母と子
曹丕は、司馬懿がまとめた怪異レポートを通覧することに、午前中の時間を費やした。
司馬懿は(無職だから)やることもないので、
日中の刻(正午ごろ)。曹丕は突然、読んでいた怪異レポートを放り出し、「起きろ、仲達。俺はいまから水仙を連れて、華爺さんの屋敷に行く」と言い出した。
「えっ。急ですね」
司馬懿は、口元のよだれを
「そんな急に外出すると言われても、奥方様もすぐには出られないでしょう。化粧とか色々準備があるじゃないですか」
「心配するな。お前が
「ほ、放屁……。すみません、それはとんだご無礼を……」
「それは冗談だ」
「冗談かよッ‼」
「当たり前だ。本当に俺のそばで屁なんてこいてみろ。窓の外に蹴り飛ばしてやる。……おっと、こんな無駄話をしている場合ではないな。母上が食事をしているこの時間帯に屋敷を出ねば。仲達よ、お前もついて来い。女房が妊娠中なのだから、名医
そう言うと、司馬懿の返事を待たず、曹丕は半日引き籠っていた仕事部屋から出た。毎度のごとく、母の
司馬懿は「あっ、公子様。ち、ちょっと待ってくださいよ」と慌てつつも、素直に付き従った。
春華は初めての妊娠だ。曹丕の言う通り、胎児や母体に思わぬ異変があった時のため、華佗邸の所在地は知っておいたほうがいいと考えたのである。
「何用で華佗先生の屋敷に参られるのですか?」
「朝にも言っただろ。
「なるほど。たしかに、そのような事態になれば、奥方様が可哀想だ。……しかし、どうして隔離先が華佗先生の屋敷なのですか? こういう呪い案件なら、方士の
「その可能性も考えてのことだ」
「と言いますと?」
「華爺さんに預ける理由は三つある。まず一つ目、費長房みたいなスケベ男に自分の妻を託すのはメチャクチャ不安だからだ。お前は、まだ少女と言っていい年齢の
「うっ。た、たしかに……。あいつ、ピチピチの年若い女が大好きっぽいですからね……」
「二つ目は、俺が神医華佗を信頼しているからだ。あの爺さんの医術は、肉体を
「叡?」
聞き慣れぬ名である。司馬懿は「誰ですか?」と問うた。
しかし、曹丕の返答がある前に、背後から「丕よ、お待ちなさい」と険のある女性の声がした。
うげっ、と曹丕は嫌そうな声を上げる。ゆっくり振り返ると、そこにいたのは曹丕の生母の卞氏だった。
「これは母上。ご機嫌麗しゅう。もうお食事は済んだのですね」
「何が『ご機嫌麗しゅう』ですか。さっき、うげっと言ったくせに」
我が子の上っ面だけの殊勝な態度に、卞夫人はうんざりしたようにため息をついた。
曹丕の母は、当年四十八歳。キリリとした目鼻立ちが、昔は相当な美女であったことを想像させる。
ただ、現在の卞夫人は、六、七十代かと思うほど
こうやって不良息子を毎日のように叱って、顔をしかめてばかりいるから、早く老け込んでしまったのだろうか。司馬懿はちょっと気の毒に思った。
「水仙が身支度しているようですが、どこへ連れて行くつもりです」
「ちょっと事情がありまして。当分の間、水仙には華爺さんの屋敷にいてもらいます」
「華佗殿の……? まさか、叡の身に何かあったのですか?」
「いえ、別に」
「ならば、
「悪い噂? ……ああ。『曹丕が新妻の
「なっ……! よ、よくもぬけぬけと父親にそこまでの悪口雑言を!」
卞夫人は
「そなたは、なぜ事あるごとに父の意向に逆らうのです! どうして母の言葉に従ってくれぬのですか!
……そ、そもそも、水仙は孟徳様の側室の一人に加えられるはずだったのです! 孟徳様とそなたの険悪な仲を修復するため、『
彼女の
「と……とにかく。父上がお帰りになるまでには、水仙を司空府に戻すのですよ。あと、叡もそろそろこの屋敷で暮らさせなさい。もう三歳だというのに祖父母の顔を知らなかったら、
それだけ言い捨てると、卞夫人は逃げるように去って行った。
曹丕は、そんな母の背中を軽蔑とも
* * *
司空府を出立した二台の馬車は、華佗邸めざして鄴城の大路をゆったりと進んでいる。
先頭の馬車には、曹丕と司馬懿。後ろの車には水仙が乗っていた。
「何だ、仲達。さっきからこっちをチラチラ見て。言いたいことがあるのなら早く言え」
「あっ、いえ……。公子様のお母上がおっしゃった内容が、色々と衝撃的だったもので。いささか頭の整理が追いついていないといいますか……」
とにかく、叡というのが曹丕と水仙の間に産まれた男児であることは分かった。そして、水仙は、曹丕の妻になってから二年ほどは義父母の曹操夫妻と同居せず、華佗の屋敷にいたこと。子供を出産した後に司空府に移ったが、我が子は華佗邸に残してきたことも……。
曹操の度を越した好色ぶりは噂で知っている。だから、なるべく妻を父親から隔離しようとした曹丕の気持ちは分からないでもない。しかし、孫を両親に会わせないというのは、ちょっとやりすぎだろう。いくら両親とうまくいっていないからといって、そんなやり方で親に嫌がらせをすることはあるまい。不可解極まりない行動だ。
だが、それ以上に司馬懿が不可解だと思ったことがある。卞夫人が曹丕に下したという「命令」だ。
「……卞夫人は、天下の大半を支配する曹公(曹操)の正妻でありながら華美な服飾をせず、質素倹約につとめていらっしゃる。それゆえ、
しかし、先ほどのあの御方の言葉を聞いて、かなり印象が変わってしまいました。まことに、卞夫人はあのような……『人妻を捕え、父親に献上せよ』などという命令を貴方にしたのですか? 明らかに人道に外れているではありませんか。そのような所業を息子に強要する女性には見えず、正直言って戸惑っています」
これは非常にデリケートな曹家の家庭事情だ。首を深く突っ込むのは、
「賢婦ではあるさ。あの人は」
意外なことに、曹丕は司馬懿の
「曹孟徳にとっては、これ以上ないほどの良妻賢母だ。だから、俺にあんな命令を下したのだ」
「何だか矛盾していませんか、それ」
「矛盾なんかしていない。……あの人は、己の出自に負い目を感じているのだ。元は
「こ、媚び……。母親に対して、それはさすがに言い過ぎでしょう」
「だが、そう言いたくもなるさ。あの人は夫を恐れるあまり、自分の息子が父親と衝突しても、絶対に我が子をかばおうとしない。明らかに息子に非が無くても、いつだって夫の味方なのだ。父親に理不尽な理由で
「…………」
司馬懿は何も言えなくなった。母親を語る曹丕の目が虚ろだったからである。こんな弱気な発言をする彼を見るのは、初めてであった。どうやら、司馬懿は、曹丕の心の最も
(いずれにしても、曹丕が怪異研究という自分だけの世界に没入するようになった一因が分かったような気がする。こんなにも両親と溝があったのではな……)
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