華佗の診察

「やい、老いぼれ! 下級文官の診察など後回しにしろと言っているのが聞こえぬのか! 俺の娘をいますぐ診察せぬば、叩き斬るぞッ!」


 華佗かだの診察室でわめき散らしていたのは、武官らしきタヌキ顔の男だった。


 そのタヌキ顔に背負われている年若い女――恐らく二十歳前後――は「お、お父様。華佗先生にそのような失礼なことを……」と控えめな声で言い、恥ずかしそうに頬を朱に染めている。


「うるさい奴じゃなぁ。いい年こいて、順番抜かしをしようとするな、たわけ。胸を患っておるこの病人の診察が終わったら、ちゃんと診てやるゆえ、そこで大人しく座っておれ」


 華佗は、タヌキ顔の男に目もくれず、顔色の悪い文官の診察を続けている。


 だが、タヌキ顔は承服しない。華佗を殺意満々睨みすえ、酒やけしたガラガラ声で「この俺を誰だと思っておるッ」と吠えた。


劉勲りゅうくん! あざな子台しだい! 曹公(曹操)とは旧知の間柄なのじゃぞ!」


「あっ、そう。だからどうした? それの何が偉い? わしなんか阿瞞あまん(曹操の幼名)と同郷だし、あいつが洟垂はなたれ小僧だった頃から奴の風邪を治してやっているが、別にそんなことで威張ったりはせんぞ。権力者だろうが何だろうが、大勢いる儂の患者の一人に過ぎぬからな。友達が偉かったら自分も偉いとほざくのは、己には何も誇るところが無いと言い触らしているのと同じじゃ」


「な……! こ、この無礼者め! その首、ねてくれるわッ! そこに座れッ!」


「いや、もう座っておるんじゃが」


「うっさいわ! いちいち生意気なくそじじ――げふっ⁉」


 劉勲は、怒鳴っている最中に背後から頭をはたかれ、思いきり舌を噛んだ。


「何奴じゃ! よくも俺の頭を……」と怒り狂いながら振り向くと、そこにいたのは曹丕だった。


「こ……公子様⁉ い、いらっしゃったのですか⁉」


「ぎゃあぎゃあやかましいぞ、劉勲。他人の家で騒ぐな」


「こ、これはとんだご無礼を! し……しかし、この医者があまりにも無礼な物言いをするゆえ……。成敗せねば、拙者の武人としての誇りに傷がつきまする」


「なぁーにが武人の誇りだ、塵芥ちりあくため。俺の父の主治医を殺せば、激怒した父がお前を八つ裂きにするのは目に見えているぞ。華爺さんは、父の頭痛を治せるただ一人の医者なのだからな。それでも『旧友の自分は絶対に殺されぬ』という自信があるのなら、やってみろ」


「うっ。そ、それは……」


「フン。愚か者は黙ってそこに座っておれ。ぶっさいくなお前が、三重顎さんじゅうあごをぷるぷる揺らしながら、つばを飛ばしまくってしゃべる姿を見るのは不快極まりない」


「は……はい……。すみません……」


 さっきまでの傲岸不遜な態度はどこへやら。曹丕の辛辣無双の毒舌を浴びると、それに歯向かう勇気を持たぬ劉勲は大人しくなった。

 部屋の隅に娘を寝かせ、自分はその横に座る。すっかり消沈して黙り込むさまは、猛獣におびえる小動物のようだ。どうやらこの武将、相手によって態度をコロコロ変える、典型的な小者キャラのようである。


「公子様。この感じの悪い男は誰です?」


 司馬懿が小声でそうたずねる。曹丕は「ああ。お前はまだ面識が無かったな」と笑い、


「こいつは劉勲。アホアホ偽皇帝袁術えんじゅつの元配下だ。袁術の死後に独自の勢力を築いたが、江東こうとう孫策そんさくに領地を奪われておめおめと逃走、むかしよしみがあった俺の親父を頼り、いまは曹軍の一部将となっている。『俺は曹操様の旧友なんだぁ~』とやたらと威張り散らして、調子に乗っているクズさ」


 と、身もふたもない紹介をわざと大声でした。


 ここまでぼろかすに言われたら、劉勲の自尊心はズタボロに違いない。司馬懿がチラリと見ると、案の定、彼は悔しそうに顔を歪め、血がにじむほど下唇を噛んでいた。だが、目上の人間に言い返す気骨など持たぬため、ひたいに大汗をかきながらじっとこらえている。


「公子様……。さすがにいじめすぎなのでは? 屈辱のあまり今にも憤死しそうですよ、あのおっさん」


曹洪そうこうのクソジジイを思い出すから、俺はああいう調子こいた野郎が大嫌いなんだ」


「あ~。言われてみれば、似ていますね。曹公(曹操)という後ろ盾があることを鼻にかけてやりたい放題やっているところとか、そっくりです。……ふむ! なるほど! だったら、あんなおっさん、憤死しても構いませんな!」


 司馬懿は爽やかな笑顔でそう言った。


 あの鬼畜将軍にはさんざん酷い目に遭わされているので、司馬懿も曹丕に負けず劣らず曹洪(とその部下のチンピラ集団たち)が大嫌いなのである。



「さて、華爺さん。邪魔者は黙らせたゆえ、心置きなく診察を続けてくれ」


「あんたらがペチャクチャ喋っておるうちに、診察はもう終わったわい。あとは、薬を処方するだけじゃよ」


 華佗はブツブツそう言うと、すぐそばに置いてあった籠から薬草をむんずとつかみ、胸の病に効く薬の調合を始めた。


「えっ。そんな雑な……。はかりとか使わないのですか」


 目分量で薬を調合して大丈夫なのか、と不安に思った司馬懿はそう呟いた。


「ちゃんと使っておるわい。秤は、この儂の手よ」


 素人に口出しされて、気を悪くしたらしい。華佗は司馬懿をギロリと睨み、ぶっきらぼうにそう言った。そして、自分の見習い時代の話を唐突に語りだした。


「もう大昔のことじゃが……儂は七歳で父を失った。身寄りが無かった儂は、父の友であったさい先生という医者の元に預けられ、弟子入りした。

 無論、最初の三年はただの使い走りじゃ。十歳でようやく薬の処方を学ばせてもらえるようになった。しかし、兄弟子たちが意地悪な奴らばかりでのぉ。子供の儂を侮って、秤を使わせてくれなかったのじゃ。

 それゆえ、昼間は、兄弟子たちが秤で計測した薬の分量の重さを手ではかるしかなかった。そして、夜になるのを待って蔡先生の診察室に忍び込み、我が手に記憶させた薬の分量がまことに正しいかを秤で確認したのだ。そんなことを毎日繰り返している内に、秤など使わなくても、処方すべき薬の分量を手ではかれるようになったのよ」


 華佗は、幼少期の苦労話を淡々と物語っているわずかな間に、薬の調合を終わらせていた。「ほれ、ちょっと苦いが我慢せい」と言い、胸を患っている文官に薬を飲ませる。


「ああ……。気分がすっきりました」


「数日様子を見て完治せぬようならば、また来なさい」


「ありがとうございます、華佗先生」


 下級の文官は華佗にペコペコと頭を下げると、曹丕にも丁寧に挨拶をして、診察室を出て行った。




「さてと……。で、劉勲将軍。お前さんの娘御はどこが悪いのじゃ」


 一仕事終えた華佗が、気力と体力が湧く足裏の経穴ツボを指圧しながら、劉勲にそう問う。


「その……ええと……」


 また何か言うと罵倒されるかも知れない、と劉勲は怯えているらしい。発言の許可を求めるように、恐るおそるドS公子を見つめた。


 曹丕はフンと鼻を鳴らし、さっさと言え、と目で合図する。


 ホッとため息をついた劉勲は、「我が娘の左脚を見てやって欲しいのだ」と言い、娘のスカートをめくって、膝頭を華佗に見せた。曹丕と司馬懿も興味本位でのぞきこむ。


「…………黒いのぉ」


 問題の患部をしばし凝視みつめていた華佗がポツリと呟いた。娘の膝頭には、不気味なほどに黒ずんだ腫物はれものができていた。


かゆいか? それとも痛むか?」と華佗が問うと、父親のDNAを運良く全く受け継いでいない美しい娘は、「痒いですが、痛みはありません」とか細い声で赤面しながら答える。年頃なので、自分の素足をまじまじと見られているのが恥ずかしいのだろう。


 劉勲は心配そうに愛娘を見つめ、


「この腫物は、しばらくすると消えていく。しかし、数十日後に再発する。腫物ができたり、消えたり、その繰り返しが七、八年ほど続いているのだ。本人は痒いだけだと言っているが、親としては何か悪い病気なのではないかと思い、気が気ではない。おぬしの医術でどうにかしてくれ」


 そう頼み込んだ。曹丕の手前もあってか、華佗に対する態度は、つい数分前と比べたら多少は神妙になっている。


「七、八年前というと、ちょうど袁術が死んで、お前さんが皖城かんじょうを拠点に独立していた頃か。……劉勲将軍よ。お前さん、たしかその時期に、他人にうらみを買うようなことをしておったな」


「ぬっ? いったい何の話をしている?」


「こんな時にとぼけておる場合か、阿呆。お前さんの娘は、可哀想に、自分の父親の悪行の報いを受けておるのじゃ。この腫物の正体は、病ではない。お前さんがあやめた人間に呪われておるのじゃよ」








※「兄弟子たちの意地悪が原因で、華佗は薬の目分量が秤ではかったように正確になった」という小説内のエピソードは、殷占堂編著『三国志 中国伝説のなかの英傑』(岩崎美術社)に収録されている「華佗、師より秀でる」という民間伝承を参照にしています。

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