曹沖登場

「公子様! 張繍ちょうしゅうが寝室でこんばんはで泰山環たいざんかんがピカってくれなくてDOGENEを小燕としました! いったいどうなってるんですか⁉」


 張繍の幽鬼と遭遇した翌日の朝。

 司馬懿は、曹丕の仕事部屋に駆け込み、ヒステリックにわめきたてた。


 書見をしていた曹丕は、面倒臭そうに顔を上げ、「何を言っているのか、全く分からん。落ち着いてしゃべれ。死んだ張繍がどうしたって?」と訊いた。


「だ、か、ら! 昨夜、張繍が俺の寝室に化けて出たんですってば! しかも、『ここはわしの家だ』って言い張っているんです。公子様がくれたあの屋敷、本当に張繍のものだったのですか?」


「うん」


「う、うんって……。ちょっと待ってくださいよ。つまり、張繍が烏桓うがん討伐に従軍している間に、彼の邸宅を取り上げ、俺に下げ渡したってことですか? どうして、そんなことを……」


「ただの嫌がらせだ。戦から疲れて帰って来て、自分の家が他人のものになっていたら、衝撃と憤怒のあまりあいつの寿命が縮むかなぁと思ったのだ。まあ、帰還する前に陣没してしまったのだがな」


「性格悪すぎですやん……。『奴もまた被害者だ』とか言って、死んだ張繍のことをけなさなかったから、ちょっとだけ見直していたのに……。メチャクチャ言動が矛盾してるじゃないですか」


「矛盾はしていないぞ。死んでしまった人間を鞭打つようなことはせん、と言っただけだ。俺が、張繍の家族を殺人事件があった事故物件の屋敷に強制引っ越しさせ、お前にあの邸宅を与えた時には、奴の訃報ふほうはまだ届いていなかったからな。死者となった張繍には、もう怨みはない。その証拠に、奴の遺族に見舞いの品として、曹丕厳選・秋の果物豪華詰め合わせを先日送ったところだ」


「それ、絶対に食べてないから……。毒を警戒して、ひと口も食べてないから……」


 これで、張繍(亡霊)の言い分が正しかったことが確定してしまった。


 よくよく考えてみれば――たしかに、あれだけ立派な屋敷を賜る武将は、曹一族の人間以外では、張繍とあと数人ぐらいしか思いつかない。張繍の娘は、曹操の一子曹均そうきんの正室。彼は曹家の身内同然で、しかも、領邑りょうゆうは曹操の家臣団ではトップクラスの二千戸。新参者の司馬懿などよりも、あの屋敷の主にずっとふわさしい人物である。化けて出て、「なんでお前なんかが、この家の主人ぶっているのだ」と文句を言ってくるのは当然だ。


 あんな大邸宅をもらえるなんて最初からおかしいと思ったんだよ、こんな厄介なことになるのなら受け取らねばよかった、と司馬懿は今さらながら後悔した。


「あの屋敷は、張繍の遺族に返します。夜ごと屋敷の元主人に化けて出られるのは、心臓に悪いですし。俺のほうこそ寿命が縮んでしまいます」


「いや、気にせずに使えよ。どうせお前のところには小燕が毎晩やって来るんだ。一人ぐらい幽鬼の家族が増えても問題無いだろ」


「問題大有りだっつーの! うちの可愛い小燕を髭面の鎧武者と一緒にしないでください! 化けて出た時の衝撃度がぜんぜん違いますから! もしも、張繍の亡霊が妻に危害を加えたりしたら、どう責任を取ってくれるつもりなのです!」


 しょう(ベッド兼ソファーの家具)に座っている曹丕に司馬懿が詰め寄ると、曹丕は「つばを飛ばして怒鳴るな、汚い」と叱り、司馬懿のひたいを中指で弾いた。


「痛っ⁉ す、すみません……。でも、妊娠中の春華にもしものことがあったらと思うと、平静でいられないんです」


「まあ、心配はいらんさ。お前はさっき、『泰山環がピカって』くれなかったと言っていたではないか。あの霊剣が反応しなかったということは、張繍は悪鬼化していない。丁重に扱って、怒らさなければ、ただの人畜無害な幽鬼だ。たぶん、放っておいたら、冥府の役人がそのうちあいつの魂を迎えに来るはずだ」


「そ……それって、だいたいいつ頃になりますか?」


「さすがにそんなことは分からん。俺の兄と典韋てんいは、討ち死にしてすぐに迎えが来たみたいだが、冥府の役人にも仕事がいい加減な奴がいるらしいからな。まだ死ぬ予定ではなかった者があの世に連れて行かれ、役人が後で過ちに気づいて、蘇らせてもらった……とかいう伝承が方々にあるぐらいだ。張繍の場合も、冥府の役人に何らかの過誤があって、お迎えが遅れているのやも知れぬ。まあ、気長に待て」


「待てないですってばぁ~……。何とかしてくださいよぉ~……」


 司馬懿は半べそをかき、情けない声でそう訴えた。


 しかし、曹丕は別のことが気になっているようで、「そんなことよりも――」と急に話題を変えた。


「今は水仙のほうが心配だ。お前、どうせ暇だろ。今から華爺さんの屋敷に行って、彼女の様子を見て来い」


「えっ。どうして奥方様? 張繍の話がまだ終わっていないんですけど」


 司馬懿がそう抗議し、唇をとがらせる。


 同じことをくどくど言われるのが大嫌いな曹丕は、チッと舌打ちし、司馬懿にデコピンをもう一発お見舞いした。司馬懿は、「い、いったぁ~⁉ 二度もすることないでしょぉ~⁉」と叫びながら、両手で額をおさえる。


「何度も言わせるな、阿呆。張繍は悪鬼ではない、心配いらん、そう断言したはずだ。さっきお前が話したことで一番重要なのは、遠い戦地で病死した張繍の魂がこのぎょう城にもう帰って来たという事実だ。ということは、ほぼ同時期に死んだ袁煕えんきの魂も、俺か水仙を呪うために、そろそろ鄴城にたどり着いている可能性がある。袁煕が大人しく冥府に行っていないとすれば、こっちは十中八九、悪鬼化しているぞ」


「な、なるほど。たしかに、袁煕のほうがよほど危険でしたな。曹公(曹操)に優遇されたまま自然死した張繍とは違って、彼は愛妻を奪われた挙句、非業の死を遂げているのですから……」


「それゆえ、華爺さんに会って、水仙の身に異変が無いか確認して来いと言っているのだ。名門出身の袁煕ほどの武将ならば、たとえ悪鬼化していても、女子おなごを呪うなどという卑劣な真似はせずに俺のところに来ると思うが、いちおう念のためだ」


「承知しました。でも、公子様は行ってあげなくてもいいのですか?」


「駄目だ。それでは隔離している意味が無くなる。一番呪われる可能性の高い俺が、水仙のそばにいたら、彼女を巻き込んでしまう恐れがある」


「そうでした。うっかりしていました。では、ちょっと行って来ます」


 司馬懿は、そう言って席を立つと、部屋から出ようとした。


 だが、途中でふと思いついて立ち止まり、首をぐりぃ~んと一八〇度回転させて曹丕を見た。


「おい、急にそれをやるな。さすがの俺もビックリする」


「あっ、すみません。あの……曹真殿に同行してもらってもいいですか。万が一、奥方様に袁煕が取り憑いていて、悪鬼との戦いになったら、俺一人だと心もとないので」


 司馬懿がそうたずねると、曹丕はしばらく沈黙した後、「いや、一人で行け」と言った。


「向こうには華爺さんがいる。それに、お前も霊剣泰山環を持っているだろ。真がいなくても、悪鬼を退けることはできるはずだ」


「曹真殿は、公子様の力になりたがっています。戦力は多いほうがいいですし、支障が無いのならば、彼に一緒に行ってもらいたいのですが。それとも、何か差し障りがあるのですか? たとえば……」


 奥方様はいま、華佗邸の一室で曹叡様と暮らしていらっしゃる。曹真殿があの屋敷で奥方様と面会すれば、曹叡様とも接触してしまう可能性がある。そのことを公子様は警戒しているのでは――司馬懿はそう言いかけたが、ぎりぎりでその言葉を呑み込んだ。


 曹丕という男の本質を、司馬懿は知りたい。そのために、彼の家庭事情のことも、あれこれと詮索してきた。だが、幼い息子のことにまで探りを入れるのは、さすがに無遠慮すぎるのではないか……。そんな迷いが、司馬懿の口をつぐませたのであった。


「たとえば、何だ?」


「いえ……。何でもありません。行って参ります」


 司馬懿は、首をぐりん、と元に戻し、曹丕の仕事部屋から去って行った。




            *   *   *




「兄上」


 司馬懿が出て行って数分後。


 曹丕が物思いにふけっていると、一人の美少年が曹丕の部屋に入って来た。


 色素の薄い肌、悠遠ゆうえんの彼方を見つめるような眼差し、少女のように華奢な肢体。どことなく浮世離れして、はかない雰囲気をまとった子供である。


「ああ。ちゅうか」美少年に語りかける曹丕の声は穏やかである。「この三か月ほど屋敷で会わなかったな。どこへ行っていたのだ」


きょに赴き、朝廷の書庫にある蔵書三万巻を読んでいました。年内にもう三万巻読みたかったのですが、父上の凱旋が近いという報告を聞き、慌てて帰ってきました」


「フフッ。この本の虫が。読書も度が過ぎると、目を悪くするから気をつけろ。母親の環夫人かんふじんに心配をかけさせてはならぬぞ」


「はぁい、分かりました。……ところで、先ほど、鷹のように鋭い目を持った男と回廊ですれ違いましたが、彼が兄上の怪異調査を手伝っているという司馬懿殿ですか」


「そうだ。お前ほどではないが、なかなか勘の鋭い男でな。俺の秘密に、そろそろ近づきつつある」


「何をそんな楽しそうに……。いいのですか、あのことに気づかれてしまって。気の合うお友達なのでしょう? 司馬懿殿が兄上の秘密を暴き、他言するような気配があれば、叡くんのために彼を殺さねばならなくなりますよ? 私は、優しい兄上がお友達を手にかけるところを見るのは嫌ですからね」


 そう言うと、美少年は顔を曇らせた。


 曹丕は「案ずるな」と笑う。


「あいつはただの使いっぱしりで、別に友人などではないが……俺が認める程度には賢い男だ。秘密を知ってしまったとしても、他言すれば俺に殺されることぐらい分かるはずさ」


「ふぅ~ん……なるほど。そういうことですか」


「何が、『そういうこと』なのだ?」


 曹丕が怪訝な顔をすると、美少年――曹丕の異母弟、曹沖そうちゅうは愛嬌のある笑顔を見せ、こう言うのであった。


「いえ、何でもありません。兄上は、司馬懿殿のことがよっぽど好きなのだなぁと思っただけです」

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