくんなのですか。



 ――フフッ。ようやく分かったのかねぇ、袁紹の不出来な次男坊。自分の子を曹丕に殺されておいて、おめおめとあの世に去ろうとするなんて馬鹿だよねぇ。復讐するべきだよ、ここは。違うかい? 違わなくないよねぇぇぇ?

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