母と子

 曹丕は、司馬懿がまとめた怪異レポートを通覧することに、午前中の時間を費やした。


 司馬懿は(無職だから)やることもないので、汚部屋おべやの中から適当に拾った書物をだらだらと読み、知らぬ間に寝落ちしてしまっていた。


 日中の刻(正午ごろ)。曹丕は突然、読んでいた怪異レポートを放り出し、「起きろ、仲達。俺はいまから水仙を連れて、華爺さんの屋敷に行く」と言い出した。


「えっ。急ですね」


 司馬懿は、口元のよだれをぬぐいつつ、寝ぼけ眼で曹丕を見る。


「そんな急に外出すると言われても、奥方様もすぐには出られないでしょう。化粧とか色々準備があるじゃないですか」


「心配するな。お前が放屁ほうひしながら寝ている間に、奥に侍女を遣わして、外出の準備をするよう伝えてある」


「ほ、放屁……。すみません、それはとんだご無礼を……」


「それは冗談だ」


「冗談かよッ‼」


「当たり前だ。本当に俺のそばで屁なんてこいてみろ。窓の外に蹴り飛ばしてやる。……おっと、こんな無駄話をしている場合ではないな。母上が食事をしているこの時間帯に屋敷を出ねば。仲達よ、お前もついて来い。女房が妊娠中なのだから、名医華佗かだの家がどこにあるのか知っておいたほうがいいだろう」


 そう言うと、司馬懿の返事を待たず、曹丕は半日引き籠っていた仕事部屋から出た。毎度のごとく、母の卞氏べんしにばれないように、司空府の裏門からこっそり出かける魂胆である。


 司馬懿は「あっ、公子様。ち、ちょっと待ってくださいよ」と慌てつつも、素直に付き従った。


 春華は初めての妊娠だ。曹丕の言う通り、胎児や母体に思わぬ異変があった時のため、華佗邸の所在地は知っておいたほうがいいと考えたのである。


「何用で華佗先生の屋敷に参られるのですか?」


「朝にも言っただろ。袁煕えんきの祟りに備えるのだ。奴が悪鬼化したら、愛妻を奪ったこの俺を祟るに違いない。それゆえ、念のために水仙を華爺さんの屋敷に預け、俺から隔離しておく。前の夫が悪鬼に成り果て、俺に退治されるさまを目撃したくはないだろうからな」


「なるほど。たしかに、そのような事態になれば、奥方様が可哀想だ。……しかし、どうして隔離先が華佗先生の屋敷なのですか? こういう呪い案件なら、方士の費長房ひちょうぼうに預けるべきなのでは? 悪鬼化した袁煕の復讐の矛先が、貴方ではなく、元妻である奥方様へと向かう可能性だってあるはずですよ。世の中には、自分の女を寝取った男に挑まず、女のほうを刺しちゃう意気地なし野郎もいるでしょうから」


「その可能性も考えてのことだ」


「と言いますと?」


「華爺さんに預ける理由は三つある。まず一つ目、費長房みたいなスケベ男に自分の妻を託すのはメチャクチャ不安だからだ。お前は、まだ少女と言っていい年齢の妓女ぎじょただれた生活をしているあの方士に、張春華をしばらく預かって欲しいと頼めるか?」


「うっ。た、たしかに……。あいつ、ピチピチの年若い女が大好きっぽいですからね……」


「二つ目は、俺が神医華佗を信頼しているからだ。あの爺さんの医術は、肉体をむしばむ病魔だけでなく、魂を汚染する呪いさえも取り除くことができる。水仙が呪われても、華爺さんならすぐに対処してくれるであろう。そして、三つ目の理由は――あの屋敷にはえいがいるからだ」


「叡?」


 聞き慣れぬ名である。司馬懿は「誰ですか?」と問うた。


 しかし、曹丕の返答がある前に、背後から「丕よ、お待ちなさい」と険のある女性の声がした。


 うげっ、と曹丕は嫌そうな声を上げる。ゆっくり振り返ると、そこにいたのは曹丕の生母の卞氏だった。


「これは母上。ご機嫌麗しゅう。もうお食事は済んだのですね」


「何が『ご機嫌麗しゅう』ですか。さっき、うげっと言ったくせに」


 我が子の上っ面だけの殊勝な態度に、卞夫人はうんざりしたようにため息をついた。


 曹丕の母は、当年四十八歳。キリリとした目鼻立ちが、昔は相当な美女であったことを想像させる。

 ただ、現在の卞夫人は、六、七十代かと思うほどしわの数が多い。小刀で刻んだように深々とした皺が眉間やまなじりにあって、それが彼女の険しい顔を余計に峻厳しゅんげんたらしめていた。


 こうやって不良息子を毎日のように叱って、顔をしかめてばかりいるから、早く老け込んでしまったのだろうか。司馬懿はちょっと気の毒に思った。


「水仙が身支度しているようですが、どこへ連れて行くつもりです」


「ちょっと事情がありまして。当分の間、水仙には華爺さんの屋敷にいてもらいます」


「華佗殿の……? まさか、叡の身に何かあったのですか?」


「いえ、別に」


「ならば、何故なにゆえです。戦勝の報告が届き、お父上が近々ご帰還なされるというのに、なぜわざわざこんな時期に水仙を別の場所に移そうとするのです。戦から凱旋がいせんした義父を嫁が出迎えぬなど、非礼極まりない。そなたたち夫婦の悪い噂がまた世間に流れてしまいますよ」


「悪い噂? ……ああ。『曹丕が新妻のしん水仙を二年も華佗邸に隠していたのは、父の曹操に嫁を奪われることを恐れていたからだ』という例のアレですか。別に俺は気にしていませんよ。噂ではなく事実ですから。母上もご存知でしょう? うちの父は、平気で未亡人に手を出すスケベジジイです。息子の嫁を寝取らないという保証がどこにあります? 恐いに決まっていますよ。だから、俺との間に子供ができるまで、華爺さんに最愛の妻をかくまってもらっていたわけです」


「なっ……! よ、よくもぬけぬけと父親にそこまでの悪口雑言を!」


 卞夫人はかっとなって顔を赤らめ、曹丕をめつけた。怒りのあまり、冷静さを完全に失っているようである。己の身分や立場を忘れて、烈しい言葉で息子をなじった。


「そなたは、なぜ事あるごとに父の意向に逆らうのです! どうして母の言葉に従ってくれぬのですか! 孟徳もうとく(曹操のあざな)様と私が『孫の顔を見たい』と何度も言っているのに、ひどく病弱だからという理由で華佗殿の元に叡を預けっきりにして、ほとんど会わせようともしない! こんな親不孝がありますか⁉

 ……そ、そもそも、水仙は孟徳様の側室の一人に加えられるはずだったのです! 孟徳様とそなたの険悪な仲を修復するため、『ぎょう城に一番乗りして、絶世の美女と噂される袁煕の妻を捕獲し、父に献上しなさい』とこの母が助言してあげたというのに! よりによって、自分の妻にしてしまうとは! そなたは本当になんて不届きな――」


 彼女の激語げきごは、そこまでだった。


 愕然がくぜんとした表情で自分を見る司馬懿の視線に気づき、慌てて口をつぐんだのである。興奮のあまり、第三者がいることを失念していたのだ。身内以外の人間の耳に入れるべきではないことを語りすぎてしまった、と卞夫人はいまさらながら激しく後悔している様子だった。


「と……とにかく。父上がお帰りになるまでには、水仙を司空府に戻すのですよ。あと、叡もそろそろこの屋敷で暮らさせなさい。もう三歳だというのに祖父母の顔を知らなかったら、なついてもらえず困ります」


 それだけ言い捨てると、卞夫人は逃げるように去って行った。


 曹丕は、そんな母の背中を軽蔑とも憐憫れんびんともつかぬ複雑な眼差しで見送るのであった。




            *   *   *




 司空府を出立した二台の馬車は、華佗邸めざして鄴城の大路をゆったりと進んでいる。


 先頭の馬車には、曹丕と司馬懿。後ろの車には水仙が乗っていた。


「何だ、仲達。さっきからこっちをチラチラ見て。言いたいことがあるのなら早く言え」


「あっ、いえ……。公子様のお母上がおっしゃった内容が、色々と衝撃的だったもので。いささか頭の整理が追いついていないといいますか……」


 とにかく、叡というのが曹丕と水仙の間に産まれた男児であることは分かった。そして、水仙は、曹丕の妻になってから二年ほどは義父母の曹操夫妻と同居せず、華佗の屋敷にいたこと。子供を出産した後に司空府に移ったが、我が子は華佗邸に残してきたことも……。


 曹操の度を越した好色ぶりは噂で知っている。だから、なるべく妻を父親から隔離しようとした曹丕の気持ちは分からないでもない。しかし、孫を両親に会わせないというのは、ちょっとやりすぎだろう。いくら両親とうまくいっていないからといって、そんなやり方で親に嫌がらせをすることはあるまい。不可解極まりない行動だ。


 だが、それ以上に司馬懿が不可解だと思ったことがある。卞夫人が曹丕に下したという「命令」だ。


「……卞夫人は、天下の大半を支配する曹公(曹操)の正妻でありながら華美な服飾をせず、質素倹約につとめていらっしゃる。それゆえ、まれに見る賢婦だと俺は思っていたのですが。

 しかし、先ほどのあの御方の言葉を聞いて、かなり印象が変わってしまいました。まことに、卞夫人はあのような……『人妻を捕え、父親に献上せよ』などという命令を貴方にしたのですか? 明らかに人道に外れているではありませんか。そのような所業を息子に強要する女性には見えず、正直言って戸惑っています」


 これは非常にデリケートな曹家の家庭事情だ。首を深く突っ込むのは、剣呑けんのんである。しかし、我が命運を握っている曹丕という人間を、司馬懿は一日も早く見極める必要があった。彼を知るためならば、虎の尾を踏むことも止む無し――そう覚悟したうえで、司馬懿は恐るおそる曹丕の母親についてたずねたのである。


「賢婦ではあるさ。あの人は」


 意外なことに、曹丕は司馬懿の不躾ぶしつけな問いに怒りを示さず、無表情で答えた。


「曹孟徳にとっては、これ以上ないほどの良妻賢母だ。だから、俺にあんな命令を下したのだ」


「何だか矛盾していませんか、それ」


「矛盾なんかしていない。……あの人は、己の出自に負い目を感じているのだ。元は歌妓かぎであったのを親父に見初みそめられて側室になったことは、お前も知っているだろ。やがて正妻の丁夫人が廃されると、正室に昇格した。それゆえ、卑しい身分から親父の寵愛ひとつでここまでのぼりつめた俺の母は、『どんな時でも夫の意に沿い、夫が求める物を差し出す、物分かりのいい妻であらねばならない』という強迫観念にとらわれている。あの人が中級の服飾品ばかり身にまとって、けっして上等な宝飾に手を出さないのも、倹約家である親父に必死に迎合げいごうしているからにすぎん。身もふたもない言い方をすれば、びているんだな。あのクソ親父に」


「こ、媚び……。母親に対して、それはさすがに言い過ぎでしょう」


「だが、そう言いたくもなるさ。あの人は夫を恐れるあまり、自分の息子が父親と衝突しても、絶対に我が子をかばおうとしない。明らかに息子に非が無くても、いつだって夫の味方なのだ。父親に理不尽な理由で痛罵つうばされている時、母親にまで『お前が悪い。父上に謝りなさい』と激しく責められたら、子供はどうすればいい? 立つ瀬が無くなるではないか」


「…………」


 司馬懿は何も言えなくなった。母親を語る曹丕の目が虚ろだったからである。こんな弱気な発言をする彼を見るのは、初めてであった。どうやら、司馬懿は、曹丕の心の最ももろいところに迂闊にも触れてしまったようである。もしかしたら、この青年は、父親を激しく忌避するほどには母親のことは嫌っていないのかも知れない。心のどこかで、卞夫人には母の愛を求めているのではないか。


(いずれにしても、曹丕が怪異研究という自分だけの世界に没入するようになった一因が分かったような気がする。こんなにも両親と溝があったのではな……)

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