幼少の曹叡

 華佗かだは曹操の侍医である。曹操が持病の頭痛を発症すると、夜中であっても駆けつけねばならない。そのため、彼の屋敷は、司空府からそれほど離れていない場所にあった。


「ここが華爺さんの家だ」


 馬車から降りた曹丕が、華美さの欠片もない質朴な造りの屋敷をあごで指し示す。


 正門からのぞく敷地内には、種々様々な草花が咲いていた。恐らく華佗が育てている薬草だろう。


「おお、ここが華佗先生の――って、あれ? この家、見覚えがあるような。もしかして、ここって俺の新居のすぐ近所では?」


「ああ、そうだ。ボケボケ軍師のお前なら、教えてもらわねば気づかないと思って、連れて来てやったのだ」


「ぼ、ボケボケ……。実際に気がつかなかったから、反論できない……」


 司馬懿は、ぐぬぬぅ……と唸った。


 そんなボケボケ軍師を横目に見ながら、曹丕は悪戯っぽく微笑んでいる。


 口で教えれば済むことなのに、わざわざ華佗邸に連れて来たのは、どうせ俺を驚かせてからかうのが目的だったのだろう……。司馬懿はそう察した。本当に人をおちょくるのが好きな若者である。


子桓しかん(曹丕のあざな)様。えいは……」


 馬車から降りて来た水仙が、弱々しい眼差しで夫を見つめながらそう言った。乗り物酔いしたかのように顔色が悪いが、むろん車上揺られていたせいではない。


 今朝、元夫(嫌いで別れたわけではない)の死を知ったばかりなのだ。本来ならば悲しい報せに胸潰れ、数日涙に暮れていてもおかしくはない。その悲痛なる思いを曹丕の手前、必死に隠しているのである。


(どれほど前夫に未練があっても、いまは新しい夫を頼るしかない。この御方も苦しかろう……)


 司馬懿は、水仙が哀れに思えて仕方がなかった。


 一方、曹丕はどう考えているのやら。彼は、水仙に歩み寄ると、白魚のごとくほっそりとした妻の指を手に取った。


「すぐに会えるさ。しばらく貴女あなたもここで暮らすのだ。めいっぱい叡を可愛がってあげるといい」


 水仙に語りかける時、曹丕はとても優しい声音を作る。しかし、どういうわけか、彼女と目をあまり合わさない。袁煕えんきの訃報が届いた今日だけが特別なのではなく、平時からそうだった。


 後ろめたさ――そんな感情が、二人の関係をぎこちなくしているのかも知れない。司馬懿はそう見ていた。


 水仙は、袁煕を裏切って曹丕の妻になったことを気に病んでいるのだろう。


 では、曹丕の後ろめたさとは?


「水仙を父に献上せよ」という母の命令に背き、己の妻にしたことだろうか?


 いや、この若者の両親に対する反発心は強烈である。そのような後悔をいまさらしているとは思えない。


 ならば、なぜ曹丕は、客人に接するかのごとき遠慮を妻に見せるのであろうか。彼なりに大事にはしているようだが……。



「仲達。何をぼやっとしている。置いて行くぞ」


「えっ、あ、はい」


 司馬懿が考え事をしている間に、曹丕夫妻は屋敷の小間使いに案内されてすでに門をくぐっていた。


 慌てて司馬懿も後を追い――かけようとしたところで、小石につまずいて顔から転倒してしまった。たらり、と鼻血が出る。


「お前……。毎回鼻血を出しているな。さては四六時中、スケベなことを考えているだろ」


「い、いやいや! さっきのは鼻を打ったせいですから! お願いだから、そういうことをうちの春華に言わないでくださいね⁉」




            *   *   *




 曹丕と水仙、司馬懿は、客間に通された。


 一人の見目麗しい婦人が、曹丕に恭しく挨拶する。


「まことに申し訳ありません、公子様」彼女は恐縮しながら謝った。「夫はいま、診察中でして……」


「ふむ、そうか。仕事の邪魔をするのはよくないな。しばし待とう。奥方よ、ここに叡を連れて来てくれるか」


「はい」


 婦人が部屋から去ると、司馬懿は「公子様。さっきの婦人は、もしかして……」と曹丕に耳打ちした。


「ああ。華爺さんの嫁だ」


「若すぎませんか? 公子様と同年代に見えましたよ? 華佗先生は百歳を超えているという話でしたよね?」


「最初の連れ合いには、大昔に先立たれたのだ。さっきの婦人――玉容ぎょくようは、俺が生まれる前年に華爺さんの後妻になったと聞く。たしか、俺の母と年が近かったはずだ」


「こ、公子様ではなく、べん夫人と同年代……」


 つまり、四十代後半くらいということだ。とてもそうは見えない。若さあふれる瑞々しい肌で、実際の年齢よりも老け込んでいる卞夫人とは大違いだ。さすがは百歳オーバーなのに五十代に見えるお肌ピチピチ爺さんの妻である。若作りが半端無い。


 どうしたら、あんなにも若さと美貌を保てるのだろう。うちの嫁の春華もずっと綺麗でいてもらいたいから、そのコツを教えてやって欲しい……。司馬懿は三嘆さんたんし、そう思うのであった。


「ある意味、これも怪異ですなぁ」


「ちなみに、漢中で五斗米道ごとべいどうという教団を率いている張魯ちょうろの母親も、息子が髭を生やしたおっさんなのに、生娘のごとく若々しい容貌で、益州牧の劉焉りゅうえんは未亡人の彼女にメロメロだったらしい。何かしらの若作りの秘訣があるのだろうが、俺はあまり興味無いな。人生の春夏秋冬、ずっと同じ顔というのもつまらんからな」


 二人がそんな会話を交わしているうちに、玉容が小さな男の子を伴って部屋に戻って来た。


 この大人しそうな幼児こそ、後に魏の二代皇帝となる曹叡そうえいである。


「ははうえ!」


 曹叡は、水仙の顔を見るなり笑顔を輝かせ、とてててっと駆けだして母親に抱きついた。水仙は、そんな愛らしい我が子を強く抱きしめ、涙ぐみながら曹叡の頭を撫でる。


「しばらく見ないうちに、また大きくなりましたね。なかなか会いに来てあげられなくて、ごめんなさい」


「ははうえ、ははうえ。もっとギュッとして。あのね、ボクね、今日こわいゆめをみたの。しらないおじさんがね、おおきなヘビのばけものになってね、ボクをおいかけるゆめ。すごくこわいの。だから、ギュッとしてほしいの」


 まだ甘えたいざかりなのに母親と別居させられて、心細い思いをしていたのだろう。曹叡は必死に恐い夢の話を水仙に訴え、めそめそと泣いている。


(ううむ。それにしても、とても美しい子だ)


 司馬懿は心中感嘆していた。


 容貌は少女と見紛うばかりで、顔の艶肌は磨かれたぎょくのようである。


 病弱だと聞いていたが、発育よく育っていて、同年代の三歳児よりも背がやや高い。天下の名医と同居し、万全な体調管理をされているおかげで、すっかり健康優良児に育ったようだ。


「叡よ。この図体のでかい男は、父の怪異調査を手伝っている司馬仲達だ。ちゃんと挨拶しなさい」


 曹丕が声をかけると、曹叡はキラキラと輝く美しい瞳を司馬懿に向けた。


 照れ屋な性格のようで、「えっと、えっと……」と恥ずかしそうにブツブツ言った後、おずおずした声で「は、はじめまして」と挨拶した。


「曹叡です。よんさいです」


「違うでしょ、叡。貴方はまだ三歳じゃない」


 水仙は一瞬、司馬懿のほうをチラリと見た後、顔を赤らめて曹叡を叱った。


「次からは間違えちゃいけませんよ、絶対に。特に、おじいさまとおばあさまの前では。さもないと、お馬鹿な子だと思われて、可愛がってもらえませんからね」


「むぅ~……」


 控えめな性格の彼女にしては、珍しいほど鋭く、厳しい叱声しっせいである。怒られた曹叡は、ちょっと不満そうに母親を見つめた。


(水仙様は、見かけによらず教育に厳しい母親のようだ。他人の前で我が子が年齢を言い間違えたのが恥ずかしかったのだろうが、まだこんなにも小さいんだ。三歳児にそこまできつく叱らなくてもいいのに)


 司馬懿はそう感じたが、よくよく考えたら、うちの気性の烈しい妻こそ過度のスパルタ教育をやりかねない。これは家に帰ったら、生まれてくる我が子の教育方針について春華とじっくり話し合わねば……と内心不安になった。


「はぁ~……。それにしても、めちゃんこ可愛い。さすがは美男美女の血を受け継ぐお子ちゃまですなぁ~」


「気色悪いぐらい顔が緩んでいるぞ、仲達。叡がおびえるからやめろ」


「で、でも、近いうちに第一子を授かる身としては、こんな愛らしいお子ちゃまを見てしまうと、デレデレぇ~となってしまうのですよ。来年生まれてくる俺の子も、こんな可愛い子供だったらいいなぁ~なんて想像してしまって……。公子様だって、若君が水仙様のお腹の中にいた頃は、やがて誕生する我が子のことで頭がいっぱいだったんじゃないですか?」


「どうだったかな。人の親になるという覚悟を固める時間のゆとりすら無かったからな」


「ああ。やっぱり、妊娠から出産まではあっという間ですか。分かる、分かる。俺も、春華に懐妊を知らされてから、時の流れが早く感じますよ」


「……ただ、父になるからには、どんなことがあっても、この子を見捨ててはならない。己にそう言い聞かせはした。俺のクソ親父は、嫡男の馬に乗って逃げ、子脩ししゅう(曹昂のあざな)兄上を死なせているからな。俺は絶対にクソ親父のようにはならん」


 曹丕がそう言っている間に、曹叡が長い髪を揺らしながらトテトテと寄って来た。


 今度は父親に抱きしめて欲しいようだ。ちょっと遠慮ぎみに、小さな両手を広げる。


 曹丕は、無邪気な幼児の顔をしばし見つめた後、ゆっくりと手を伸ばしかけた。


 しかし、その時、水仙が意外な行動を取った。夫から奪うように、後ろから曹叡を抱き上げたのである。曹丕の右手は虚しくくうをつかんだ。


「水仙……」


 ほんの一瞬だが、曹丕は傷ついたような目をした。


 自分の失態に気づいた水仙は、「あっ。も……申しわけありません!」と声を震わせながら夫に謝罪した。司馬懿の眼前で、異常な夫婦の光景が展開されつつある。


 部屋の隅に控えている玉容は、薄くまぶたを閉じ、じっと黙している。何かしらの事情を承知してはいるが、あえて関わらないようにしているのかも知れない。何となくだが、司馬懿にはそう見えた。


「え……叡。ほら、お父様にも抱っこしてもらいなさい」


「いや、いい」


 曹丕は素っ気なくそう言うと、席から立った。


「何やら、先ほどから診察室のほうが騒がしい。怒鳴り声を上げている者がいるようだ。もしかしたら、たちの悪い患者が暴れているのかも知れない。華爺さんが心配ゆえ、様子を見て来る。奥方はここで水仙の話し相手になってやっていてくれ。……仲達。お前はついて来い」


「は……はい……」


 司馬懿は、顔から血の気が引いてしまっている水仙のことが気になったが、うなずいて曹丕に付き従うのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る