華佗の診察
「やい、老いぼれ! 下級文官の診察など後回しにしろと言っているのが聞こえぬのか! 俺の娘をいますぐ診察せぬば、叩き斬るぞッ!」
そのタヌキ顔に背負われている年若い女――恐らく二十歳前後――は「お、お父様。華佗先生にそのような失礼なことを……」と控えめな声で言い、恥ずかしそうに頬を朱に染めている。
「うるさい奴じゃなぁ。いい年こいて、順番抜かしをしようとするな、たわけ。胸を患っておるこの病人の診察が終わったら、ちゃんと診てやるゆえ、そこで大人しく座っておれ」
華佗は、タヌキ顔の男に目もくれず、顔色の悪い文官の診察を続けている。
だが、タヌキ顔は承服しない。華佗を殺意満々睨みすえ、酒やけしたガラガラ声で「この俺を誰だと思っておるッ」と吠えた。
「
「あっ、そう。だからどうした? それの何が偉い?
「な……! こ、この無礼者め! その首、
「いや、もう座っておるんじゃが」
「うっさいわ! いちいち生意気なくそじじ――げふっ⁉」
劉勲は、怒鳴っている最中に背後から頭を
「何奴じゃ! よくも俺の頭を……」と怒り狂いながら振り向くと、そこにいたのは曹丕だった。
「こ……公子様⁉ い、いらっしゃったのですか⁉」
「ぎゃあぎゃあやかましいぞ、劉勲。他人の家で騒ぐな」
「こ、これはとんだご無礼を! し……しかし、この医者があまりにも無礼な物言いをするゆえ……。成敗せねば、拙者の武人としての誇りに傷がつきまする」
「なぁーにが武人の誇りだ、
「うっ。そ、それは……」
「フン。愚か者は黙ってそこに座っておれ。ぶっさいくなお前が、
「は……はい……。すみません……」
さっきまでの傲岸不遜な態度はどこへやら。曹丕の辛辣無双の毒舌を浴びると、それに歯向かう勇気を持たぬ劉勲は大人しくなった。
部屋の隅に娘を寝かせ、自分はその横に座る。すっかり消沈して黙り込むさまは、猛獣に
「公子様。この感じの悪い男は誰です?」
司馬懿が小声でそうたずねる。曹丕は「ああ。お前はまだ面識が無かったな」と笑い、
「こいつは劉勲。アホアホ偽皇帝
と、身もふたもない紹介をわざと大声でした。
ここまでぼろかすに言われたら、劉勲の自尊心はズタボロに違いない。司馬懿がチラリと見ると、案の定、彼は悔しそうに顔を歪め、血が
「公子様……。さすがに
「
「あ~。言われてみれば、似ていますね。曹公(曹操)という後ろ盾があることを鼻にかけてやりたい放題やっているところとか、そっくりです。……ふむ! なるほど! だったら、あんなおっさん、憤死しても構いませんな!」
司馬懿は爽やかな笑顔でそう言った。
あの鬼畜将軍にはさんざん酷い目に遭わされているので、司馬懿も曹丕に負けず劣らず曹洪(とその部下のチンピラ集団たち)が大嫌いなのである。
「さて、華爺さん。邪魔者は黙らせたゆえ、心置きなく診察を続けてくれ」
「あんたらがペチャクチャ喋っておるうちに、診察はもう終わったわい。あとは、薬を処方するだけじゃよ」
華佗はブツブツそう言うと、すぐそばに置いてあった籠から薬草をむんずとつかみ、胸の病に効く薬の調合を始めた。
「えっ。そんな雑な……。
目分量で薬を調合して大丈夫なのか、と不安に思った司馬懿はそう呟いた。
「ちゃんと使っておるわい。秤は、この儂の手よ」
素人に口出しされて、気を悪くしたらしい。華佗は司馬懿をギロリと睨み、ぶっきらぼうにそう言った。そして、自分の見習い時代の話を唐突に語りだした。
「もう大昔のことじゃが……儂は七歳で父を失った。身寄りが無かった儂は、父の友であった
無論、最初の三年はただの使い走りじゃ。十歳でようやく薬の処方を学ばせてもらえるようになった。しかし、兄弟子たちが意地悪な奴らばかりでのぉ。子供の儂を侮って、秤を使わせてくれなかったのじゃ。
それゆえ、昼間は、兄弟子たちが秤で計測した薬の分量の重さを手ではかるしかなかった。そして、夜になるのを待って蔡先生の診察室に忍び込み、我が手に記憶させた薬の分量がまことに正しいかを秤で確認したのだ。そんなことを毎日繰り返している内に、秤など使わなくても、処方すべき薬の分量を手ではかれるようになったのよ」
華佗は、幼少期の苦労話を淡々と物語っているわずかな間に、薬の調合を終わらせていた。「ほれ、ちょっと苦いが我慢せい」と言い、胸を患っている文官に薬を飲ませる。
「ああ……。気分がすっきりました」
「数日様子を見て完治せぬようならば、また来なさい」
「ありがとうございます、華佗先生」
下級の文官は華佗にペコペコと頭を下げると、曹丕にも丁寧に挨拶をして、診察室を出て行った。
「さてと……。で、劉勲将軍。お前さんの娘御はどこが悪いのじゃ」
一仕事終えた華佗が、気力と体力が湧く足裏の
「その……ええと……」
また何か言うと罵倒されるかも知れない、と劉勲は怯えているらしい。発言の許可を求めるように、恐るおそるドS公子を見つめた。
曹丕はフンと鼻を鳴らし、さっさと言え、と目で合図する。
ホッとため息をついた劉勲は、「我が娘の左脚を見てやって欲しいのだ」と言い、娘の
「…………黒いのぉ」
問題の患部をしばし
「
劉勲は心配そうに愛娘を見つめ、
「この腫物は、しばらくすると消えていく。しかし、数十日後に再発する。腫物ができたり、消えたり、その繰り返しが七、八年ほど続いているのだ。本人は痒いだけだと言っているが、親としては何か悪い病気なのではないかと思い、気が気ではない。おぬしの医術でどうにかしてくれ」
そう頼み込んだ。曹丕の手前もあってか、華佗に対する態度は、つい数分前と比べたら多少は神妙になっている。
「七、八年前というと、ちょうど袁術が死んで、お前さんが
「ぬっ? いったい何の話をしている?」
「こんな時にとぼけておる場合か、阿呆。お前さんの娘は、可哀想に、自分の父親の悪行の報いを受けておるのじゃ。この腫物の正体は、病ではない。お前さんが
※「兄弟子たちの意地悪が原因で、華佗は薬の目分量が秤ではかったように正確になった」という小説内のエピソードは、殷占堂編著『三国志 中国伝説のなかの英傑』(岩崎美術社)に収録されている「華佗、師より秀でる」という民間伝承を参照にしています。
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