親の祈り

「息子よ。まずは一献」


「はい」


 その夜。司馬懿の自室。


 老父が盃を掲げると、司馬懿もそれに応じ、父子は同時に酒を飲み干した。


 唐突な父の来訪に故郷で何かあったのかと心配したが、何のことはない、春華の妊娠を祝う品々を持って来てくれたのだった。(でんさん・がくさん・ちょうさんのおっさんズは荷物持ち)。


 第一子を授かった旨を手紙で報せたのは、つい先日のこと。こんなにも早く様子を見に来てくれたのは、独り立ちして間もない息子を司馬防がそれだけ気にかけている証だ。司馬懿は、父の温かな思いやりを素直に有り難いと感じた。


「父上。たいしたおもてなしができず、申し訳ありません」


「いや、こっちがいきなり訪ねて来たのだ。気にするな」


「次は、ごちそうを必ず用意しておきます。遊びに来てくださる数日前には、手紙で報せてください」


 司馬懿が、空になった父の盃に酒を注ぎながらそう言うと、司馬防はハッハッハッと笑い、「引き籠りの次男坊が、父親にそんな気遣いができるようになったか」とからかった。孫が生まれる嬉しさからか、常に威儀を崩さぬ厳父げんぷの彼が、今宵こよいは珍しく柔らかな微笑を見せている。


「だが、変な気を遣って、無理をせずともよい。こんな立派な屋敷を曹丕様から拝領してはいるが、そなたはまだ無位無官なのであろう?」


「は、はい……。曹丕はよほど父親に手紙を書くのが億劫おっくうなようで。俺の仕官を遠征中の曹操に報せてくれないのです。そのせいで、いまだ何の官職にもつけていません」


「で、今は曹丕様の怪異調査を手伝わされているというわけか」


「ええ。恐ろしい悪鬼に追いかけられたり、たちの悪い精魅もののけを退治したり……。奇々怪々な毎日を過ごしていて、命がいくつあっても足りません。迷惑な話ですよ、まったく」


 司馬懿は愚痴を言い、二杯目の酒をグッと一息にあおる。


 しかし、そうぼやきつつも、その目は少年のように輝いていた。


 この男は、曹操からの執拗な勧誘を避けるために仮病を使って引き籠ってはいたが、元来は冒険心が強い。怪異は恐ろしいが、そんな奇々怪々な日々が刺激的でもあり、知らず知らずのうちに楽しく感じるようになっていた。ただ、曹丕の影響でオカルト・ワールドに染まりつつある事実を認めたくないため、本音とは真逆のことを言っているのである。


 だが、父である司馬防には、息子の考えていることなどお見通しのようだ。ニヤリと笑い、「そう言いつつ、楽しそうな顔をしておるではないか。月に一度寄越す手紙にも、曹丕様のことばかり書いてある。さては、あの御仁の不思議なお人柄に惹かれたか」と言った。


 図星を突かれた司馬懿は、顔を真っ赤にして首を横に振る。


「い……いやいやいや! 俺がなんで曹丕のことなんかを! べ……別にぜんぜん好きなんかじゃないんですからね!」


「好きなんかじゃないんですからね、とかお前は若い娘っ子か。厳めしい顔をした三十路手前の男がツンデレ発言しても、ぜんぜんときめかぬからな?」


 乙女じゃあるまいし、ちょっとドン引きじゃわい。話題を変えるか……。そう思った司馬防は、広々とした部屋と立派な調度品の数々をざっと見回し、


「……しかし、あれじゃな。いくら曹丕様に気に入られているからとはいえ、ずいぶんと身分不相応な邸宅をもらったものじゃ。ここはどう見ても、かなり高位の将軍が住む邸宅じゃぞ」


 と、この屋敷を訪ねてからずっと気にかかっていたことを指摘した。


 何とか落ち着きを取り戻した司馬懿は、父の言葉にうなずき、「そのことですが……。実は俺も、ちょっと不気味に感じているのです」と答える。


「あの曹家の公子は、非常に気まぐれで、何を考えているのやらさっぱり分かりませぬ。俺のことを気に入っているのか、それともただの玩具だと思っているのか……。それすら定かではありません。これからあの男と上手くやっていけるかどうか、先が思いやられます」


「なるほどの。父親の曹公(曹操)も、いくつもの顔を持った複雑な御仁じゃが、曹丕様もなかなか一筋縄ではいかぬ御方のようじゃな」


「あと、もっと心配なことがあるのです。曹操とその幕下ばっかの諸将が遠征から近々帰還しますが、俺みたいな新参者がこのように大きな屋敷に住んでいることが知れたら、メチャクチャ怒られるのではないでしょうか」


「ふぅ~む。では、曹公がぎょう城に帰って来るまで、しばらくここに滞在するといたすか。もしも何かしらのおとがめがあったら、この老いぼれが曹公に会って、お前の代わりに謝罪してやる。さすれば、いきなり首チョンパの刑とかにはならぬじゃろうて」


「ぜ……贅沢ぜいたくな屋敷に住んでいただけで首チョンパ……。人の命を塵芥ちりあくたのごとく吹き飛ばすあの奸雄かんゆうなら、有り得そうだから恐い……」


「そう青くならずともよい。なぁに大丈夫じゃ。あの御仁も、若い頃にわしから受けた恩を忘れてはおるまい」


「曹操が若い頃に受けた恩、ですか? 父上があの男と旧知の間柄だとは聞いていますが、過去に曹操と何かあったのですか?」


「うむ。あれは、曹公がまだ二十代の若者だった時分のことじゃ。尚書右丞しょうしょゆうじょう(倉庫の器物や刑獄に使う武器を司る)だった儂は、かの御仁の才を見込んで、洛陽北部尉らくようほくぶい(洛陽の北側の治安を守る警察部長)に推挙した。北部尉に就任した曹公は、法を犯した者を身分の関係無く厳格に罰し、都の人々を震え上がらせた。天下に曹孟徳という名が知れ渡るようになったのは、それ以降のことじゃ」


「つまり、父上が、曹操が世に出るきっかけを作ったということですか」


「大げさに言えば、そういうことになるな。だから、いくら曹公でも、儂の息子をつまらぬ理由でサクッと殺したりはせぬはずじゃ」



 これは歴史の不思議さと言えるが――曹一族が浮沈ふちんする重大な局面において、司馬家の人間は必ずと言っていいほど関わっている。

 まず、司馬防の推挙によって、曹操は天下に名を売る機会を得た。

 息子の曹丕は、司馬懿の補佐を受け、やがて魏王朝を建国する運命にある。

 そして、魏朝最後の皇帝曹奐そうかんは、司馬懿の孫の司馬炎しばえんに帝位を奪われることになるのである。



「奇妙な縁があるのですな、我ら一族と曹氏には」


「うむ。……ただ、しょせんは赤の他人じゃ。主君と旧知の仲だからといって、図に乗るのは剣呑至極けんのんしごく。分をわきまえぬ振る舞いを続ければ、いずれは粛清されるであろう。そこが権力者の恐ろしいところじゃ。ゆめゆめ油断いたすなよ」


(まんま今日会った劉勲りゅうくんのことだな……。父上の先を見る目はいつも正確だ。あの横柄な将軍も、いつかは曹操に殺されるやも知れぬ)



 粛清には前例がある。許攸きょゆうという男の末路だ。許攸は袁紹えんしょう軍の参謀だったが、官渡かんとの戦で旧友の曹操に寝返り、曹軍の勝利に貢献した。


 戦後、傲慢な性格の許攸は、


 ――阿瞞あまん(曹操の幼名)が勝てたのは、この俺が味方についてやったからだぞ。


 と、大威張りした。


 最初は旧友の横風おうふうな物言いを笑って許していた曹操だが、あまりにも執拗に恩着せがましい発言を度々するため、ついに我慢できなくなった。ある日突然、許攸を処断してしまったのだ。


 世間では、「曹操は降将でも厚く遇する」と評判である。自らの心が狭いことを自覚している彼は、その本性をひた隠しにして、他者に寛大に振る舞おうと意識的に努力し続けている。曹操は、昔馴染みの者だけでなく、性格にかなり難のある変人奇人悪人でも、才能さえあれば器の大きいところを見せ――たとえ内心では彼らの問題行動を不快に思っていようが――上手に用いようとした。


 だが、どうしても許せぬ一線を相手が越えてしまうと、今までこらえていた分、その反動は恐ろしい。さっきまで笑っていた聖人の顔が、殺戮者さつりくしゃの形相に変わり、古い友人や高名な学者であろうとも殺さずにはおけないのだ。そんな曹操の二面性を司馬防は見抜いているので、油断は禁物であると司馬懿を戒めたのである。


 しかし、曹操と旧知であることを鼻にかけている劉勲には、司馬防のような深謀遠慮は無い。曹操の「許容できぬ一線」をいつかきっと越えてしまい、何らかの罪科で斬首されるに違いない。



(哀れだな……)


 司馬懿は、少し気の毒に思った。


 劉勲のことではない。今日知り合った、あの男の娘に同情していたのである。


 彼女は、父親の悪行のせいで死者に祟られた。いずれは、父親の愚かさのせいで、一家が没落して路頭に迷うかも知れない。悪くすれば、父に連座して、あの娘も刑死する可能性すらある。重罪人は九族皆殺し――この時代には、よくあることだ。


 親の無責任な振る舞いが、罪の無い子供を不幸にする。そのようなこと、あっていいはずが無い。だが、ここのところ、そういう毒親ばかりを司馬懿は見てきているような気がする。



 まず、(まだ直接会ってはいないが)曹操。

 あの男は、当代きっての英傑には違いない。だが、司空府で漏れ伝わる噂を聞くと、どう考えても良い父親ではないだろう。自分の女癖の悪さが災いして負けた戦で、長男の曹昂そうこうを置き去りにし、見殺しにしているのだ。曹丕にクソ親父呼ばわりされるのもむ無しである。


 卞夫人べんふじんもまた、そうとう歪んだところのある母親だ。夫にへつらうために、息子に人倫に反する行い――人妻の強奪と父への献上――を命じたのだから、ちょっと信じられない。


 信じられないといえば、曹丕の行動も不可解だ。なぜ我が子を人前にさらすことをあれほど避け、華佗の屋敷に秘匿ひとくしているのか。それに、曹叡そうえいに対する接し方も、どことなくぎこちなかったような気がする。曹丕は幼い息子が可愛くなくて、他人に預けているのだろうか。もしそうなら、あまりにも冷たい父親だ。曹操のことを言えない。


 司馬懿は、もうすぐ父になる。それなのに、困ったことに手本にできるような良い親が身近にいない。


 俺はちゃんとした親になれるだろうか。

 曹操や劉勲みたいに我が子を不幸にするひどい父親になってしまうのではないだろうか。


 そう思い悩み、だんだん不安になってきていた。


(……いや、手本になる「良い親」なら、眼前にいるではないか。我が父、司馬防だ)


 司馬防は、八人の息子を立派に育て上げ、世間では彼の優秀な子供たちを「司馬家の八達」と呼んでいる。全ては父の教育の賜物たまものである。司馬懿は、大人になった今でも、厳格な父のことが恐ろしくて仕方ないが、同時に司馬防のことをこの世の誰よりも尊敬していた。


 そうだ、父に訊けばいいのだ――と司馬懿はハッと気づいた。


「……父上。ちょっといいですか? 人の親になるにあたって、ぜひとも父上に教えていただきたいことがあるのです」


 司馬懿が真剣な眼差しでそう言うと、司馬防は「何じゃ、やぶから棒に」と面倒臭そうに眉をひそめた。

 だんだん酔っぱらってきたところで真面目な人生相談をされても、上手く答えられるか自信が無い。明日の朝では駄目なのか、その話題、と思ったのだ。


「俺は良い父親になりたいのです」司馬懿は父の困惑に気づかぬまま話を進めていく。「良き親になるための極意があったら、ぜひご教授ください」


「良き親になる極意じゃと? はぁ~……何を訊かれるのやらと思ったら。あのなぁ、よ。そんなもの、存在するわけがあるまい。あるのなら、逆に儂が教えてもらいたかったぐらいじゃ」


「えっ? 無い? し、しかし、父上は八人の息子を立派な君子に育て上げたではありませんか」


「お前が立派な君子がどうかは置いておいて――子育ては兵法ではない。極意などというものがあるのなら、世界中の親が苦労をせぬ」


「そ、そんな……。兵法と似たようなものかと思って、『孫子』を毎日読んでいたのに……」


「アホすぎて、ツッコミを入れる気にもなれぬわい」


 呆れてそう言い、司馬防は首を振る。そして、向かい合って座っている司馬懿の膝を軽く蹴り、「初めての子じゃ。親になることに怖気づく気持ちも分かるが、母親はもっと不安を抱えておるのじゃ。妊娠中の春華をもっと気遣ってやらぬか」と叱った。


「き……気遣っていますよ、ちゃんと。でも、本当に無いのですか、極意。今からやっておくべきこととか、なんにも?」


「そんなにも心配で落ち着かぬのなら、生まれてくる子供の名前でもじっくり考えておけ。名前というのは、親が子に託す祈り。とても大切なものじゃからな」


「親の祈り……ですか?」


「うむ。儂は『懿業いぎょう(立派な事業)を為す者になって欲しい』と思い、お前の名に『懿』の文字を与えた。もちろん、親の願い通りに育つか否かは神のみぞ知ることだが、世間のだいたいの親は、子に名を与える時に自らの祈りを込めるものだ。お前も、何かあるだろ。我が子にはこういう人間になってもらいたい、という願いが」


「子への願い……か」


 そういえば、曹叡の「叡」の文字には、「物事を見通す」という意がある。


 曹丕は、息子にどんな祈りを込め、そう名付けたのだろうか。曹叡にいったい何を見通して欲しいと思っているのか……。


 知らず知らずのうちに、司馬懿はまた曹丕のことを考えているのであった。

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