密会
「あっ。旦那様、お帰りなさいませ!」
「やあ、司馬仲達」
(やっべ。
張繍に、彼の家族が強制的に引っ越し(しかも、殺人事件があった事故物件に)させられていることを伝えねばならない。気が重すぎる。怒りだして、暴れたりしないだろうか。話すのが憂鬱で、司馬懿はお腹が痛くなってきた。
「司馬仲達よ。
「ああ~……えっと~……。実は、張繍将軍のご家族は――ん?」
言いよどみ、張繍から視線を反らすと、寝台の上でプカプカ浮いている細長い物体が目に入った。それは、大剣化している
「は……柱に縛り付けておいたはずなのに……!」
「あっ、あれですか? 縛られていて可哀想だったので、私が縄をほどいて旦那様の寝台に置いておきました!」
「し、小燕。なんて余計なことを――どわぁぁぁ‼ なんか光線っぽいものを撃ってきたぁぁぁ‼」
司馬懿は、泡を食って逃げ出した。
泰山環は、稲妻ビームをばビュンビュン飛ばしつつ、追いかけてくる。
屋敷を飛び出した司馬懿は、夜の
* * *
翌日の早朝――。
眠れぬ夜を過ごした水仙は、幼い息子を寝床に残したまま起きだし、鏡台の前で身づくろいを始めていた。
昨日の朝、彼女は信じられぬ奇跡を体験した。ほんの数分のことだったが、それは夢のようなひとときで、いま思い出しても胸が激しく高鳴る。
(ちょうど、こうして髪を整えている時だったわ。もう一度……もう一度だけでいいから、あの人に逢いたい)
奇跡が再び訪れることを密かに期待し、長い髪を
やがて、懐かしい視線が、背中を撫でた。
ハッとなって振り向くと、窓から一匹の
赤い珠は、よく見ると、美しい紋様が施されたガラス玉(
水仙は、それに見覚えがある。前夫
「
水仙は泣き笑いしながら、緑蛇に語りかけた。曹丕にはけっして聞かせることのない、心のこもった温かな声で、「ありがとう……。私、嬉しいわ」と言った。
蛇は、何も答えない。鎌首をもたげ、穏やかな眼差しで水仙をじっと見つめている。
美女と緑蛇の間に、しばしの沈黙と親愛の時間が流れた。そして、数分後、蛇は昨日と同じようににょろにょろと
……生前の袁煕は、愛妻の髪を梳かすのが好きで、
「素敵なかたち。あなたの言う通り、今朝はそのようにしますね。……あの。顕奕様。いまは眠っているのですが、あなたに会ってもらいたい子がいるんです。実は私、どうしても詫びたいことがあって――」
そこまで言いかけた時、水仙は急に口をつぐんだ。この隠し部屋へと通じる秘密の扉がギギギ……と開く音が聞こえたからである。
きっと、華佗の妻の
(玉容殿は、女の髪に無頓着な華佗先生とは違い、私の髪の変化を昨日から
水仙は慌てた。もしも曹丕に報告されたら、哀れな蛇――恐らくは袁煕の魂が変じたもの――は退治されてしまうに違いない。
「顕奕様、逃げて」
廊下の方角をチラッと
だが、蛇の姿は、もうそこには無かったのであった。
* * *
――自分は何をやっているのだろうか。
華佗邸の正門を出た蛇は、道を這いながらそう自問自答していた。
妻への未練からこのような異形に成り果て、幾千里の空を飛んで
――妻への愛惜の念を捨てられず、妻を奪った敵将を祟る気概も無い……。私はなんて愚かしい、思い切りの悪い男なのだ。こんな中途半端だから、蛇の化け物になっておきながら、人を呪う力をほとんど持たぬのだろう。嗚呼、情けない……。潔く冥府に行けば良かった。
水仙は、また逢いたい、と言ってくれた。しかし、曹丕との間にできた子を自分に引き合わせたい、とも言いかけていた。そして、何事かを詫びようとしていた。
なぜ仇の子と自分が会わねばならないのか。彼女の意図がよく分からない。だが……。
――命儚き幼子ならば、私でも
という、どす黒い感情が、心の奥底でさっきから
――いや、いけない。よせ、袁煕。
あの幼子は、曹丕の子だが、水仙の子でもあるのだ。彼女を泣かせるようなことなど、自分には絶対にできない……。
蛇は、何度も何度も、己にそう言い聞かせた。
このまま消えるべきなのだ自分は。もう彼女の前に姿を現すべきではない。
――消えろ、消えろ。袁顕奕はすでに歴史から消えた男。未練がましく現世に残ろうとするな。父や兄弟が冥界から迎えに来てくれる時を待ち、どこかで大人しく隠れているんだ。水仙の所へ行っては駄目だ……。
――それで本当にいいのかねぇ。
唐突に、何者かが蛇の心に語りかけてきた。一度聞けば
――誰だ。
鎌首をもたげ、蛇は前方を睨む。
――誰だ、とは不遜だねぇ。余はこれでも、神なのだがねぇ。もうちょっと、敬意を払ってもらいたいものだねぇ。お前の父と、そのお友達の曹操とは、昔々から仲良くしているというのに。息子のお前がそんな態度では困るねぇ。
その「何か」は、クスクスと笑い、極めて尊大な態度でそう言う。
神と聞いて、蛇には思い当たることがあった。
――ま、まさか……。貴方は……
――フフッ。ようやく分かったのかねぇ、袁紹の不出来な次男坊。自分の子を曹丕に殺されておいて、おめおめとあの世に去ろうとするなんて馬鹿だよねぇ。復讐するべきだよ、ここは。違うかい? 違わなくないよねぇぇぇ?
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