霊蛇髻

 霊蛇髻れいだけい


 という髪形が、魏文帝曹丕の宮廷で流行ったという伝説がある。


 言い伝えによれば――毎朝、しん夫人(この物語では甄水仙)が髪をいていると、赤いたまをくわえた一匹の緑蛇りょくだがどこからともなく這い寄って来たという。

 蛇は、彼女の前でその身をまがりくねらせ、たぶさ(髪を頭上でたばねたところ)に似た形を作った。彼女が蛇に教えられた通りの髻にしてみたところ、天工に勝る美しい髪形になった。これが霊蛇髻である。

 宮女たちはこぞって甄夫人の髪を真似したが、蛇は毎朝形を変えるため夫人の霊蛇髻も日々マイナーチェンジしていき、彼女の髪に似せることは非常に難しかったという。



 甄水仙は、今朝まさに、初めてその髪形をしていた。


(俺の妻の春華は……)


 と、司馬懿は水仙の髻を凝視しながら考え込んだ。


 春華は苛々いらいらすると、髪をほどいて梳いたり、髻の形をあれこれ変えたりする癖がある。女の髪のかたちは、往々にして、その心理状態の影響を受けるものらしい。


 そんな髪を、水仙は劇的なまでに変えていた。しかも、見たこともないような、とぐろ巻く蛇を思わせる髪形だ。司馬懿は、この髻を目にした瞬間、劉勲りゅうくんの娘に取り憑いていた黒蛇を連想していた。


(嫌な予感がする。水仙様の御心をかき乱すような、何らかの異変があったのではないか。誰も知ることのない隠し部屋でも、幽鬼ならば簡単に入り込めるはずだ。まさか……袁煕えんきか?)


 司馬懿は、そう怪しんだ。


 だが、百歳オーバーの華佗は、若い女性の髪になど関心が無いらしく、特に気にしていない様子である。


 華佗先生が気づいていないのなら、俺が問いたださねば。そう思った司馬懿は、「ところで、奥方様」と切り出した。


「今日は、面白い形の髻をしているのですね。私の妻が見たら、真似したがりそうだ。いつも着飾らず、おとなしめの髪形しかなさらない奥方様に、そんな華やかな髻を考えるご趣味があったとは少し驚きです。……それとも、どなたかに教わったのでしょうか? ここで、誰かと会いましたか?」


「いいえ。ここには、華佗殿と玉容ぎょくよう殿しか足を踏み入れることができませんので、ずっと誰とも……。この髪は、ただの気まぐれで遊んでみただけですわ」


「なるほど。では……しつこいようで恐縮ですが、本当に何も変わったことは無かったのですね?」


 司馬懿が念を押してたずねると、水仙は「え、ええ……」と答えた。わずかに唇が震え、ひたいには薄っすらと汗がにじんでいる。


 その反応を見た瞬間、ただ可哀想だと思っていたこの美女に対して、司馬懿は初めて別の感情を抱いた。



 ――この御方は、嘘をつくひとだ。



 という不信の念である。


 司馬懿は、曹丕の使いとして、ここに来ているのだ。その司馬懿に虚言を吐くということは、夫の曹丕をだましているに等しい。


 ここで水仙に遠慮して引き下がれば、何か重大なことを見落とすかも知れない。そう危ぶんだ司馬懿は、迷わずに行動に出ることにした。「御免ッ」と言うが早いか、霊剣泰山環たいざんかんを抜いたのである。


「きゃっ!」


「おい、仲達殿。何のつもりじゃ」


 水仙が悲鳴を上げ、華佗が眉をひそめる。


 それに構わず、司馬懿は泰山環の刃を前方に突きつけながら、部屋の隅から隅まで歩き回った。


 が、泰山環は何の反応も示さない。ほんの少しも光ろうとしなかった。


 つまり……けがれた存在は近くに潜んではいない、ということだ。


「どういうことだ? 俺の直感はわりと当たるのに……」


「いい加減にして!」


 司馬懿は、左頬に焼けつくような痛みを感じた。立ち上がるなり詰め寄って来た水仙に、思いきり平手打ちされたのだ。いつも感情にふたをしている彼女が、珍しく激情を見せていた。


 子供の前で――と、水仙はしょう(ベッド兼ソファーの家具)で眠っている曹叡そうえいに視線をやる。


「子供の前で剣を抜くとは何事ですか。慮外者りょがいものッ」


「も、申し訳ありません。されど、袁煕の祟りは、貴女あなたや公子様だけでなく、ご幼少の曹叡様にも及ぶ可能性があるのです。実際、劉勲の娘が、父親に殺められた者たちに呪われていました。卑怯な悪鬼は、怨みがある人間を苦しめるため、本人を祟らずにか弱い女子供を狙うことが――あ痛ッ⁉」


 またぶたれた。と思ったら、三発目も喰らった。往復ビンタである。


顕奕けんえき(袁煕の字)様は……あの人は……叡を祟ったりなんかしません! 私の夫を辱めるようなことを次に言ったら、承知しませんよ!」


(私の夫……)


 貴女の今の夫は曹丕ではないのか、と危うく口走りそうになったが、ぎりぎりで言葉を呑み込んだ。


 華佗も、何か言いたそうな眼差しを水仙に向け、黙している。


 本人は、興奮のあまり気づいていないようだが、さっきのは非常に危険な失言だった。彼女は袁煕を「私の夫」と言ったのだ。つまり、彼女の心はいまだに袁煕のもので、曹丕を夫として認めていないと解釈されてもやむを得ない発言である。


 水仙は強奪されるかたちで曹丕の妻になった。だから、今でも前の夫を愛しているのは、考えてみたら当たり前のことかも知れない。


 だが、そこで眠っている幼子は、曹丕と水仙の間にできた子供なのだ。彼女の失言が世間に漏れ、夫婦関係に破綻が生じるようなことがあれば、一番可哀想なのは何の罪も無い曹叡である。口が裂けても曹丕には伝えられないな、と司馬懿は思った。


「う~ん……。ははうえ、なにをさわいでいるの? うるさくて、ねむれないよぉ」


 曹叡が寝ぼけ眼をこすりながら、水仙に話しかけた。どうやら、母親の怒鳴り声で起きてしまったらしい。


「あ……ああ。ごめんなさい、叡。何でもないの、何でもないのよ。大きな声を出してごめんね」


 水仙は、母の顔に戻り、曹叡の小さな体を抱きしめた。


 寝ぼけている曹叡は、柔らかい胸に頬ずりして、母親の良い香りをクンクンと子犬みたいに嗅いでいる。


わしらはもう、退出しよう)


 華佗が、司馬懿に目でそう合図した。


 司馬懿は水仙を怒らせてしまった。それに、曹叡が起きてしまったので、袁煕のことなど込み入った話もできない。何の情報も引き出せないのならば、長居するだけ無駄だろう。


 分かりました、と司馬懿はうなずいた。そして、二人は挨拶もそこそこに、母子の部屋から出て行った。


 水仙は、去りゆく司馬懿に、一言も声をかけなかった。




            *   *   *




「あーあ。水仙様に完璧に嫌われてしまったぞ、これは。曹丕から、あの御方を見守るように命じられてるのというのに、まいったなぁ……」


 司馬懿は、華佗邸の門前でため息をついていた。


 幼子がいる場で剣を抜いたのは、たしかに配慮に欠ける行動だったので、叱られるのは仕方がない。だが、とぐろをまいた蛇を彷彿ほうふつとさせるあの髻に、司馬懿は言い知れぬ凶兆を感じたのである。


 水仙は、派手好きな性格ではない。曹家の嫁になった経緯が経緯だけに、極力目立たず、ひっそりと生きたがっているふしさえある。そんな彼女が、何の理由もなく、人目を引くような髪形を自らするだろうか?


「悪鬼の仕業、と思ったのだがな。袁煕が幼子を祟ったら、命に関わると憂慮したゆえ、あの部屋に悪鬼が潜んでいないか確かめようとしたのだが……。

 袁煕は、よほど優しい男だったのだろうか。水仙様は、自分が産んだ子を元夫が呪うとは、夢にも疑っていない様子だった。袁煕にしてみれば、あの子は曹丕の血を引く憎悪の対象のはずなのに」


 そう呟きつつ、司馬懿は泰山環を抜いた。秋の冷たい陽光を受けて銀色に輝く剣をじっと凝視みつめめる。


 穢れに反応した際、この霊剣は黄金色こがねいろの光を放つ。あの秘密の部屋で全く光らなかったということは、袁煕の魂は水仙のところには来ていないということだろうか。



「む……?」


 足元で、何かがうごめいている。視線を落とすと、司馬懿の前を緑色の蛇が通り過ぎようとしていた。この蛇、どうやら華佗の屋敷から出て来たらしい。


 誰かの落とし物を拾ったのか、口に赤い珠をくわえている。からすは光る物を集めたがると聞いたことがあるが、蛇にそういう習性はあるのだろうか。


(先日見たあの黒蛇のような禍々しさは無いようだが……)


 いちおう念のためだ、と司馬懿は考え、泰山環の刃を緑色の蛇に近づけてみた。


 しかし、反応は無い。見た目通りの普通の蛇のようだ。司馬懿は、緑色の蛇をそのまま行かせた。


「う~む。この霊剣、劉勲の娘の時といい、張繍ちゅうしゅうの時といい、最近はぜんぜん役に立っていないような気がする。……もしかして、霊剣としての力が失せたのではないか?」


 ふとそんな疑念を抱いた司馬懿は、「ちょっと試してみるか」と呟きながら、たまたま目に入った路傍の馬糞へと歩み寄った。


 泰山環は、穢れたものが大嫌いで、その拒絶反応から光り輝く。便所で汚すのもNGだと曹丕は言っていた。だったら、あの馬糞をこの剣の切っ先でつんつくつんしてみたらどうだろう。もしも、光り輝かないのなら、霊剣としての力は消滅しているに違いない――などと馬鹿なことを考え、それを実行しようとしたのが大きな過ちであった。


「それ、つんつくつ……」


 と、泰山環で馬糞をつつこうとした直前、刃が突然弾けるように光を発し始めたのだ。


 しかも、一瞬で五尺三寸(約一二一センチ)の大剣に変化し、司馬懿の手から逃げ出して空中に浮かんだのである。


「え⁉ この霊剣、自分の意思で勝手に動けるのかよ⁉ わ、わ、わ。何か怒ってるっぽいぞ。こっちに来る……!」


 泰山環は、黄金色に輝きながら、バビューーーン! と司馬懿に突進してきた。


 司馬懿は慌てて逃げようとしたが、あっと言う間に追いつかれ、剣の腹で背中を激しく叩かれた。


「ぐべっ⁉」


 蛙が踏み潰されたような悲鳴が、鄴城の高級住宅街に響き渡る。


 持ち主が再起不能の重傷を負わないように手加減はしているようだが、背骨が砕けるかと思うほど痛い。しかも、執拗にバシバシ叩いてくる。恐怖した司馬懿は、怒れる霊剣から逃れるべく、死に物狂いで駆けた。


 しかし、空飛ぶ剣は、またすぐに追いつき、今度は司馬懿の背のいたるところをつつき始めた。尻は汚いので、触れようとしない。


「悪かった! 俺が悪かったから、許してくれ! い、いてててて! なんちゅう剣じゃこいつぅぅぅ‼」


 その後、司馬懿は日が没する時間帯まで、空飛ぶ霊剣に追いかけ回されるのであった……。








※甄夫人の霊蛇髻については、浜本鶴賓著『支那歴代後宮秘史』(春陽堂刊)を参考にしました。


※袁煕の字は、『三国志』では顕奕けんえきと記されていますが、『後漢書』においては顕雍けんようと記されているようです。この小説では『三国志』の記述に従いました。

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