ある可能性

「春華。ただいま……」


「お帰りなさいませ――って、どうしてそんなにボロボロなのですか」


 春華は、帰宅した夫の衣服がビリビリに破れ、体中にあざができているのを見て、驚きの声を上げた。


「ちょっと野良犬に襲われてな。曹丕に復命すべきことがあるのだが、こんなひどいかっこうでは司空府に顔を出せぬゆえ、立ち寄ったのだ。すまぬが、下女に着替えの服を用意させてくれ」


「はい、分かりました」


 春華はうなずくと、下女に目配せをした。


「……ところで、父上は?」屋敷が静かなことに気づき、司馬懿がそうたずねる。


「義父上なら、崔琰さいえん様の宴に招かれ、お留守です。がくさんとちょうさんも、義父上のお供でいません」


「そうか……。司空府に行く前に、ちょっと相談したいことがあったのだがな」


 崔琰といえば、袁紹の元家臣で、後に曹操に招聘しょうへいされた賢人である。司馬懿の兄の司馬朗しばろうと仲が良く、


 ――司馬朗よ。おぬしの才は、弟の司馬懿には及ばぬぞ。


 と、司馬懿の将器を早くから見抜いていたことで知られる。


 この崔琰という賢者、曹丕と曹植の後継者争いで後々重大な役割を果たすことになるのだが、今のところは物語の本筋と関係無いため、彼についてはいておく。



「春華。でんに命じて、この剣を俺の部屋の柱に縛り付けておいてくれ」


 司馬懿はそう言い、元の三尺(約六九センチ)の剣に戻っている泰山環たいざんかんを春華に手渡した。


「なぜ剣を縛っておくのです。曹丕様から賜った物を粗末に扱っていいのですか?」


懲罰ちょうばつだ。持ち主と所有物、どっちの立場が上から分からさねばならん」


「はぁ……。よく分かりませんが、分かりました」


 春華は怪訝な顔をしつつも夫の命令に従い、隣の部屋にいた田さんを呼んで泰山環を預けた。


「それで、義父上に相談したかったこととは? 私でよかったら、話を聞きますが」


「ウーム……。どちらかといえば、この手の話は、父上よりも春華向きかも知れないな。父上は、女子おなごの気持ちなんて、分からんだろうしなぁ」


 司馬懿は、下女が持って来た新しい衣服に着がえながらそう呟くと、「ちょっとした例え話なのだが……」と妻に言った。


「俺が戦で死んだとする。敵将がお前に惚れ、無理やりお前を妻にした。お前は、俺を死に追いやった敵将の子を身籠り――痛っ⁉ 痛い、痛い! 背中を殴るな! いまメチャクチャ痛いんだよそこ! や、やめんかコラ!」


 春華は冷ややかな眼光まなざしで夫を睨み、「私を怒らせて、流産でもさせたいのですか?」と怒気を含んだ声で言った。


「た、ただの例え話だと言っているだろ。俺はただ、新しい夫との間に子ができて、それなりに平穏に過ごせていても、女は昔の男をいつまで経っても愛し続けるものなのか訊きたかっただけで……。そ、そんなに怒ることないじゃないか」


「怒りますよ。怒るに決まっているじゃないですか。あなたを死に追いやった敵将の子を産むですって? 今、このお腹に、仲達殿の子供がいるのに? この子はどうなるのですか。その敵将とやらの手で、堕胎だたいさせられるか、それとも生まれてすぐに殺されるのですか? そんなこと、私が許すわけがないでしょう。

 ……もちろん、殺してやりますよ。あなたとの間にできた大事な子を奪われるぐらいなら、その男を殺して仲達殿の仇を取ってやります。そんなことも分からないのですか。私はそんじょそこらの弱い女じゃありません! 夫を討たれ、おめおめと敵に屈服するはずがない!」


「わ、分かった。俺が悪かった。さっきのは酷い失言だった。だ……だから、据わった目をしながら剣の柄に手をかけるのはやめてくれ。ね? ね? 春華ちゃん?」


 現在妊娠中の妻にふってはいけない話題だったことに気づき、司馬懿は顔を真っ青にして謝罪した。


 が、春華はプイッと顔を背け、部屋から出て行ってしまった。


「春華ちゃん、ごめんってば!」と、司馬懿は慌てて後を追おうとしたが、着替え中だったため、袴を踏んづけて盛大に転んだ。


「う……ぐぐ……。い、痛い。今日は人を怒らせてばかりいる。厄日か?」


「いや、坊ちゃまのその失言癖のせいだと思いますぜ?」


 いつの間にか戻って来ていた田さんが、呆れた声でツッコミを入れた。


「……たしかに、さっきのは完全に俺の落ち度だ。そもそも、水仙様は前の夫との間に子ができていたわけではない。春華とは状況が違うのに、変なことを訊くべきではなかった」


 司馬懿はそう呟き、起き上がって身なりを整える。


 下女は春華が連れて行ってしまったので、田さんが服を着るのを手伝ってくれた。


「それにしても、若奥様は冷淡に見えて、本当は情の深い女子おなごなのですねぇ。坊ちゃまとの間に授かった子供の命を守るためなら敵将を討つ、と言い放つなんて。いくら夫のことを想っていても、そこまで豪語できる女なんか天下広しといえどなかなかいませんぜ」


「うむ……春華は強い女だ。口先だけでなく、実際にそうするはずだ。怒らせてしまってこんなことを言うのも何だが、乱世を生きる男として、こんなにも頼もしく思える妻は他にいない。仮に俺が本当に戦で死んだとしても、春華は腹の子を守りきって、ちゃんと産んでくれることだろう。敵将に俺の子を殺させるなんてことは絶対に――」


 そこまで言うと、司馬懿はに気がついてしまった。そして、口を半ば開けたまま、愕然がくぜんとした。


 これは、あくまで妄想だ。何の証拠も無い。

 しかし、その妄想が事実であれば、水仙が曹丕をおびえた目で見る理由も、いまだに前夫袁煕えんきに執着する理由にも説明がつく。


(万が一、俺の勘が正しければ……これはとんでもないことだぞ。曹丕に対する認識を大きく改めねばならぬことになる)


 全身から嫌な汗が噴き出してきた。


 しかし、さすがの司馬懿も、その恐るべき可能性について曹丕に問いただす勇気は無かった。彼の秘事を暴いてしまえば、自分や華佗どころか、もっとたくさんの人間の運命を狂わせてしまうことになるだろう……。


「と……とにかく、司空府に行かねば。今日のところは、差し障りのない報告だけして、さっさと帰ろう」


 震える声でそう言い、司馬懿は司空府に赴いた。




 曹丕と面会した司馬懿は、華佗邸で見聞きしたこと――ただし、水仙が袁煕を「私の夫」と呼んだことは黙っておいた――を報告すると、すぐに自宅へ帰った。


 報告を聞いた曹丕も、「蛇のかたちに似たたぶさ、それに赤い珠をくわえた緑色の蛇……。変わったことといえば、それぐらいか。ならば、今のところは様子を見ることにしよう」と司馬懿に言っただけで、別に引きとめはしなかった。



「……袁煕の奴、妻への未練が邪魔をして、冥府に行けなかったか。しかし、どうやら悪鬼化はしておらぬようだ。温厚な男だとは聞いていたが、それとも意気地がないだけか?

 このまま何事も無いのなら、放っておいてやってもいいが……どういうわけか嫌な予感がする。念のため、『万が一のことがあったら頼む』とあいつにひとこと言っておくか」


 司馬懿が退出した後、曹丕は燭台のを睨みながら、独りそう呟いていた。

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