戦地からの報せ

 曹昂そうこうの死から十年後、建安十二年(二〇七)九月。


 その日、ぎょう城の司空府しくうふ(曹操の政庁兼屋敷)は朝から騒々しかった。屋敷内の人々が、慌ただしく行ったり来たりして、何やら落ち着きがない。


 司馬懿しばいは、回廊でバッタリ会った曹丕の腹心のしんに「おい。何かあったのか」とたずねた。


 しかし、真は無言で司馬懿の向うずねを蹴り、痛みで悶絶している司馬懿を放置してどこかへ行ってしまった。


「いってぇ~……。何だよ、あいつぅ。感じが悪いったらありゃしない」


 そう独り言ちながらも、曹丕が待っているので、司馬懿は片足を引きずって回廊を歩いて行く。


 すると、今度はしん水仙すいせん会遇かいぐうした。


「あっ、奥方様。おはようございます。今朝の騒ぎは何事ですか?」


「…………」


 玉の肌と花のかんばせそなえた曹丕の正妻は、いつ見ても輝かんばかりに美しい。


 彼女を我が物にせんと欲していた曹操を出し抜き、曹丕がかすめ取ったという話を華佗かだから以前聞かされたが、父子で取り合いになるのも不思議ではないと思えるほどの妖美な魅力がこの女人にょにんにはある。幼な妻の張春華ちょうしゅんかにゾッコンの司馬懿すらも、水仙に話しかける時は、いささか緊張して頬が赤らんでしまうのであった。


 だが、声をかけられた当の彼女は、どういうわけか顔が死人のように青ざめている。司馬懿をチラリと一瞥いちべつすると、そそくさと走り去ってしまった。


 いくら何でも失礼だ。礼儀正しく教養のある彼女が人を無視シカトするなんて、かなり珍しい。


「よほどの大事があって動揺しているのか。それとも、顔面蒼白で逃げ出してしまうほどこの俺が嫌いなのか……。前者だな、うん。きっとそうに違いない。嫌われるようなことをした覚えなんか――あっ。湯浴み中の彼女の裸をうっかり目撃したことがあったわ。じゃあ、やっぱり嫌われている……?」


 メタボ武将の真ごときに忌み嫌われたところでとも思わないが、美しい女人に冷たい態度を取られるのは心傷つくものである。司馬懿はしょんぼりしながら、曹丕の仕事部屋に足を運んだ。




            *   *   *




「公子様。先日の馮貴人ふうきじん事件の顛末てんまつ、命じられた通りに竹簡にまとめてきました」


「ご苦労。そこの書類の山の上に置いておけ」


「……相変わらずきったない部屋ですねぇ。書類の山が崩れたら、どれが何の怪異の記録だか分からなくなりますよ?」


「問題ない。その時は、お前に探させるから」


「問題大有りだからそれ。俺がメチャクチャ困るから。……ったく。ちょっとは書類の整理をしたらどうなんですか」


 司馬懿がブーブー言うと、しょう(ベッド兼ソファーの家具)に寝転んでいた曹丕はムクリと身を起こして意地悪そうに微笑んだ。


「フフン。今日はずいぶんと機嫌が悪いな。さては、声をかけた美女に無視でもされたか」


「ぐっ……。千里眼でも持っているんですか、あんたは。そうですよ。公子様の奥方に挨拶をしたら無視されたんですよ」


「ハッハッハッ。なるほどな。そいつは失礼した。妻にかわって謝ってやる。めんご、めんご」


「謝罪にぜんぜん誠意が込められていない……。別にいいんですけどね。俺、あの方に嫌われるようなこと、確かにやらかしましたし」


「水仙は、お前が嫌いで無礼な態度を取ったわけじゃないさ。彼女はいま、心が千々に乱れているんだ」


 曹丕はそう言いつつ、すぐそばに置いてあった籠に手を伸ばす。籠には大ぶりの梨がたくさん入っている。その内の一つをひょいと司馬懿に投げて渡した。


「食え。甘くて美味いぞ」


「あっ、どうも。家に帰ったら、妊娠中の妻に食べさせます」


「そういうことなら、籠ごと持って行け。屋敷にはまだたくさんあるゆえ遠慮はいらん。ただ、食べさせ過ぎは良くないから気をつけろ」


(普段は意地悪なくせに、たまーにすごく親切なんだよなぁ。この人)


 心の中でそう呟きながらも、司馬懿はありがたく籠を受け取った。


 ちなみに、司馬懿と妻の張春華は、司空府からほど近い屋敷で新しい生活を始めている。


 司馬懿は無位無官のため、これまで屋敷を与えられず、ここ司空府で寝起きさせられていた。しかし、妊娠中の妻を迎えたため、曹丕が特別のはからいで新居を用意してくれたのだ。新居に移って、そろそろ十日が経つ。


 めでたく復縁した二人は、新居で毎日穏やかに暮らし……と言いたいところではあるが、実はそうでもない。夜に幽鬼メイドの小燕しょうえんが姿を現すたびに、春華は剣を抜き放ち、「おのれ! 亡霊め! また化けて出たか!」と怒りながら小燕を追いかけ回すのである。


 妊婦なのだから安静にしていろと叱っても、エキセントリック女房の彼女は聞く耳を持たない。近頃の司馬懿は、夜になるのがちょっと憂鬱だった。


「ん? 仲達よ。お前、少し痩せたみたいだな。新居で何かあったのか」


「あ~……。別に何でもありません。それよりも、今朝はどうしてこんなにも屋敷が騒がしいのですか?」


「ああ、それはな、戦地からの使者が到着したからだ。烏桓うがん征伐の勝利や幾人かの味方武将の死亡などを報せてきた。まあ、俺は面倒だから、使者の対応は曹洪そうこうのクソジジイに全部丸投げしているけどな」


「だからこんなところでぐーたらしていたのですね。皆が真面目に働いているっていうのに……。しかし、戦に勝利したということは、曹公(曹操)が近々帰還されるということですな」


「まあな。遠征中に陣没した張繍ちょうしゅうの弔いを済まし次第、帰国の途につくらしい」


 そう語る曹丕の表情に、わずかに険しさがあったため、司馬懿は(そういえば……曹丕の異母兄の曹昂は、張繍に殺されたという噂を耳にしたことがあったな)と敏感に察した。



 宛城えんじょうの戦いで痛恨の敗北を喫した曹操は、その後も張繍を何度か攻撃したが、破ることができなかった。

 張繍がようやく曹軍に降ったのは、曹操が天下分け目の官渡かんとの戦いで袁紹えんしょうと対峙していた時期である。参謀の賈詡かくが「曹操にとって正念場であるいまこそが、彼の軍門に降る好機です。将軍の精鋭騎馬兵が味方に参じれば、曹操は必ずや将軍を重く用いるはずです」と進言したため、張繍はそのげんに従ったのだった。


 案の定、曹操は大喜びし、張繍の手を取って歓迎した。息子の一人の曹均そうきんを張繍の娘と結婚させ、破格の待遇で迎えた。


 しかし、兄を殺されている曹丕は、張繍のいまさらの降伏が不快だった。張繍が何か頼み事をするために曹丕の元を訪れても、


 ――俺の兄を殺したくせに。


 と吐き捨て、面会を拒絶したという逸話が残っている。



 そんな男の訃報が届いたのだから、曹丕が複雑な心情を抱くのは当然のことである。

 ただ、性格が悪いこの若者であれば、「あの老いぼれめ。辺境での戦に駆り出されてくたばりやがったか。ざまあwwwwww」などと、もっと悪態をつくような気がする。そうしないのには何か理由があるのだろうか。司馬懿は少し気になった。


「張繍が死んだのに、喜ばないのですね。貴方の兄の仇だったのでは?」


「兄だけではないさ。奴には、従兄弟いとこ曹安民そうあんみんと武術の師匠の典韋てんいも殺された。怨みは底なしだ。しかし、死んでしまった奴のことをけなしても仕方がないだろう。どうせ今頃、冥府めいふで俺の兄や曹安民、典韋と再会し、袋叩きにされて報いを受けているだろうしな」


「……なるほど。死屍ししに鞭打つような真似はせぬ、ということですか。性悪な公子様にしては立派な心がけですな」


「まぁー本当は奴が死んだら思い切り嘲笑あざわらってやろうとずっと考えていたのだがな。しかし、よくよく考えれば、奴もまた被害者であると言えなくはない。密かに想いを寄せていても、手を出せずにいた、義理の叔母を俺のクソ親父に奪われたのだ。そりゃぁ激怒して攻めて来るだろうよ。未亡人を手籠めにするなんて、クソ親父は本当にクソだ。なんもかんもクソ親父が悪い、ということさ」


「え……えっとぉ~……。公子様も、敵将の人妻だった水仙様を強奪したのですよね? 父親のこと言えます?」


「ハン! 俺とクソ親父は違う。一緒にするな」


 そう言い放つと、曹丕は、戦地から届いた報告書を乱暴に投げてよこした。


「見ろ。その書簡には、愛妻を見捨てて異郷に逃げ去った、『敵将』殿の最期の様子が詳細に記されている。俺はその男の代わりに水仙を守っているのだ。奴にどう怨まれようが、屁とも思わぬわ」


 司馬懿は言われるがまま、その木簡を広げ、目を通す。そこには、袁紹の息子たち――袁煕えんき袁尚えんしょうが死んだと記されていた。


「袁煕……。水仙様の元夫ですな。なるほど。彼の訃報を聞いて、水仙様は取り乱していらっしゃったのか」



 曹操の烏桓征伐の発端は、烏桓族が亡き袁紹の息子たちをかくまったことにある。この報告書によると、曹操は白狼山はくろうざんの戦いで烏桓族の首領蹋頓とうとんを斬り、大勝利をおさめたという。


 袁煕と袁尚の兄弟は逃亡し、遼東りょうとう公孫康こうそんこうを頼った。しかし、公孫康は、


 ――袁紹のガキたちを助けたら、今度は俺が曹操に攻められる。


 そう判断して、袁兄弟を捕縛。即座に首をねた。


 袁尚は斬首される直前、「寒いからむしろをくれ」と公孫康に訴えた。


 すると、袁煕は、この期に及んで見苦しい振る舞いをする弟を諌め、「首が万里の旅に出るというのに、いまさら蓆など必要あるものか」と語ったという。



「首が万里の旅に出る、か。袁煕は死を覚悟し、堂々と果てるべくそう言ったのでしょうな。武将としては天晴れな最期だった、と褒められるべきでしょう」


「まことに覚悟を決めていたのならばいいが……あの男にはこの世に大きな未練がある。万里の旅の果てに奴の魂がたどり着くのは、冥府ではなく、ここ鄴城やも知れん。用心するに越したことはない」


「用心? 何のですか?」


 司馬懿が首を傾げると、曹丕はフンと鼻を鳴らし、「決まっているだろう」と言った。


「悪鬼化した袁煕に祟られた場合の用心だ」

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