秘密の扉

「なるほど。張繍ちょうしゅう将軍の幽鬼が、お前さんのところにのぉ」


 華佗かだ邸に司馬懿が赴くと、華佗はすぐに会ってくれた。どうやら、今日は患者がいなくて暇らしい。


「はい。『袁煕えんきの魂も、すでにこの地に来ておるやも知れぬ』と公子様は仰せです」


子桓しかん(曹丕のあざな)殿の懸念はもっともじゃ。今のところ異変はないが、警戒しておく必要があるな」


「奥方様に災いが及んだ際には、華佗先生の御力をぜひ貸していただきたい。あの女性は、とても可哀想な人です。愛していた元夫に呪われたら、あまりにも悲惨すぎます」


「安心せい。わしがそばにいる限り、大事には至らせぬ。仲達殿も、しばらくの間は、子桓殿のそばからなるべく離れるでないぞ。お前さんは霊剣泰山環たいざんかんを子桓殿から預かっておるのだからな。その剣は、怪異に対する大いなる切り札じゃ。それを持たされているということ自体が、お前さんへの大きな信頼の証。その信頼を裏切ったら、司馬仲達の名に傷がつくぞ」


「は……はぁ……。分かりました」


 司馬懿は、曖昧に返事をした。


 たしかに、華佗の言うように、泰山環は対怪異のスーパーウェポンである。何万何千もの悪鬼の力を吸収した猛将馬超すら一蹴した。こんな武器、普通ならば、武芸に秀でた曹真あたりに持たせておくのが良いはずだ。それなのに、どういうわけか、自分が腰に帯びている。曹真は「なぜお前なのだ」とあの夜に激昂していたが、司馬懿自身にも、曹丕がなぜ自分をそこまで信任しているのかサッパリ分からなかった。


「で、用件はそれだけか」


「あっ、いえ。奥方様と曹叡そうえい様に会わせていただけると有り難いのですが。あの性悪しょうわる公子も、妻子が元気にしているかいちおう気になっているでしょうし」


「ふむ……。子桓殿からも、お前さんには曹叡坊ちゃんと接触させてもよいと言われておる。部屋に案内してやってもいいが……今から連れて行く場所について、けっして口外するでないぞ。のことが世間に知れれば、この儂の命が危うくなるからな」


「え? それはどういう――」


「さあ、行くぞ」


 華佗は腰を上げると、自分について来るようにあごうながした。


 司馬懿は、老医者に従い、正房せいぼう(表座敷)の奥の部屋へと繋がっているらしい廊下を歩いて行く。


(華佗先生の命が危うくなるとは、如何いかなる意味だ?)


 司馬懿は、自分の前をゆく華佗の謎めいた言葉に困惑していた。


 しかし、さらに戸惑う事態が、彼を待ち受けていたのである。




「ここじゃ」


 立ち止まった華佗が、前方を指差す。


 司馬懿が見ると、廊下の突き当りだった。


「えっとぉ~……。壁、ですよね、これ。奥方様の部屋に案内してくれるはずでは? あっ、ボケました? 華佗先生、もしかしてボケちゃってます? さっきの意味深な台詞せりふも、ボケた老人の世迷言よまいごとで――いってぇぇぇ⁉」


 司馬懿は、向こうすねしたたかに蹴られ、激痛のあまりその場にうずくまった。


 人体を知悉しりつくした名医なので、どこをどの角度から蹴れば痛いか熟知している。曹真にも喧嘩するたびに脛を蹴られているが、屈強なあの男よりも華佗老人の蹴りのほうがよほど効いた。


「無礼を申すな、たわけ。儂はこれでも、徐州じょしゅう陳珪ちんけい殿に孝廉こうれん(漢代の官吏採用システム。学と徳に優れた者を各郡が官吏に推薦した)に推挙されたこともあるのじゃぞ。患者を見捨てて政治の道には行けぬゆえ結局は断ったが、れっきとした士人しじんでもあるのだ。医者の身分を軽んじる者が世間に多いからといって、この華元化げんかを馬鹿にするでないッ」


「い、いや、馬鹿にしたわけではなく、ボケたのかなって本当に心配して――いってぇぇぇ‼ す、すみません! ボケてません! 華佗先生の頭は、澄み渡った天空のようにハッキリしてます!」


「フン。分かればそれでいい。今から儂がすることをそこで大人しく見ておれ」


(どうして、俺のまわりは、手と足がすぐに出る人たちばかりなんだろう……)


 華佗は、まだ起き上がれない司馬懿を放っておいて、廊下の横壁に手を伸ばす。そこには、一から九までの数字が記された小さな突起物ボタンがあった。彼は、その小さな突起物ボタンを三、五、九、四の順番で押した。


「華佗先生、その数字は何ですか?」


「暗証番号じゃ」


「あんしょう……どわぁぁぁ‼ か、壁が急に動き出したぁぁぁ‼」


 正面の壁が重々しい音とともに左右に分かれて開き、隠されていた通路が現れた。


 これは完全にオーパーツ、古代中国にあってはいけないセキュリティ・システムである。司馬懿は思わず、「これ大丈夫⁉ 時代考証的にヤバイのでは⁉」と叫んでしまっていた。


「時代考証? 何の話をしておる」


「いやーいやー、だってあり得ないですもん。何なんですか、この動く壁。華佗先生は、こんなカラクリまで作れちゃうんですか。医者とかもう、全く関係無いですよね」


「これは儂が作ったものではない。沔南べんなんの名士、黄承彦こうしょうげんの娘が発明した隠し扉じゃ」


「黄承彦……。たしか、荊州けいしゅう刺史しし劉表りゅうひょうの継室であるさい夫人ふじんの姉を妻に持ち、劉表とは義理の兄弟にあたる人物でしたな」


「うむ。儂が三年前に所用で荊州に滞在していた時、その黄承彦が全身複雑骨折する大怪我をしたのじゃ。発明好きの娘が作った、動く木偶でく人形に誤って殴り飛ばされたらしい。儂がしばらく黄家に滞在し、骨を元通りにしてやると、黄承彦の娘は泣いて感謝して『ぜひお礼がしたいと』と申してな。わざわざぎょうまで赴いて、ちょうど転居したばかりだったこの屋敷に隠し扉を作ってくれたのだ」


「こんなカラクリを発明するなんて、いったいどんな女人なのやら……。天下には、まだまだ俺の想像を超えるビックリ人間がいるのだなぁ」


 司馬懿はそう呟き、三嘆さんたんした。まさかその女性が、自分の終生のライバルとなる諸葛孔明の嫁だとは、知るよしもない。


「この扉はすぐに自動で閉まる。無駄話をしていないで、行くぞ」


「あっ、はい」


 司馬懿は、華佗とともに、薄暗い隠し通路を行く。背後で、壁がギギギ……と動いて、扉が閉まる音がした。


(なるほどな。この通路の奥に、あの幼子が隠されているというわけか。人の出入りが激しい医者の家で、よく子供を秘匿ひとくできているものだと思っていたが、まさかこの屋敷に秘密の扉があったとは。そのようなこと誰も想像するまい。たしかに、こんなことが世間に知れたら、曹操に殺されかねんな。曹操からしたら、一介の医者が自分の孫を隠し部屋に監禁しているようなものなのだからな)


 華佗という男も、謎の多い人物である。曹家とはそうとう深い縁があるようだが、なぜ曹丕のためにこんな危ない橋を渡っているのか。


 曹丕は常々、「クソ親父のあとは、異母弟の曹沖そうちゅうが継げばいい」などと言っていて、政治的野心が無い。鬼物奇怪きぶつきっかいの事に心惹かれ、オカルト作家になろうとしている。曹操の正室卞夫人べんふじんが産んだ第一子でありながら、この国を動かす権力者になる将来を自ら放棄していると言っていい。そんな曹丕を助けても、華佗には何の利益も無いはずである。


 まさかとは思うが、単なる好意だけで曹丕に協力しているのだろうか。もしもそうなら、この老医者はいささか無邪気すぎるだろう。自分の命を懸けてまで助ける価値が、あの若者にあるとでも――。


(いや、他人のことは言えんな)


 司馬懿は心中そう呟き、かぶりを振った。


 自分もまた、その危ない橋に足を踏み入れようとしているのだ。しかも、「曹丕の秘密を知れば、彼のことをもっと理解できるかもしれない」と密かに期待までしてしまっているのである。


 曹丕はあれだけ性格が悪いのに、その周りには鍾繇しょうよう華歆かきん、曹真、華佗などといった個性的な人材が集まっている。人を吸引する謎の魅力がある。これもまた人徳と言っていいのであろうか。




            *   *   *




「ここが、水仙殿と曹叡坊ちゃんのいる部屋じゃ」


 司馬懿が考えごとをしている間に、秘密の部屋に着いたようである。華佗が立ち止まり、そう告げた。


 老医者は「失礼しますぞ」と一言断り、部屋に入って行く。司馬懿もその後に続いた。


 曹叡は、母の膝を枕にして、昼寝の最中だった。


 水仙は、華佗の寂声さびごえを聞くと、「あっ、華佗先生――」と顔を上げた。しかし、司馬懿と目が合った瞬間、その美貌をわずかに歪ませ、


「それと……貴方は司馬懿殿でしたね」


 と、言った。


 司馬懿の眼光が狼か鷹のように鋭いせいか、彼女は司馬懿に対して苦手意識があるようである。それを察した司馬懿は、(やっぱり、俺、この美女に嫌われているっぽいな……)と若干傷付いた。


 室内は、隠し部屋にしては、意外と明るい。太陽の光がちゃんと入りつつも、外から屋内の様子が見えないように、窓の配置を工夫しているらしい。これなら、幼い曹叡が病気になる心配も無いだろう。


「水仙殿。今朝は何も変わったことはありませんでしたかな?」


 華佗がそう訊くと、水仙は「ええ……」とか細い声で答えた。その時、沈んだ表情が多い彼女にしては珍しく――ほんの一瞬ではあるが――微笑の影が美しい顔に浮かんだ。その笑みは、どことなく媚びているように見える。


 元は敵将の妻だったという負い目があるからか、彼女は自分の感情をほとんど表に出さない。言葉数も非常に少なく、このひとが何を考えているのかは、なかなか汲み取りにくいものがある。


 だが、華佗の問いかけに対する彼女の反応に、司馬懿はぎこちなさを感じていた。


 ――嘘をついている。


 直感で、そう察したのである。


 これは、司馬懿に女心を推量できるモテ男の才能があるというわけではない。この男が生来持つ危機察知能力が働いた結果だった。


 しかし、水仙が何を隠しているのかまでは、さすがに分からない。


(胸のあたりがざわざわするこの違和感の正体は何だ? ……あの変わった髪形と何らかの関係があるのだろうか)


 司馬懿は、心中そう呟きつつ、水仙をじっと凝視みつめた。


 彼女は、いつもと違う髪形をしていた。


 しかも、かなり風変わりである。


 頭の上で一匹の蛇がとぐろをまいているような髪形だったのだ。

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