戦地からの報せ
その日、
しかし、真は無言で司馬懿の向う
「いってぇ~……。何だよ、あいつぅ。感じが悪いったらありゃしない」
そう独り言ちながらも、曹丕が待っているので、司馬懿は片足を引きずって回廊を歩いて行く。
すると、今度は
「あっ、奥方様。おはようございます。今朝の騒ぎは何事ですか?」
「…………」
玉の肌と花の
彼女を我が物にせんと欲していた曹操を出し抜き、曹丕が
だが、声をかけられた当の彼女は、どういうわけか顔が死人のように青ざめている。司馬懿をチラリと
いくら何でも失礼だ。礼儀正しく教養のある彼女が人を
「よほどの大事があって動揺しているのか。それとも、顔面蒼白で逃げ出してしまうほどこの俺が嫌いなのか……。前者だな、うん。きっとそうに違いない。嫌われるようなことをした覚えなんか――あっ。湯浴み中の彼女の裸をうっかり目撃したことがあったわ。じゃあ、やっぱり嫌われている……?」
メタボ武将の真ごときに忌み嫌われたところで
* * *
「公子様。先日の
「ご苦労。そこの書類の山の上に置いておけ」
「……相変わらずきったない部屋ですねぇ。書類の山が崩れたら、どれが何の怪異の記録だか分からなくなりますよ?」
「問題ない。その時は、お前に探させるから」
「問題大有りだからそれ。俺がメチャクチャ困るから。……ったく。ちょっとは書類の整理をしたらどうなんですか」
司馬懿がブーブー言うと、
「フフン。今日はずいぶんと機嫌が悪いな。さては、声をかけた美女に無視でもされたか」
「ぐっ……。千里眼でも持っているんですか、あんたは。そうですよ。公子様の奥方に挨拶をしたら無視されたんですよ」
「ハッハッハッ。なるほどな。そいつは失礼した。妻にかわって謝ってやる。めんご、めんご」
「謝罪にぜんぜん誠意が込められていない……。別にいいんですけどね。俺、あの方に嫌われるようなこと、確かにやらかしましたし」
「水仙は、お前が嫌いで無礼な態度を取ったわけじゃないさ。彼女はいま、心が千々に乱れているんだ」
曹丕はそう言いつつ、すぐそばに置いてあった籠に手を伸ばす。籠には大ぶりの梨がたくさん入っている。その内の一つをひょいと司馬懿に投げて渡した。
「食え。甘くて美味いぞ」
「あっ、どうも。家に帰ったら、妊娠中の妻に食べさせます」
「そういうことなら、籠ごと持って行け。屋敷にはまだたくさんあるゆえ遠慮はいらん。ただ、食べさせ過ぎは良くないから気をつけろ」
(普段は意地悪なくせに、たまーにすごく親切なんだよなぁ。この人)
心の中でそう呟きながらも、司馬懿はありがたく籠を受け取った。
ちなみに、司馬懿と妻の張春華は、司空府からほど近い屋敷で新しい生活を始めている。
司馬懿は無位無官のため、これまで屋敷を与えられず、ここ司空府で寝起きさせられていた。しかし、妊娠中の妻を迎えたため、曹丕が特別のはからいで新居を用意してくれたのだ。新居に移って、そろそろ十日が経つ。
めでたく復縁した二人は、新居で毎日穏やかに暮らし……と言いたいところではあるが、実はそうでもない。夜に幽鬼メイドの
妊婦なのだから安静にしていろと叱っても、エキセントリック女房の彼女は聞く耳を持たない。近頃の司馬懿は、夜になるのがちょっと憂鬱だった。
「ん? 仲達よ。お前、少し痩せたみたいだな。新居で何かあったのか」
「あ~……。別に何でもありません。それよりも、今朝はどうしてこんなにも屋敷が騒がしいのですか?」
「ああ、それはな、戦地からの使者が到着したからだ。
「だからこんなところでぐーたらしていたのですね。皆が真面目に働いているっていうのに……。しかし、戦に勝利したということは、曹公(曹操)が近々帰還されるということですな」
「まあな。遠征中に陣没した
そう語る曹丕の表情に、わずかに険しさがあったため、司馬懿は(そういえば……曹丕の異母兄の曹昂は、張繍に殺されたという噂を耳にしたことがあったな)と敏感に察した。
張繍がようやく曹軍に降ったのは、曹操が天下分け目の
案の定、曹操は大喜びし、張繍の手を取って歓迎した。息子の一人の
しかし、兄を殺されている曹丕は、張繍のいまさらの降伏が不快だった。張繍が何か頼み事をするために曹丕の元を訪れても、
――俺の兄を殺したくせに。
と吐き捨て、面会を拒絶したという逸話が残っている。
そんな男の訃報が届いたのだから、曹丕が複雑な心情を抱くのは当然のことである。
ただ、性格が悪いこの若者であれば、「あの老いぼれめ。辺境での戦に駆り出されてくたばりやがったか。ざまあwwwwww」などと、もっと悪態をつくような気がする。そうしないのには何か理由があるのだろうか。司馬懿は少し気になった。
「張繍が死んだのに、喜ばないのですね。貴方の兄の仇だったのでは?」
「兄だけではないさ。奴には、
「……なるほど。
「まぁー本当は奴が死んだら思い切り
「え……えっとぉ~……。公子様も、敵将の人妻だった水仙様を強奪したのですよね? 父親のこと言えます?」
「ハン! 俺とクソ親父は違う。一緒にするな」
そう言い放つと、曹丕は、戦地から届いた報告書を乱暴に投げてよこした。
「見ろ。その書簡には、愛妻を見捨てて異郷に逃げ去った、『敵将』殿の最期の様子が詳細に記されている。俺はその男の代わりに水仙を守っているのだ。奴にどう怨まれようが、屁とも思わぬわ」
司馬懿は言われるがまま、その木簡を広げ、目を通す。そこには、袁紹の息子たち――
「袁煕……。水仙様の元夫ですな。なるほど。彼の訃報を聞いて、水仙様は取り乱していらっしゃったのか」
曹操の烏桓征伐の発端は、烏桓族が亡き袁紹の息子たちをかくまったことにある。この報告書によると、曹操は
袁煕と袁尚の兄弟は逃亡し、
――袁紹のガキたちを助けたら、今度は俺が曹操に攻められる。
そう判断して、袁兄弟を捕縛。即座に首を
袁尚は斬首される直前、「寒いから
すると、袁煕は、この期に及んで見苦しい振る舞いをする弟を諌め、「首が万里の旅に出るというのに、いまさら蓆など必要あるものか」と語ったという。
「首が万里の旅に出る、か。袁煕は死を覚悟し、堂々と果てるべくそう言ったのでしょうな。武将としては天晴れな最期だった、と褒められるべきでしょう」
「まことに覚悟を決めていたのならばいいが……あの男にはこの世に大きな未練がある。万里の旅の果てに奴の魂がたどり着くのは、冥府ではなく、ここ鄴城やも知れん。用心するに越したことはない」
「用心? 何のですか?」
司馬懿が首を傾げると、曹丕はフンと鼻を鳴らし、「決まっているだろう」と言った。
「悪鬼化した袁煕に祟られた場合の用心だ」
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