四章 曹丕の秘密
宛城の戦いAD197
「乱世を生き抜く武器は、ただ己の才のみ」
これが、才能至上主義&偏執的人材コレクター、曹操のモットーである。
ゆえに、自分の息子たちへの愛情も、才能で優劣を決めた。
――父上は、我らが強くなることを望んでいる。その期待に応えねばならない。
まだ純粋で、反抗期に突入する前だった頃の曹丕少年は、誰よりも努力する子供だった。幼少期から
だが、そんな曹丕が初陣の戦場で見た景色は、地獄だった。
その戦いで、少年は、敬愛する兄と武術の師匠を失い、父の冷酷な本性を知ったのである……。
建安二年(一九七)春。曹丕、十一歳。
曹操は、
しかし、曹軍が宛城に入城した十日後、予想外なことが起きた。一度降ったはずの張繍が、突如反旗を翻し、曹操を襲ったのである。
元凶は、
「曹操ッ! よくも鄒姉さんを犯したなッ! ぶっ殺してやるッ!」
張繍は烈火のごとく怒り、攻めて来た。
どうやら、この男、鄒氏に惚れていたらしい。義理の叔母だから手を出すのは倫理的にヤバイよねと思って自重していたというのに、よそからやって来たスケベジジイに
張繍軍の参謀には、
この時、曹操は不覚にも、この異変にすぐに気づくことができなかった。鄒氏をアンアン鳴かせて
この時点で曹操は大半の将兵を失っており、宛城からの脱出は困難を極めた。
曹軍きっての猛将
曹安民もまた、猛追してくる敵の騎馬兵に後ろから斬られ、落命した。
何度も後ろを振り返りながら馬を走らせていた曹丕は、二人の死の瞬間を目撃した。
「典韋が……典韋が死ぬなんて……。まだ教わりたい技が山ほどあったのに……。なぜ典韋がこんなところで戦死しなければいけなかったのだ? 鄒氏とかいう女のために……」
乱戦の中、曹丕はいつの間にか父や兄とはぐれ、一人になってしまっていた。馬が流れ矢に当たって
四肢に力が入らない。いまにもくずおれてしまいそうだ。自分に武術を叩き込み、実の父親よりも愛情深く接してくれた典韋の死が、少年の魂を奈落の底に叩き落としていた。
このまま、俺は死ぬのか。
「丕よ。……丕よ、ここだ!」
自分を呼ぶ声にハッとなった曹丕は、周囲を見回した。
「子脩兄上! よくぞご無事で!」
「お前もな。……見ろ、敵の武将から馬を一頭奪ってやった」
「兄上が乗っていた馬は?」
「父上の愛馬
「えっ。父上は、兄上を残して先に逃げたのですか」
「当たり前だ。父上が討たれたら、我が軍は何もかもが終わりなのだから」
「し、しかし、庶子である俺とは違って、兄上は曹家の嫡男――」
「あの方には、そんなこと関係ない」
曹昂は、わずかに強張った声で曹丕の言葉を遮ると、弟の手に手綱を握らせた。
「城の方角から
曹丕は困惑し、長兄の顔を見上げる。
「二人で逃げないのですか。見たところ、これは涼州産の軍馬。これだけ逞しい馬なら、二人で乗っても短時間なら……」
「心優しい我が弟よ、よく聞け。そんな甘っちょろいことを言っていたら、乱世は生き残れぬぞ。張繍軍の馬は、みんな涼州産だ。二人で一頭の馬に乗って逃げれば、足が遅くなって、生存の確率がぐんと下がる。確実に生き残るためにも、お前だけが乗って逃げろ」
「一人しか逃げられないというのならば、俺がここに残って戦います。俺は常日頃から母に言われているのです。『父上のために命を使いなさい。嫡子である子脩様を敬いなさい』と。ここで自分だけが逃げたら、母を失望させてしまいます」
「丕よ……悪いな。俺に残された時間はあとわずかなんだ」
暗く笑い、曹昂は視線を落とす。
曹丕が兄の腹部を見ると、人体に大きな穴が開いていた。そこから、どくどくと血が噴き出している。これは間違いなく致命傷だ。
「この馬に乗っていた、
「あ、兄上……」
「天命というやつだよ。お前には見えていないようだが、私のすぐ後ろに、
恐い話が好きな曹丕は、昔から曹昂に様々な怪異譚を語り聞かせてもらっていた。だから、少年は(鬼籍を持っているということは、その男は冥府の役人だ。あの世から兄上と典韋の魂を迎えに来たのだ)とすぐに察した。
「か……華爺さんなら……。名医の
「もういいのだ。私の最後の役目は、お前を生きて父上の元に帰すこと。たとえこの先、私が生きていても、きっと限界がある。だが、お前なら、必ずや歴史に名を残す男となるだろう。兄の分も、お前が生きろ。頼むから生きてくれ」
「そ、そんな……。俺は、兄上を見捨てて生きたくなんか……」
「時間がない。さあ、馬に乗れ。……行かねば斬るぞ!」
温厚な兄が怒鳴る姿を、曹丕は初めて見た。
この深手、どう見ても兄は死ぬ。ここで曹丕がもたもたしていて、兄弟そろって討ち死にすれば、兄の想いを無駄にしてしまうことになる。曹丕は、苦渋の決断をせざるを得なかった。
「兄上……子脩兄上……申し訳ありませぬ!」
曹丕は、兄に詫びると鞍に
「誰のためでもない! 自分のために生きろ!」
曹昂の声。振り返ると、彼は優しく微笑んでいた。
それが、曹丕が最後に見た兄の姿であった。
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